年間100冊読んでみて思ったこと

 大晦日まで約1か月を残して年間読書量が100冊を突破した。ということで、今年の読書経験を振り返ってみようと思うが、その前に読書そのものについて少し書いてからにしよう。

 僕は基本的にどんな形式のものでも読む。大衆小説、純文学、詩、ラノベ、新書、学術書など、なるべく色々と読んできたつもりだ。

 今の僕にとって本は食べ物と近い感覚である。食べ物はその食感によって区別されることがあるが、それと同じだということだ。軽いもの、重いもの、やわらかいもの、かたいもの、ツルツルしたもの、ザラザラしたもの・・・etc

 様々な本の種類は、こうした食感的な区別によって僕のなかでカテゴライズされている。だから、例えば「重たくてかたい」ような哲学書をゴリゴリ読みまくる日が続くと、脳みそが「軽くてやわらかい」ような大衆小説を欲するのである。そこで有川浩三上延あたりの小説を読んでみると、凝り固まった頭が解きほぐされていくような気分になるわけだ。しかし食生活を営む上で焼き肉とお菓子しか食べないなんてことがないのと同じように、様々な食感=読感を求めて色々な種類の本を読むのである。

 ただ知的好奇心と上記のようなバランス感覚に従って読書をするのが、とても読書家的な態度だと僕は思っている。では、僕はそういった意味で読書家だろうか。そうは思わない。なぜなら僕は読書が好きであるのと同時に、一応ではあるが専攻分野を持つ学生なので、自分の勉強範囲に従って本を選別することも必要だからだ。

 すなわち一定期間は何らかのテーマに沿って文献資料を集め、それらをただ消費するのではなく生産のための材料として捉えて読む必要がある。例えば、僕のはてなブログに記載してある『郊外の共同体、マルクス的解釈』の延長線上、修正版として『郊外の人間たち』を今も書き続けているが、そのために歴史的な資料、郊外を扱った文学作品、社会学的な統計データ、社会哲学的な理論書などを集めて、必要とあれば本の中に線を引いたり付箋を貼ったりしていつでも引用できるようにしてある。

 そういうわけで、僕の読書はたんなる消費に留まらない。たとえそれが小説だとしても、そこから引き出せる問題や見いだせる社会背景などはたくさんあるし、この現実世界や身近な人間模様など具体的な場面を考えるための一つの基準としてそれらを用いることはできるのだ。その用い方は書くことである場合もあれば、人から相談を持ちかけられて何かを答えねばならない場合でもあったりする。そうした生産的な読書の汎用性は実に高い。

 読書はどこまでいっても個人的な営みであるという主張を知らないわけではないが、ハッキリ言ってそれは誤りである。たとえそれが消費であろうが趣味であろうが救済であろうが、読書の営み自体は他者や世界に対する認識のマトリクスを拡大し変化させ細分化する効力を持つ。つまり読書は自分の目を変えるがゆえに目の前の世界を以前とは違ったものとして現前させるのである。

 後期ウィトゲンシュタインが『哲学探究』の第二部で知覚アスペクトという概念を用いて知覚論を述べたが、それに従うなら人間は目の前の全ての事象に対して、自分の持つ知識や経験に照らし合わせながら「~として」見る・感じる・理解するわけだから、その「~」の部分はまさに読書が提供するところの最たるものだろう。

 要は、読書は個人の内的な構造に対して何らかの影響力を及ぼし、そして他者に対する全ての行為は個人の内部から始まるがゆえに、結果的にその影響力は他者へと向かってしまうものなのだ。

 ところで、目に見えるものが能力や技術として重視される昨今においては、能力向上としての読書は非常に効率が悪く標準化することもできないので、一般的にあまり重要視されていないように感じる。べつに政府や企業に読書を奨励してほしいなんてことを言いたいわけではないし、そもそも商売道具としての知識はとても限定的なものだろう。

 たんなる仮定としてだが、僕が言いたいのは、商売道具としての知識と生活周りの情報だけしか有しない頭脳というのが、全生涯的な観点で考えた時に一体どれほど貧弱なのかということだ。言い換えれば、自分の思考する範囲が会社と実生活の域に留まり、自己や他者といった根源的な問題、社会や国家といった大規模な問題には全く無関心になってしまうのである。この両者の間に労働や暮らしは成り立っているのだから、五里霧中で足元もマトモに見えない状態を良しとしていることになる。

