戦後70年、震災後4年、僕は人間22年目

「原点が存在する」 

 とても個人的な話からはじめたいと思う。

 僕はもうすぐ22歳になる。あの3.11に22歳となる。そのことについて僕個人だけが何か特別な運命のような観念を抱くのは、控えめに言っても妄執が過ぎるというものだろう。しかし事実は事実であり、その日に特殊な意味付けがなされた2011年以降、3.11の日はマスメディアやインターネットで死者の冥福を祈る言葉が溢れかえる、そしてそんな日が僕の誕生日となっている。

 あの時、僕は高校卒業を数日前に控えて友達と昼ごはんを外で食べていた。突如として大きな揺れが来ると、そのあまりの異常さに表現しえない困惑を感じたことを覚えている。すぐに友達の数人が携帯電話でテレビのニュースを見ると、事態がただならぬことを伝えるばかりで、その後は店員に促されて外へ出た。

 家族の安否を確認してからというもの、家でひたすらテレビを見続けていた。当時の自分の日記を読む限り、そこから察することができるのは、「この事態が一体何なのか分からないということの不安」と「自分自身の倫理観が問われていることの切実さ」である。

 結果として、3月の約2週間だけ仙台市若林区の役所が募集するボランティアに参加して、主に沿岸部のガレキ撤去作業をやったわけだが、思えばあれが初めての一人旅であり、今の僕の「原点」だったのかもしれない。活動内容に関しては言及しない。問題はそれではなく、あの震災直後の仙台から4年を経て考えたことである。

 まず衝撃的な風景よりもまして、記憶はあの場所の人へと吸い寄せられる。勤め先の会社が跡形もなくなった人、家族を亡くした人、多くのクラスメイトを亡くした同い年の女の子、自分の家が全壊してしまった人、僕は泥作業の現場で、喪失の深淵が開いたその場所で、幾度となくそうした人たちに出会った。

 灰色の空に覆われた混沌の陸地で、黙々と手を動かすあの姿を、忙しなく駆け回る姿を、淡々とした表情の下に底知れぬ何かを抱えるあの人たちを僕は忘れない。

 しかし僕は今でも、そしていつまで経っても、あの人たちの気持ちを理解することはできないだろう。共感も同情も代弁も、自らの想像力の貧しさを露呈するだけだ。この想像においてできることと言えば、震災という現象の多面性と変容を前提にすること、そして想像力の限界を意識しながらも、それでも様々な他者を捉えんとする想像の運動を止めないことだろう。

 

 

「特別な日」

 1年間という歳月のなかには、社会的に何らかの意味づけが施された日が様々に存在する。しかし戦後に定められたいくつかの祝日や祭日の無根拠さについて、福田恒存は『文化なき文化國家』の「紀元節について」で批判的な論考を展開した。というのは、各種の祝日に一貫した文化の有機的統合(たとえば農耕社会の生活サイクル、もしくは神話としての天皇を巡る歴史的な物語)が存在しないということだった。

 それではたんなる祝日ではなく、特別な意味合いを持つ日といえば、8月6日と9日の広島・長崎に原子爆弾が投下された日や、8月15日の終戦記念日などがある。3.11はこちらの文脈で意味付けられているように思われる。すなわち、福田が批判したところの「一日休みが増えるだけ」といった意味合いではないということだ。

 国民全体の感情を揺り動かす日、とでも言えばいいのだろうか。しかし93年生まれの僕にとって終戦記念日敗戦記念日と言った方がいいだろうか)は、正直に言ってリアリティの欠片もない。不謹慎なことを言うようだが、戦争の記憶がとっくに風化し切ったあとの時代に生まれた僕にとって、それは歴史の教科書のなかでしか見ることができない。

 他方で、震災の記憶は強烈なリアリティ、いやリアルであったのかすら不安になるほどの衝撃的な経験は、確かにその日が来れば嫌でも思い起こさざるをえない。一瞬にして日常の景色から色彩と音を消去したような、散々VTRやらドキュメンタリーを見たこの今でも“ハッキリしない”光景が、3.11のたびにフラッシュバックする。

 急いで付け加えねばならないが、これは「だから終戦記念日はどうでもいいんだ」といった類いの主張では断じてない。ただの実感として、しかし素直にそれを言葉にすることが憚られるようなこと、それを述べたまでのことである。

 特別な意味合いを持つ日付を巡る一連の話で何が言いたいのかというと、僕の内的な実感とは関係なく、世間もしくは社会では二つの日に関して同じような言説が大声で飛び交うであろうということだ。悲しい記憶、繰り返してはならない出来事、生命の尊重etc・・・。

