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或る蛮人の書誌

読書記録と雑文集

教科書の小話

僕は小中高ずっと授業の時間が好きではなかった。

退屈でしかなかったし、板書を写すことすら億劫だった。予習・復習なんてもってのほか。だから当然テストの成績が良かったことはほとんどないし、それは大学生の今でも変わらない。基本的に「やらされる」ことを言われた通りにきちんとやることができない、つまり未だにお子様のままなのだ。

確かに授業は嫌いだったけど、でも教科書は好きだった。

言い換えれば、「お勉強」は嫌いだったけど、「読む」ということは好きな場合もあったということだ。だから、国語の教科書にある小説の抜粋や、あるいは国語便覧に記載されている小話、もしくは歴史の資料集などを眺めて授業の時間をやり過ごした経験は数知れない。もちろん寝てることもあったし、高校生の時は隠れて漫画を読んだりしてることもあったから、いつでも教科書を読んでいたわけではないけれど。

 

なんでこんな話を書いているのかというと、最近とても部屋が荒れていて、そこらじゅうに未読の本の山ができあがっていたから、少し片づけと収納作業をしていた。そのときに、たまたま中学生の当時に使っていた国語の教科書が出てきたことが話の発端である。

「お、なつかしいなぁ」と思って、それをペラペラとめくっていたわけなんだけれども、そうしている間に当時の自分が国語の教科書を、授業そっちのけで、なにやら読み耽っていた思い出が甦ってきた。より正確に言えば、教科書ではなく、教科書のなかにある気に入った小説だけを何度も何度も読んでいた気がする。

それらを探すために更にページをめくっていくと、それらはその教科書に当時のまま載っていた。「あぁ、あったあった。これだ。」なんて思いながら、じっくりと文面を見て、そして文章のイメージをより豊かにするための挿絵も細部まで見ていく。

 

当時の僕にとって深い印象を受けた小説は二つあった。

ひとつは中国のお話で、出世して偉くなった青年が自分の故郷に帰ってくると、子どもの頃の親友がすっかり身分の低いやつれた男になっていた話。幻想的な情景描写の溢れる子ども時代の回想とは対照的な、金と権力によって乾いた人間関係が露出する現在の故郷。その対比的な構造を持つ物語に、当時の僕は何故だかとても魅入ってしまった。

もうひとつは戦時下における日本のお話。空襲の最中を逃げ惑う母子の話で、父親は南方に出征している。母子は食糧と引き換えに衣服を売ったりして、貧しい生活を送っていた。ある日、アメリカ軍の飛行部隊がやって来て街に爆弾を落としていく。母は子を守るために、自らの身体を盾にして子の上に覆いかぶさって抱きしめる。最後は戦火によってカラカラに渇いた母の身体が強い風に吹き飛ばされて空高く舞い上がっていく。戦災孤児となった子はそこで母を待つためにうずくまって痩せ衰え、ついには空から迎えに来た母と一緒に高く高く天へ昇っていった。

 

どちらも決して愉快な話じゃないし、実際のところ悲劇的な内容だ。ただおそらく、当時の僕はこれらの作品によって、初めて「言葉の力」を見たのだと思う。物語の凄味、あるいは言葉の芸術性を感じたのだと思う。だから当時の僕はこの二つの作品の作者や訳者、あるいは歴史的な背景を知らなくても、文章の奥にある多彩な情念に触れることができた。今、小説を溺れるように読んでいられるのは、この二つの作者と訳者のお陰とも言えるかもしれない。

ところで、この二つの作品は誰のどんなタイトルの作品だったのか。

一つ目は、魯迅『故郷』(訳 竹内好

二つ目は、野坂昭如『凧になったお母さん』

今の僕がこの作者と訳者を見たとき、「なるほど」と膝を打つような思いがした。

魯迅は言わずと知れた中国の文豪であり、日本とも深い関係のある人で、しかも中国文学史の第一人者でもある。清朝末期から辛亥革命を経て中華民国成立までの動乱の時代を生きた思想家とも評されていたりする。

そして訳者の竹内好は、明治末期から第二次大戦後までを生きた中国文学者であり、マルクス主義の風潮が吹き荒れる言論界のなかでまったく別のアジア主義の立場をとり、日本の近代を深く批判する『近代の超克』論を説いて異彩を放った評論家でもある。

野坂昭如は、日本人なら誰もが知ってると言っても過言じゃない「火垂るの墓」の原作者で、第二次大戦と戦後の日本社会を生き、今もまだご存命だ。新聞を読む人なら一度ぐらい野坂のコラムを読んだことがあるかもしれない。活動の幅は広く、小説家やエッセイストのほかにも作詞や歌手、そして政治家まで務めたことがある。自身の幼少のころの体験に基づいて書かれた戦争に関する児童文学作品も多い。

 

本当に素晴らしい作家の文章は、不勉強で不真面目な中学生でも関係なく、その心を鷲掴みにするのだと思う。『故郷』も、『凧になったお母さん』も、そのことを僕に教えてくれた。ただ実はこの二つの作品についての授業はまったく覚えていない。しかし、教室の殺伐とした風景が一瞬にして物語の世界へと変わってしまうような、あの不思議な体験ができただけでも価値のある時間だったと思う。

皮肉なことに、子どもは教わったことを覚えず、教わらないことから学ぶのかもしれない。少なくとも、中学生の僕は「文学」を教科書の中から自ら掘り出した気がする。