内部生活者の手記

読書記録と雑文集

このブログを始めるにあたって

新しく始めよう

 このブログを始めるにあたって、その趣旨や方向性などをいくつか述べておきたい。まずは僕の関心が変わっていく度に記事のテーマも変化していくということだ。なぜなら、僕は現時点では学部生であって様々なことに興味を持っているのだから、今後もどんどん興味の対象が変わっていくことが予想できる。

 しかし今後ずっと書き続けていこうと思っている題材もある。それは哲学や思想を中心とした人文学と社会問題についてだ。確かにこの二つは次元としても学問分野としてもだいぶ違うように見える。しかし僕にとって興味のある哲学は、社会や人間一般における多種多様かつ日常的な問題意識を抽象化したテーマを扱うので、そこにはなんらの不規則性も無く、むしろ抽象と具体や理論と実践を結びつける、テクスト上での意識的な実験としてこのブログを位置付けている。

 だからこのブログの基本的なスタンスとしては、哲学などの書物の読書メモと意見や疑問、そして社会問題に関する本の読書メモ、さらにはそういった問題の解決にあたる団体に対する取材活動とそれを通しての考察を書いていきたい。だから個人的な内容は書かないし、まずはテクストの客観性を大事にしたいと思う。しかし現場を歩いた経験については別だろう。つまり自分自身の「社会を見る目」を養うためにも主観的な認識を無下に扱うわけにはいかないということだ。まずはとにかく「読みっぱなし」や「やりっぱなし」を避けるべきであって、読書にしても経験にしても血肉化の作業を怠ってはならないのである。

 こうした事情からブログの名前をどうしたらいいものかとても迷っていた。僕の内面においてはある程度きちんと整合性があるのにも関わらず、それをタイトルとして提示するには僕の語彙が足りないせいで、ここ1週間ぐらいずっと考えていた。そうして考えたのが、将来のことも決まらずあいまいな状態にある僕自身の状況すらをも表す名として『複線的な文脈の上で』とした。

 

このブログの目的

 内容はすでに書いた通りだが、そもそも「何のために書くのか?」という問題が残っている。これについてはある程度個人的な事を書かねばならないだろう。いきなり前言撤回とはテキトーなヤツである。もちろん今後は書かないけども。

 さて目的についてだが、実は2012年に世界を旅していた時以降、個人的な日記から本の内容や思索についてまで様々なことを書き散らかしていたブログがある。これはこれで別に続けていく予定なのだけども、一方できちんとしたレポートのような文章を書く機会が足りていなかった。つまり既存のブログは自分のための文章に終始していたわけである。

 しかしそうした内容は、僕個人の知り合いしか読まないだろうし、しかも興味を持って読んでくれる人はさらに少ない。だが僕自身の今後の方針で唯一ハッキリしている事として「文章を書いていく」ことを決めたので、不特定多数の人たちに読んでもらえるモノを書かなければならない。というより、むしろもっと色んな人に読んでもらえるモノを書きたいという欲求から、このように別のブログを作ったわけだ。

 そして僕はとても欲張りなので、たくさんの人に対して僕にとって知ってほしいことを書きたい。つまり哲学をはじめとした学問と教養の面白さや、多種多様な社会問題について、僕の言葉で伝えたいわけである。

 「多種多様な社会問題」と書いたが、実は僕もこの日本社会についてよく知らない。なんせ浅学無知で能天気な大学生だから、という言い訳もできないほどに僕は何も知らない。というわけで僕自身が自ら学び知りながら、同時にそれを発信したいと思う。つまり「社会に出る」という言葉に反して、すでに「社会に居る」ということの自覚の下に動きながら考えたい。周囲10mが平穏ならそれでいいとは、僕は決して思えないのだ。

 

言葉の可能性

 最後に、このブログの究極的な目的について、というよりも理念的な部分について書いておこう。まず今の僕は「言葉」に強い執着がある。ある種の信仰めいた感覚さえある。こう言うと何か怪しげな雰囲気があるが、しかし問うならば根源的な自分の根拠とは何だろうか。自分が唯一無二の自分たりえる条件とは何だろうか。言い換えるのならば、他者との差異とはどこにあるのだろうか。たぶんその答えはいくらでもあるだろう。僕の場合はその答えに言葉を見い出す。僕が編み出す言葉にこそ僕が在ると思う。

 さらに言うのならば、他者との間にある絶望的なほどの断絶さえも言葉は、否、言葉こそが飛び越えていくのだと感じている。そうして人は世界を繋ぎ止めていく、紡いでいく、織り成していくのだと僕は信じている。だからこのブログはその実践の場である。

 僕は書く。誰かのために。そして僕自身のために。