郊外の共同体、マルクス的解釈

・はじめに

 高度経済成長期を経て日本全体が都市化の一途を辿り、核家族やホワイトカラーや郊外のニュータウンなど現代的な生活スタイルとも呼ばれるそれが当たり前になって久しい。団地の多い東京郊外で育った著者自身にとってはもはやそれこそが故郷であり、日本古来の農村・漁村の共同体の暮らしなどは歴史の教科書の中でしか知らない。

 ただしそれは著者の主観的な「日本像」でしかなく、もちろんそういった暮らしは現在でも地方に行けばいくらでも存在するだろう。そこで今回は日本の地方性ではなく都市の郊外性の問題を扱う。さらに限定して言えば、土地からも他者からも切り離された核家族が住まう都市社会について、そしてそこでも「地元」という観念を形成していることについて考えてみようと思う。

 

・郊外と団地、その背景

 都市郊外における地元という観念は、まずその暮らしと密接に関係していると言っても過言ではない。そこで以下に暮らしの中心である住居の様子とその背景を考察してみる。

 1950~1970年代に都市周辺で計画的に建設された「集合団地」は、水洗トイレやキッチンや風呂やベランダなどが部屋(家)に取り込まれ、近代的な暮らしの象徴として当時は羨望の眼差しを浴びた。

 この背景には日本が高度経済成長期にあり、さらには1950年の朝鮮戦争により重工業の需要が拡大、そして固定相場制による円安での輸出有利な状況が経済状況を敗戦の惨状から引き上げた。そうして国民総生産が世界2位を記録し、国民の生活は物質的には一気に豊かになっていく。具体的には「三種の神器」が有名だが、要は暮らしの中にモノが増えていく傾向にあった。

 こうした日本の経済成長と具体的な暮らしの向上に伴い、都市部の人口が過密になってきたことを受け、都市の周辺である郊外に「ニュータウン」と呼ばれる計画住宅街が開発された。この住宅街は現在でも見ることができるが、それらが建設された以後に生まれた著者にとっても少し不気味な感覚を与える様相をしている。

 というのも、幾何学的に線引きされた区域に全く同じ形の建物が何棟も並列され、そしてそれらは番号で区分されている。この均一性は当時の社会状況をもっともよく反映していて、つまり60年代の日本では自らの経済レベルを中流と答えた人が世論調査のうち8割を超えたという事実を象徴して「一億総中流」という国民意識があったように、同質化もしくは水平化された暮らしという集団的な意識の表象として集合団地の形相を見ることができるのである。

 中流的な意識を基礎づける原因は、やはり生活の内部に電気機器の充実し始めたことが挙げられるだろう。しかしより根底的な原因はアメリカに向けられた憧憬にある。戦後ではあるが戦争経験者がまだたくさん生きていた頃は、各人がどんなレベルであれアメリカに対する劣等感と、そして父的な存在という認識を持っていたと推察できる。なぜならそれは「追いつき追い越せ」という大衆の人口に膾炙したキャッチフレーズのとおり、追いつくべき相手=アメリカが社会や世論における判断基準たりえる存在であったことを示している。

 ところで、日本がこうした後追いの感覚を国民全体が感じたのはこれが二度目である。一度目は言わずもがな、明治維新であり、文明開化であり、国家体制の革命的な変化であって、そしてその二度ともが外圧的な原因による変化だ。つまりこうした国民意識の向上感ないし変化は、欧米という父的な審級の下にあったと言えるだろう。

 さて、以上のような模倣の先に生まれたのが郊外の団地的な暮らしであるとするならば、団地を暮らしの中心としてどのような社会があったのだろうか。

 

・コミュニティの条件

 生活様式や経済レベルが一定の水準で均質化したという話を踏まえて、そうした社会における都市郊外の社会的なコミュニティとはいかなるものだったのか。まずそもそもコミュニティの構成要件としてどんなものが考えられるのだろうか。