 終戦と震災の日を同様に扱って追悼を重々しく語るたくさんの口に、個別の特殊な出来事を平板化してしまうような言説に、僕は不信感を覚える。さらに言えば、その日が来たからという理由で、突然思い出したかのように平和や戦争や政治を語り始める集団的な状態に、僕はある種の恐ろしさを感じる。

 これも急いで付け加えねばならないが、「だから黙れ」というわけではない。まったく無いよりは何かあった方が良いのだから。ただ僕が不信に思い、恐れを感じるのは「二つの日を同様に扱って」と、「突然思い出したかのように」という二つのことに対してである。

 この感情をハッキリと言葉で理由づけることはなかなかに難しいが、それに近いようなことを次項に続けたいと思う。

 

歴史認識と社会」

 8月15日と3月11日ついて順に書いていこう。

 まず前者からだが、僕の認識としては、敗戦記念日は全ての国民に反省を促す日であり、民主主義と平和主義を約束する日でもあったはずだ。一方で後者は、その民主主義や平和主義といった理念に対する国家と国民の怠惰が露わになった日であるように思う。

 何を根拠にそう考えるのか?それを一介の学生が述べるのは気が退けるが、端的に申し上げれば、時の政府が「なんとなく」戦争に突っ込んでいき、それに国民も流されてしまったのと同じように、原発を「なんとなく」政府と国民は使い続けたわけで、そのことを丸山真男は自立した個人なき「無責任の体系」と評した。

 一体なぜこのような状態が続くのか。それは丸山の議論では、当時の天皇を頂点とした上から下への権力関係が下位への「抑圧移譲」を生み、結果として誰もが主体として責任を負わない体制になってしまうという主張に拠っている。

 しかしこれは別に戦前・戦時だけに限った話ではない。読者の皆様も経験したことがないだろうか、仕切ってくれる人が現れた途端に誰もがその人任せにしたり、勝手に仕切られたら次第にやる気が無くなってくるような気分を。

 それが権力のタテ構造における弊害であり、現在にまでその構造は保存され続けているように思われる。こんなことは戦後ずっと言われ続けてきたことなのだろう。

 ただし、こうした構造が存在しているからこそ、「無責任の体系」を原因とした二つの出来事の違いは大きいと僕は思うのである。というのは、震災後のこの現状において、敗戦直後のようなアメリカ主導の直接的な社会変革はありえないし、国民の反省とやらも既に空虚なものとなっているわけだ。つまり「無責任な大人たちを責める」といった敗戦後のやり方だけでは全く足りなかったということが震災によって分かったのである。しかし、世間ではそれを繰り返す言説ばかりが横行しているように思える。

 遠回しに言うのが面倒くさいのでハッキリ言うが、この現在においては、「反省のポーズ」も「責任追及の叫び声」も、そのどちらもが僕にとっては虚しい所作のように見えてならない。べつに「反省なんてしなくていい」とか「責任を追及するなんて無駄だ」とか言いたいわけではない。ただ反省にしても責任追及にしても、主体としての自己がどこにあるのかさっぱり分からないということだ。現在という時間と、自己自身の立場が、あいまいに伏されたままである。

 ところで、そんな所在不明の状態を表す例として挙げたいのが「社会に出る」という使い古された日常的な言葉である。確かにこれは言葉遊びに過ぎないのかもしれない、しかしそこに僕はある集合的な無意識を感じる。

 というのも、社会に「出る」ということは、出る以前の時間と場所が存在することを示唆するものであるが、これは「嘘っぱち」に相違ないのである。なぜならば「社会に外はなく、我々は既に社会に居る」のだから。これはちょっと考えてみれば分かる話で、何の人間関係もなく生きている人がこの現代社会に一体何人いるだろうか?ほとんど皆無なはずである。

 では、一体この言葉は何を意味するのだろうか?まず対象の大半は学校に所属している子どもたちだろう。しかしそれにしてもおかしい、学校は社会ではないのだろうか?子どもたちは社会の一員ではないのだろうか?そして働いていない人たちは?老齢な人や生活保護受給者は社会の一員ではないのだろうか?

 しかしそれでもまぁいいとして、では「社会に出た」としよう。会社勤めをしている人間が社会の一員であることに違いはない。しかしその会社だけが社会ではないだろう。他にも「社会」はあるのではないだろうか?例えば、行政区議会の選挙から総選挙までの各種投票に行かない人は民主主義社会に参加していると本当に言えるのだろうか?そして投票だけでなく、最終審議は国民の手によって行われなければならない諸問題、原発や死刑制度や安全保障や改憲など、これらについて各個人はどれだけの知識を有しているだろうか?