 読書ひいては学んで考え続けない人は、自分と世界のなかで迷子になってしまう可能性が高いように思う。迷子というのは、すなわち自分自身の価値基準や自律的な理性や道徳観といったものが曖昧なままで、人生のうちに起る様々な出来事に振り回され続けてしまうことだ。

 まぁそんな必要性を力説をする前に、そもそも読書は楽しいのだ。何にしても夢中になれる時間というのは人生の醍醐味だと思う。読書が夢中になれる事の1つになれば、それだけ人生が豊かになったと考えられるだろう。

 

 さて、それでは今年の読書を振り返ってみよう。

 哲学・思想という観点に絞って最初の方のことを思い出してみると、キルケゴール死に至る病カミュ『異邦人』から僕の本格的な読書は始まった。どちらの著者も実存哲学と分類されているが、前者はキリスト教を基軸とした人間の心理についての考察、後者は一人の男が殺人を犯したことをめぐっての物語という文学形式のものだ。

 それから哲学に関する入門本として橋爪大三郎『はじめての構造主義』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、石井洋二郎『フランス的思考-野生の思考者たちの系譜など、こちらの業界ではとてもポピュラーな著者の書いたものを読んだ。

 次に現代文明論の入門編ということで、佐伯啓思20世紀とは何だったのか』、塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか』、立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』の3冊を読んでみた。これらは自分が生きるこの大衆社会や科学文明の世界を考えるうえで絶対に必要な視点を提供してくれたと思う。

 ところで、僕は人文学部ヨーロッパ文化学科だから「文学」というジャンルは外せない分野だと思う。そこで印象に残っているものを幾つか挙げたい。バタイユ眼球譚は一回読んだら一生忘れないキワモノだろう。ただしどんなものなのかを調べてから読むことを強くお勧めする。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』については、それを読んだ当時の若者が自殺してしまうという社会現象を引き起こしたことで有名だが、時代を超えて共感しうる内容だった。恋に悩む男子は読めばいいと思う。コクトー恐るべき子供たちは、現実の出来事と虚構の心象が入り混じる世界を描き出す、非常人的な自意識過剰もしくは想像力から捻り出された一冊である。そして、ヨーロッパの文学ではないがカナダの作家ウィリアム・ギブスンニューロマンサーは言わずと知れた近未来系SFの原点だろう。電脳世界に意識ごと没入し、生体工学や臓器移植によって生身の身体を改造することが可能になった世界で、最もヤバいとされているコンピュータ複合体に主人公が潜入する。ハードボイルドなテイストで描かれるサイバーパンクな世界観。こーゆーのが好きな人は大興奮間違いなしである。そしてこれが1984年に書かれたというのも驚きだ。

 そして日本文学だけども、僕は日本史をきちんと勉強した事がないので体系的な知識があるわけではない。それでも純文学から大衆文学まで代表的な作品はいくつか読んだ。三島由紀夫金閣寺を読んだとき、それが長いこと評価され続けている理由が少し分かった気がした。三島が捉える人間の劣等感、罪悪感、背徳感といった心理描写に僕はとても惹かれた。小林多喜二蟹工船・党生活者』は文学の政治性という観点を与えてくれたし、当時の共産主義運動に関するリアリティを感じ取ることができた。ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎『見るまえに跳べ』は、一人の男子大学生が生々しく揺らぐ現実を生きる姿を描いたものだ。

 一方の大衆文学では、内館牧子十二単衣を着た悪魔』というタイムトラベル系のSF小説が深く記憶に残っている。時代背景としては平安時代の貴族の暮らしを描いたものなのだが、作品の本質はうだつの上がらない三流大学卒のフリーター青年がその暮らしを経て成長し変わっていく姿にある。ところどころで自分と主人公を重ねてしまい夢中になって読めた。文体の自由さに衝撃を受けるという経験は、中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読んだときが初めてだった。一見して意味不明な単語の羅列に見えるそれが、全体を通してみると意味が浮かび上がってきて、夏休みに秋田から帰る電車のなかで中島の「言わんとすること」を読み取るのに必死になった。有川浩の新作『明日の子供たち』は、今までの有川の作品のテーマであった恋愛モノではない、児童養護施設を舞台にしたシリアスなものだった。これは大衆小説でありながらも様々な意味を含んだ社会的主張である。児童養護施設での犯罪事件が現実で起きていることを踏まえて読む必要はあるけども、それでもしかしこの作品は家庭問題に対して真摯に向き合うものだ。最近読んだ小説のなかで一番のおすすめである。