 コミュニティとはまず複数の人が必要であり、それらが集合する場も必要である。さらにそうした存在と空間とには何らかの「括り」が存在するはずで、つまり「私たち」を他者と区別するための事実もしくは観念が必要である。

 わかりやすい事例として日本の旧来的な農村共同体を挙げるなら、老若男女で構成される親戚同士や一族郎党が田畑の周辺にコミュニティを形成しており、農作物の生産に合わせて暮らしが営まれていたはずである。だからこの場合の「括り」とは、「生産」を中心とした農村という空間と「事実」としての血や姓だ。またこの共同体を保つための規範には、伝統的な道徳観、性別や年齢ごとに振り分けられた役割、農業を営むための生活リズムなどが考えられる。

 では一方で郊外の団地的コミュニティとはどのような様相になっているのだろうか。まず上記の農村社会とは決定的に違う部分を挙げるとするならば、それは中心であるはずの生産がそこには無いということだろう。つまりドーナツ化現象が起きている都市部において郊外とはベッドタウンであり、まさしく「寝に帰る町」なのだから、この暮らしに生産は内在せず外部にある。否、この場合は現代的な都市社会を取り扱っているのだから、もはや直接的な「生産」ですらなく「労働」と言った方がより正確だろう。

 そしてまたこの空間における人々の形態は最小単位での核家族であり、団地という集められた上で寸断されている状態であった。すなわち親しくない隣人が密集していると考えれば、そこから連想できる「よそよそしさ」は、農村共同体における厚かましいぐらい「親密さ」と対照的に映るだろう。

 ここまでをまとめると、団地に住まう人々の空間とは核家族が画一的に並べられつつも、それらが生活の空間において統合・交流することはなく、さらにはその空間を秩序付けるような中心的営み(=生産)が欠落している。それではもはや空虚に感じられるこの空間ではコミュニティは形成されないのだろうか。

 

・学校による共同体

 以上で考察した現代の問題は、核家族ごとに分断された状況と外在的な労働は共同体的な社会として人々を統合して秩序付けることができないことであった。しかしそのような状態にある郊外にも共同体というほど緊密な関係ではないけども、確かにコミュニティは存在する。

 共同体の中心であった生産が不在であるのは田畑が無いからだが、それを代替するのは「学校」であり、そして家族<ウチ>を他者<ソト>に接続するために媒介する者は「子ども」である。言い換えれば分断され固定化された最小単位の社会を「ミックスする」ような装置こそが学校であり、そしてそこへ放り込まれ他者を引き連れて帰ってくる者が子どもだということだ。

 ここで言う学校とは義務教育課程までの公立小中学校のことであるが、なぜそうなのかというと、本来は土地に密着した生産から切り離された人々が、再び土地に帰着するための場こそ「地元の学校」だからだ。そして学校というのは農業のように自然な時間の流れがあるわけではないが、しかし人為的に管理され決められたスケジュールが存在し、必然的に子どもの生活が規定されてくる。となると、家族の暮らしにもその時間の流れが影響してくる。畢竟、生活に時間的な秩序が生まれ、さらには学校における子どもを媒介して人々がゆるいコミュニティを作るようになる。もちろん上記では学校を取り上げたが、学校の周縁にもそのような効果を持つ「場」が存在する。具体的に言えば、塾やスポーツクラブや公園や学童クラブなどだろうか。

 そのような場において子どもは共同体を作り上げる。たとえば赤ん坊は自分も世界も全てが接着しているように認識しているからこそ、自分の指を舐めて自分の輪郭をつかむ。それと同じような感覚を引きずっている子どもは未だ他者を他者として、つまり断絶こそが前提であるという認識が足りておらず、思いやることができない。思いやるというのは、一見して優しさであるように思われるが、しかしそれは冷酷な断絶が自分と相手の間に横たわっていることを言明するに等しい。

 つまり子どもは無邪気であり無配慮であるからこそ、無作為に他者と接続し、共同体的な関係のネットを構築していく。ここでの共同体というのは学校での半強制的に接続された関係を基盤にして、さらにはその周縁でのつながりも含めたものであり、各人の傾向性から生まれる固定的な「友人関係」とはまた別のものだと考えられる。