 話を戻そう。戦後の平和と繁栄という物語に内在していたのは、「大人たちの反省」と「大人たちに対する責任追及」という態度であったのだが、それがどんな帰結をもたらしたのだろうか?まさに前述した「社会に出る」という言葉に表れるところの、無意識的な疎外と怠惰である。

 白井聡は『永続敗戦論』で、そんな戦後の期限が切れたことをハッキリ次のように述べている。

 「この二十年の間に、民主主義の虚構は暴かれ、平和は軍事的危機へと向かいつつあり、経済的繁栄は失われた。もはやしがみつくべき「戦後」はどこにも見当たらず、満足すべき現状などどこにも存在しない。」

 すなわち「戦後」は終わったのである。あの3.11を境に崩壊したとも言える。

 それなのに「あのような出来事を二度と繰り返してはならない」と叫ぶ声は終戦記念日に加えて、3.11にまたしても繰り返される。マルクスは言う「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と。3.11以降に「戦後民主主義」や「平和主義」を叫ぶことは、もはや茶番なのかもしれない。

 

「國体護持と民主主義」

 インターネット内での政治的言説に関心が無い人は、ネトウヨとかリベサヨといった単語に馴染がないかもしれない。まぁ要はネットスラングだと思ってもらえばいい。この二つの単語は、政治的立場をざっくりと示している。僕の認識では、天皇=國体護持を国民の求心的中核に据えたい側をネトウヨ、民主主義や人権といった概念を社会の基盤としたい側をリベサヨだと思っている。

 ところで、國体とは何かと言えば、天皇を中心とした国家に対して個人が自ら進んで犠牲となるシステムのことである。こう言うと非常に偏っているので、もう少し説明すると、天災や戦争といった個人ではどうしようもない場合に、自分の利害を捨てて国家を護る、その動機として天皇がいわば神的な存在として顕現することである。

 この天皇=國体護持という仕組みに対して、たいていの人はある種の不気味さ、もしくは馴染めなさを感じるのではないだろうか。しかし一方で、これを熱心に復活させたいと願う人たちがいることも事実である。すなわち愛国的な日本人が普通であると、日本は戦争に負けたわけではなく、ましてやアジア諸国になど劣るはずもないと言いたい人たちのことである。しかしそれでは何故アメリカには対峙しようとしないのだろうか?と、愛国者を名乗る総理大臣をはじめとした親米保守の人々に僕は問いたい。

 そして「美しい国、日本」をスローガンに掲げる人々が愛国保守だと名乗るなら、僕はその保守論壇における大家にお話を伺ってみたいと思う。福田恒存『文化なき文化國家』の中にある「世代の斷絶といふ事」の177ページから以下に引用を記す。

 「近頃は、その反動(過去で負けた大人たちに対する否定)として、良く「愛國心」といふ言葉を耳にしますが、私達が自分の國に愛情を持つためには、自國が世界で最も美しく最も善い國であり、一度も間違ひを犯した事が無い國である必要が何處にあるか。自分の國だから愛する、それ以外に何の必要もありますまい。」

 以上のように仰っている。僕はこの部分に関しては何も言うところがない。そして、これこそ「普通の日本人」の感覚ではないだろうかと思う。ネトウヨは戦後のこうした保守論壇の文脈をおさえているのだろうか?少なくとも僕にはそうは見えない。「戦後」を飛び越えて戦時・戦前の、決して回復しえない亡霊のような共同幻想に恋焦がれているように思える。

 他方で、リベサヨとは何かといえば、これも僕の認識でしかないが、要は戦後の民主主義に依拠した政治的にリベラルな立場である。しかし「歴史認識と社会」の項でも述べたように、戦後民主主義は怠惰に、すでに虚構へと堕していた。それなのに、インターネット上でネトウヨが騒ぎ出せば「反知性主義だ」とか「感情の劣化だ」とか、ヒステリックもしくは冷笑的に糾弾する。

 タイムリーな話であるが、そもそもリベサヨが依拠する人権においても「表現の自由」をはじめとしての様々な問題が解決していない、社会的な合意に達していないわけで、僕個人に関してはヘイトスピーチに対して反対であるが、しかしそれを全て排撃していいものなのだろうか?法律として禁じていいものなのだろうか?