 どうでもいい話だが、僕はフィクション小説が書けない。というか書いたことがない。僕が書けるのはノンフィクションだけである。そこでノンフィクション小説を二つ紹介したい。開高健『輝ける闇』は、ベトナム戦争が起きている当時に作者自身が現地のアメリカ軍に帯同した話だ。僕自身がベトナムに訪れたこともあって、とても具体的に想像を膨らませながら読むことができた。血生臭さや泥まみれのゲリラ地帯を緊張感いっぱいに感じたし、あの蒸し暑い湿気すら肌に感じられそうな一冊だ。次に、震災直後の被災地の人間模様を扱った石井光太『遺体』については、これまた僕自身の経験に照らし合わせながら読めた。震災当時、僕は高校卒業直後で直ぐに仙台を訪れて市のボランティア活動に参加したけども、あの時に僕が見た異世界の風景のなかであの緊急事態を過ごした様々な人たちを巧みな文章構成と言葉で追随する著者の力には驚嘆してしまった。

 唐突だけれども新書が僕は好きだ。より正確に言うならば、新書のサイズ感が好きだ。1テーマで200~250ページぐらいのサクッと読める感じがとても気軽で良い。最近の話題に絡めるならば、「イスラム国」は全世界の注目を集めているけども、日本人にとって中東世界はとても遠いように感じる。ヨーロッパよりも距離的には近いが心理的には遠い。そこで、酒井啓子『<中東>の考え方』はアメリカ寄りの報道しかしない日本のマスメディアによるイスラム観を変えるのに有効だ。イスラム3.0の潮流を歴史的な観点から理解することができるようになっている。一転して教育分野についてだが、苫野一徳『教育の力』は思想的な文脈から教育を眺め、そして現在の日本の教育問題に対して非常にリベラルかつ生産的な提言を行っている。教職課程の学生や学校の教員は一読すべき本だと思う。中根千枝『タテ社会の人間関係』を新書と位置付けていいのかは疑問だ。古典的新書とでも言えばいいのだろうか。日本とインドの人間関係を比較社会学の見地から分かりやすく述べてあり、発刊からだいぶ時間の経った今でもいかに日本社会の体質が変わらないのかに気付かされる。社会学部とかだと課題図書にされていることがあるらしい。一時期で話題になった小平の住民投票を覚えている人はいるだろうか。哲学研究者 國分功一郎『来たるべき民主主義-小平市都道398号線と近代政治哲学の諸問題』は、政治領域における学問的知識と市民的な実践を結びつけるための本だと思う。ちょうど今は「民意を問う」衆議院選挙の直前だけども、民意という抽象的な存在が云々だとかではなく、住民という具体的な主体の望みが政策に反映されているのかについて疑問を持ったことがある人もいるはずだ。小平住民投票の出来事を通して國分はその問題に切り込んでいる。政治に対する市民活動に興味がある人たちは必ず読むべき一冊だし、これを読んだ某地方自治体職員いわく「行政に関わる職員、特にこれからの若い職員はこの本に書かれている問題に直面するはずだ。公務員こそがこれを読む必要がある」と評価していた。

 

 最近やっと読めるようになってきた難しめの専門書はだいぶ省いたけども、印象に残っていて単純に面白いと思いながら読んだ本をざっと紹介してみた。ところで、読書は二重の意味で旅と近いものがあると思う。本のなかの虚構的な世界を旅するということと、そして本によって変化した認識や観点から見る現実の世界がその時々で違って見えること-・・すなわち自分の目の前で世界が旅することである。

 読書をしたこの1年間は、旅をしたあの1年間と同じぐらい変化の激しい年だと僕は思っている。これが成長なのかどうかは知らない。社会の時流に適応した変化なのかどうかも分からない。分かっていることは、本を読むことを通じて僕がたくさんの世界に触れて、そこで感じたことが僕を変えていくことである。読めば読むほど加速度的に自分の思考にドライブがかかり、今まで見えなかった事や考えなかった事が突如として浮かんでくる。

 僕がこのような1年間で得たのは、インターネットに溢れかえる切り売りの情報をコレクションしたような知識ではなく、本という大きな世界が紡ぐ物語へと没入することによって内面化された知性だ

 

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