 以上のような考察から導き出される共同体を「地元」と呼ぶことにし、以下に地元という観念について詳細に考えてみることにする。

 

・地元という共同想像

 旧来の共同体において、その中心は農作物の生産にあると前述した。その生産過程こそが共同体の時間的秩序を規定し、さらには人間関係におけるそれぞれの役割をも措定する。もう一方の近代的な共同体、つまり地元という共同体においては学校が関係の中心として代替されるのだが、そこでは一体何が生産され、そしてその生産関係を保つ社会的装置としては何が存在するのだろうか。

 しかしそもそもマルクス的な解釈によるならば、労働や生産が共同体的な暮らしの外部へと移行した時点でその場には文化や政治的なやり取りという上部構造しか残らないはずである。もちろんその場における主体は現代の子どもなのだから、マテリアルな交換関係を持つはずもなく、大前提として労働という観点は存在しない。それにも関わらず、現代の郊外における共同体を取り結ぶのは子どもたちなのだ。では、共同体としての中心的な場(=学校)はあるのに、そこでは何も生産されていないのだろうか。(=下部構造の不在)ここに素朴な疑問がある。

 まずマテリアルな何か(=商品)の生産の目的とは社会的な発展にある。もう少し言えば人の生活が豊かになっていくことを目指している。だとするならば、こちらの地元的な共同体の目的とは何だろうか。それは共同体における主要な主体である子供の成長にある。しかし成長という概念(より厳密に言えば「変化」)は教育的な目的である学力や身体能力の発育にのみに限定されない。だから教育的な目的を持つ場というのは一つの社会的装置でしかなく、ただし子どもを媒体として構築される地元的な共同体においては中心的な存在である。とにかくそうした様々な場において、より本質的に子どもの成長を規定するものの総体として挙げられるもの、それは「記憶」である。

 なぜ非物質的な記憶なのかというと、商品の交換関係が欠落した共同体にあって、それでもその関係のネットを保つものとして考えた結果である。ただしこの記憶というのは個人の思い出ではなく、共同体としての間主観的な記憶である。言い換えれば、一人の子どもが成長していく過程の記憶を自分個人の思い出からはみ出て、ほかの誰かとの関係にまたがって想起される記憶だ。そのようにして、子どもが介在する場において行われる事の目的がいかなるものであろうと、必ず副産物として記憶が生成され、更にはそれらが子どもの周辺の人間関係にも共有・交換される。以上のことから地元的な共同体は、具体的な個体や団体の意志とは関係なく、記憶の生産が擬似的な下部構造として機能するのだ。

 となると、学校を中心的な場として生産される「こどもたちの記憶」を基底にして造り上げられた社会的文化的な諸関係であるところの「地元」とは、相関的に織り成された間主観的な共同想像ではないだろうか。だから記憶の生産を行う場(=学校)が無くなった場合には(=卒業)、社会的な利害関係を含む地元的な共同体は解体される。下部なき上部は崩壊し、そこにはただの友人関係しか残らない。

 郊外における共同体は以上のようにして限定的な存在でしかなく、子どもが一定の成長を遂げた途端、つまり義務教育の終了から20代前半という過渡期において再び人々は土地(=地元)から分断される。理由は「進路」という名の人生的な分岐点が子どもたちには必ず訪れるためである。これは学校における空間性と時間性の規則によって統御されていた生活の秩序が、それぞれの家族ごとに分化していくことを示している。

(*共同想像とは、吉本隆明共同幻想という概念とは別の造語であり、もし共同幻想を使うとこの文章の論理と矛盾するためにあえて別の言葉を使った。)

・終わりに

 この文章は始まりでしかなく、地元的な共同体以降の話も考えている。実際の社会問題として「居場所」や「繋がり」という言葉は良くも悪くも話題にのぼるわけで、社会における見えないソフトな側面について考える事は今後とも重要だと思っている。