 自分たちと意見や立場を異にする一定数の他者を、ネトウヨもリベサヨも共に排除の論理によって片づけようとしているように僕は見える。それは最終的には反-政治的なナチズムに通じるような気がしてならない。政治とは、各々の国家観としての物語を説得的に訴える行為ではないのだろうか。

 加えて両者は、国の構造に対してもまったく別の構図を見ているのではないかと思われる。というのも、はじめの方で前述したように天皇を頂点とした家父長制に基づく道徳の共同体が国民をタテに統御するのに対して、立憲民主主義は人民主権による統治と憲法による人権条項とに基づくヨコの構造という、権力関係の広がりにおいて構図の相違があるのではないかと思っているわけだ。

 ともかく、以上のような両者の分裂的な状況を、僕は日本の戦後政治の状態として見ている。

 

「絶対なき時代、もしくはニヒリズムの時代に」

 この章では前項の政治的対立を離れて、より一般的な既成事実としての国民に近づきたいと思う。これは誰々へという名指しの文章ではなく、むしろただの大学生である僕自身へ向けた文章なのかもしれない。

 「人はそれぞれ正義があって」と謳うSEKAI NO OWARI「Dragon Night」という曲が世間でその人気と共に話題を呼んだ。野暮なことを言うようだが、非常に色濃く時代性を反映した歌詞だと思う。つまり極端なことを言えば、何事に関しても「人それぞれ」が通用している時代だということである。

 これを裏返せば「絶対」の何かを退ける風潮とも言えるし、前項に照らし合わせてみればより分かりやすく現状を把握することができる。すなわち、國体に代わる何を民主主義において守るのか、それが未だ分からない=「人それぞれ」になってしまっているということだ。もう少し言えば、国という単位を維持するために何を国民的求心力として据えるのかという問題でもある。

 例えば、最近のフランスを見てみよう。表現の自由、つまり法を守るという名目の下にあれだけの国民が右派や左派を超えて「Je suis Charlie」を名乗り自治意識を顕わにする。そのリアクション自体が良い事なのか、悪い事なのか、それは措いておくが、ともかく国家が法を基盤としていることについて国民がよく理解していることを示す一例として見ることはできるだろう。

 翻って日本はどうだろうか?国民が全員一致で「これを守るべき」もしくは「あれを目指すべき」という何かはあるだろうか。少なくとも僕にはそうした何かが分からない。そしてこの社会に遍在するのはたった一つ、シニカルなニヒリズムだけだと思う。

 ニーチェは次のように言う。「ニヒリズムとは何を意味するのか。―――――至高の諸価値が無価値になること。目標が欠けている『何のためか』への答えが欠けているのである」(『力への意志』第二番)と。つまり「答えなんて無いんだよ」という言説だけが社会的に保持されているのである。

 この社会における虚無の専制状態、すなわち非-政治の感覚が、市場至上主義(言い換えれば「今日食うメシが大事」)と相まって「模索としての戦後以後の政治」の可能性を押し潰しているように僕には見える。そしてそれこそが当然であるかのごとく現状を支配している。

 ところで、戦後左翼の代表者であった小田実は『義務としての旅』のなかで、社会的な主流勢力=エスタブリッシュメントからの切り離し(dissociate)と、少数派への荷担(commitment)という二つの意識操作を、人種平等と機会均等という民主主義の重要な要素にそくして行うことが、反戦平和運動の原理だと論じた。これはあくまでベトナム戦争が起きていた当時の主張である。

 この切り離しと荷担を現状に適用するならば、皮肉にも小田実の主張した戦後民主主義を超えて、すなわちニヒリズム(=無目的)としての民主主義から自己を切り離し、荷担するその先(=民主主義において絶対に守らなければならない何か)を探さなければならない。これは白井聡が『永続敗戦論』の最後の部分で主張していたことと重なる。

 

「リンゴとパイ生地」

 この章で「荷担するべき何か」を書こうと思ってから3日が経った。正直なところさっぱり思い浮かばない。いわゆる「近代の超克」について前章で問題提起を行ったわけだが、考えれば考えるほど虚無感の底に吸い込まれるようである。

 僕のような凡人がこのようなことを考える事自体が間違っているのかもしれない。江戸的道徳観からすれば「身のほどを知れ」というところだろうか。しかし世間に対する「どうにもならなさ」に諦観を認めてしまうことこそ、無責任の体系に繋がるとも思えるわけである。

 しかし前項で説明したようなニヒリズムの状態をどれだけ分析的に記述したところで、どこまでいっても答えは出てこないのである。すなわち「リンゴ」をいくら分かり易く分解してみせたところで、いつまで経ってもそこから「アップルパイ」は出てくるわけがないということだ。

