郊外について、序

 まるで水彩画のように滲んだマリンブルーの空が、幾何学的な鉄筋コンクリートの塊によって切り取られている。両側にそびえたつ団地に挟まれた坂道を歩きながら、この町のことについて考えてみる。青梅街道に突き当たって、あらためて目の前の風景をじっくりゆっくりと眺める。

  1950~80年代の人口増加に伴い、山の手から同心円状にスプロールした郊外化の波がここにもやってきて、そしてこの風景がある。物流と交通のネットワークを形成する街道、それに沿って燃料供給の要となるガソリンスタンドと東京ガスのガスタンクが二つ、ロードサイドビジネスの中心となっている外食産業とコンビニ、今この文章を書いている場所はデニーズである。

 この町、郊外を意識して見てみると、普段の日常性というオブラートは簡単に剥がれ落ちて、ある種の超現実、シュールレアルな表情が浮かび上がってくるように思える。団地は城壁であり、ガスタンクは太った鉄製の巨人であり、街道をひた走る車たちは働きアリの群れである。では、ここに住む人間たちはなんだろうか。人間たちとは、モノの体制によって成り立つこの町にとって一体どんな存在だろうか。もちろんこの町は本来、人間のために人間たちが作ったのであるが、しかし人間臭さもしくは生活感と言えるそれがこの町では極端に薄れているような気がしなくもない。

  ここに住む人間たちは、こういった町を必要としていたにも関わらず、いつの間にかこの町に必要とされる1つの機能として還元されているのではないだろうか。電車が次から次へとやってきてはその腹いっぱいに人を詰め込んで都市の各所へと送り込む様は、まるで栄養分や酸素を含んだ血脈のように見える。そしてこの町に林立するマンションと団地は、この地域に張り巡らされた街道をせかせかと走る働きアリの巣のように、しかし地下ではなく地上の空間に地層を作っては穴を空けるという奇妙な巣である。

 外観も内部の構造もキッチリと整理整頓された奇妙な巣もとい住宅は、共同性なき集合体の表象とも言うべき形相をしている。そう、喩えるならば各種の部品やツールを収納する道具箱のような、設計に基づいた通りでなければ結びつきえないパーツのように、合理的な理由がない限り住人たちは分断されている。

 同じような街並みだが、急行が止まる隣町はすこしばかり栄えている。そしてその様相も機能的で、計画性がありありと見て取れる。駅前にマンション付きの大きなショッピングセンターが、それも周りの建物より幾分か高くて、それこそが町の象徴であるかのように仁王立ちを決め込んでいる。そしてその周囲には郊外的な諸要素としてのマクドナルド、サンマルク、ゲーセン、学習塾、薬局、銀行、パチンコ屋、居酒屋、ツタヤとブックオフが、中心的な存在であるショッピングセンターに従えられるようにして集まっている。反対側には市庁舎と図書館があるけれども、とてもこじんまりとしていて影が薄い。こうして対比してみると、商業経済が公共的な政治や文化に対して優越していることを視覚的に訴えかけられるようである。

 

 再び住宅街に、それも学校周辺に視線を移してみよう。とても個人的な話題で恐縮だが、僕は小学生から中学生になる時に越境進学をしている。越境進学とは、行政によって決められた学区域を越えて本来の進学先とは別の学校にいくことである。この経験は僕にとってとても大きな意味があったのだが、それは今関係ない話なので立ち入らない。ただしかし子どもにとっての郊外を考える上で重要なイメージを与えてくれたことは書いておきたい。

 とても不思議なことだということに中学生当時の僕は気づかなかったのだが、道や線路によって線引きされた区画によって進学先が決められ、そこでひとたび学校的な共同体が形成されると、それまでは意識しなかった<ウチ>と<ソト>が町の中に領域として現れるのである。実際に、僕は進学しなかった方の中学校の前を通って登下校を繰り返していたのだが、そこを通る度に何かこう居心地が悪い気分だった。その中学校に進学した小学校の時の友人関係にはべつに何も問題が無いのにも関わらずだ。

 そしてまた、極端な例ではあるが、中学校別で領域化された地区にはヤンキーのたまり場的な場所が必ずあり、それは大体の場合に広めの公園であったり市のスポーツグラウンド場の片隅であったりした。縄張り意識なんて言葉に言い換えていいのか少し戸惑うが、僕は小学生の時に行政区をまたいだ四つの小学校から成るサッカーチームに所属していたり、前述のように越境進学したせいで、そういった縄張り的な領域には敏感だった。

 たったの道一本分、それが大きな街道ならまだしも、大した事のない住宅街の一角を縁取るだけの道が人に領域を意識させる。ただし駅前の商業区域だけは共有エリアだった気がする。となると、<ウチ>-<マチ>-<ソト>のような郊外の様相が見えてくる。

 ところで、学区域の境界線という意味を持つ「道」以外にもこうした社会的領域が分かれる理由がもう一つある。当たり前の話だが、それは人である。とは言っても、全ての人ではなくて各中学校の「制服」を着た生徒たちのことだ。これが「道」を流通して初めてその領域は実質化するのだ。制服だけでなく学校指定のジャージでも構わない。つまり人物がどこの学校に帰属するのかが明示されていればよいのだ。学区域の境界線としての道、共同体の明示性としての制服、これらが郊外の内部をウチとソトに領域化するコード(=規範)として機能するわけである。

 以上に示した領域は、物理的強制的に区画化されているわけではなく、情報によって自発的に意識し管理ー維持される区画だ。すなわち、学校的な意識が学校という建物をはみ出て、そしてまたその意識の実質としての学区域と制服が、郊外の内部に社会的な領域を作り出すのではないだろうか。