 だからこそ「パイ生地」を用意しなくてはならない。例えば、リンゴの欠片が僕であり、読者のあなたでもあるとする。そして僕らがそれぞれ別の個体のままならば、それは無秩序な状態である。すなわち、真っ白なお皿の上で四方八方へ転がっているだけで、放っておけばどんどん酸化していく生の素材である。

 それを避けるために、リンゴの欠片をパイ生地に包んで、周りにカスタードクリームでも塗ってオーブンへ突っ込まなければならないわけだ。(本当のアップルパイの作り方は知らない)

 この「アップルパイ」の喩えは、なにも関係ない事を言っているわけではなくて、現状を理解するために考えてみた一つの例である。

 戦後の日本社会は、戦時中の天皇中心主義国家に対する反動として様々なレベルで自由化・個人化が推し進められてきたのではないかと思う。先に申し上げておくと、僕はここでリバタリアニズムだの新自由主義だのという話に立ち入る気はない。この章では、あくまで一市民としての目線で政治を見ていきたいからだ。

 戦後社会の特徴、すなわち「生活の個人化」、それがどんな思想的背景を持つものであったとしても、これはある程度広範囲に渡って妥当するのではないだろうか。具体的に言えば、家には一人一部屋が与えられ、人生設計は自由競争の枠組みを前提に考え、そして一人一台以上は持っている携帯電話には、個人アカウントのSNSに接続できるアプリをいくつもインストールしている、ということだ。

 こうした具体例の根底に広がるのは、これまた「人それぞれ」である。しかし別に僕は生活の個人化すべてが悪だとは言わない。僕だってそうした環境のなかで育ってきたわけで、その良い部分をたくさん享けてここまできた。

 ただし個人化が「過ぎる」と思うこともあるわけで、それは何かと言えば、個人が何らかの社会に拠らなければならない場合である。集団的な行動を採る必要に迫られた状態とも言える。この場合に問題となってくるのは、この集団に内包される人々(=リンゴの欠片)を、どのようなルールや物語(=パイ生地)に乗せるのかという問題である。個人化が「過ぎる」と、この「パイ生地」の底が割れた状態になるわけだ。底が割れた状態、これこそが戦後日本の到達点であって3.11で明白になったわけだ。

 ところで、第二次安倍政権が成立して以降、国民は動揺しているように僕は感じる。動揺とは、より根本的な意味で言うならば、パイ生地の底(=戦後民主主義)が割れて散り散りになってしまった自分たちに対して、安倍総理(と、親米保守層)が提供する特定の歴史観としての物語(=別のパイ生地)を、自分たちが共有できるかどうかの以前に、その判断基準自体を喪失していることに薄々気づいているということである。

 しかしこの別のパイ生地ではどうも古びて馴染みがない、かといって底が割れたパイ生地では不安と虚無感に苛まれる。その両者の間でリンゴの欠片はコロコロと右往左往しているように見える。知識層の人々は、この底が割れたパイ生地の修復方法を考える方に注力しているようで、それはそれで一つの具体的な方法だろう。

 

「人間22年目の見解」

 ここまでの文章は民主主義の政治における諸問題に対して何ひとつ答えを与えるものではない。事実として、僕は現時点で何らかの答えを出せる経路を見つけてはいない。

 ただ言えることは、ここまでに提示してきた問題はビジネスで解決しえないということだ。そしてビジネスの視点だけでは問題の核心を捉えることができないことでもある。

 「政治は全ての社会の代表者である」と述べたのは、アルジェリア独立戦争の際にフランスの帝国主義的資本主義を批判して、独自のアルジェリア独立論を展開した政治学者のレイモン・アロンであるが、まさにこのことである。

 学問としての専門知やビジネスの合理性は確かに重要であるし、それを無しにして何かを論じることは難しいだろう。しかし、それらは素材もしくは手段に過ぎない。この民主主義社会においては、目的は国民一人一人の政治的判断にある。

 政治的判断とは何か。僕が思うに、それは何かの出来事や現象を、想像しうる限りの社会全体(すなわち、自分とは異なる他者の混在状態)のなかで捉えたうえで下す価値判断のことである。価値判断とは、具体的な状況において何が最も善い価値なのかを判断することである。

 排除としての反-政治ではなく、虚無としての非-政治でもなく、懐古的な政治の季節でさえない、ポスト戦後の政治を個々人の現実内に創り出すことが「時代から」求められている。

 

「参考文献」

白井聡『永続敗戦論』

杉田敦 編『丸山真男セレクション』

福田恒存 『文化なき文化國家』

小田実 『義務としての旅』