「夏目漱石における恋愛の倫理」

 『三四郎』から『それから』『こころ』へ

 

・はじめに(問いそのものについて)

 『三四郎』を読んでいる最中にとても気になった部分がある。それは小説のなかで美禰子が三四郎に向けた「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」(『三四郎』岩波文庫 第97刷p290)という言葉である。注釈によれば、この発言は『旧約聖書詩篇第五十一篇の詩句からの引用で、その「咎」とはイスラエルの王ダビデがその部下ウリヤの妻バテセバと通じ、バテセバを奪うためにウリヤを戦死させたことである、という。この詩句を敷衍すれば、「私は非難されるべき私の過ちを知っている。私のその罪は常に私(と我が神)の前に投げ出されている」となるはずだ。

 この言葉を美禰子が言ったときの状況は、美禰子の縁談が決まった「らしい」という不確かな噂を聞いた三四郎が、それまで借りていた金(=美禰子との関係を保つための道具)を美禰子に返して、お互いの関係を絶つこともでき、そしてお互いが対等な立場になった場面でもある。すなわち、三四郎から見ればお互いの関係がリセットされた状態でさらに恋愛へと発展させるか否かという状況であった。ただしかし、すでに縁談が決まっている美禰子は三四郎との恋愛の道を絶つしかなく、そうして「立派な人」の男のところへ良家の子女らしく嫁いでいくことを、美禰子自身がこの詩句を引用して、暗に「咎」となぞらえたのではないだろうか。そしてまた、立派な人の妻として暮らしていく限り、「罪」は美禰子の前に在り続けるのである。

 美禰子が抱えたジレンマを表したこの詩句は、『それから』と『こころ』にも根本的に一貫する意味合いを持っている。というのも、『それから』の代助と平岡と三千代、あるいは『こころ』の先生とKと御嬢さんにおける恋愛の咎=罪が物語の中心的な問題となっているのだ。つまりダビデ王になってしまうのは、代助や先生ということになる。この問題が発生するのは、「恋愛」という状況下、もう少し言えば、自由な恋愛に端を発する結婚の場面で起きてしまった三角関係においてである。漱石が『それから』『こころ』で描いたこの倫理的な問題提起を、本稿では詳しく見ていく。

 

・『それから』と『こころ』における恋愛の倫理

 明治四十二年に朝日新聞で連載を開始した『それから』は、当時の国内外の情勢や世間の風俗についても書かれている小説で、当時の読者にとっては漱石自身によるジャーナリスティックな社会批評としても読めた。また、主題である恋愛や結婚においても、上流階級の世間では近代主義的な価値観より、やはり家同士の政略的な婚姻関係を結ぶべきといった考え方の方が強勢だったはずである。だからこそ、スキャンダラスな結末が待つ『それから』は物語たりうるのである。ただしかし、その結末で代助が起こした略奪的な行動は、近代の個人主義うんぬんでは説明できない。現に代助は自身の最終的な判断を「天意」もしくは「自然」と評している。時世の風潮では片づけられない普遍的な問題を孕んでいるからこそ、未だに読み継がれている一作となっているのではないだろうか。

 『それから』の内容に分け入って、漱石が描こうとした恋愛の倫理観を見ていくと、悲劇の発端は代助が友人である平岡に三千代との結婚を周旋する際、三千代に対する代助自身の好意に無自覚であったということが分かる。そうして三年の月日が過ぎ、代助は学生時分の人情的な一面を捨て去って、内省的かつ厭世的な人格を身につけていた。他方で、平岡と三千代も東京に戻ってきた時には失業し金策と堕落に走り、あるいは子どもを亡くし病気がちになっている。

 代助は東京へ帰ってきた彼らの経済生活に手助けを加えているうちに、平岡と三千代の結婚生活が上手くいっておらず、三千代が不遇な状態にあると知った。それから徐々に三千代に対する特別な愛情を自覚していき、どうにかしなければならないと考えるようになる。次の一文はそうした代助を端的に表している。

「もしこういう態度(=正面から強く意見できない態度)で平岡に当たりながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に委ねて置けないほどの不安があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顔に犯していたといわなければならない」(p218)

 ここまでは「論理」という言葉が出てくる通り、代助は未だ近代的な思考を保ちつつあるが、それもすぐに一つの決断を迫ってくる問いにぶつかることになってしまう。

「自然の児になろうか、また意志の人(=今まで通りの離れた関係)になろうかと代助は迷った。彼は彼の主義として、弾力性のない硬張った方針の下に、寒暑にさえすぐ反応を呈する自己を、器械のように束縛するの愚を忌んだ。同時に彼は、彼の生活が、一大断案を受くべき危機に達している事を切に自覚した」(p220)

 もはや「器械のよう」な論理では解決しえない問題を前に、代助は全てを敵に回してでも、つまり咎=罪を犯すダビデ王になってでも、「天意によって」自然の愛を信じる覚悟を決める。代助によれば、それは欲得も利害も道徳もないのだという。これは一体どのように考えるべきだろうか。その答えが『こころ』にある。

 『こころ』は、明治を終えたあとの大正三年、胃潰瘍の再発を経て漱石の没する前々年に書かれることとなる。これは百十回にわたって朝日新聞に連載された。今でも国語の教科書に載るほどの国民的な小説と言えるだろう。物語構成としては、『それから』のような現在進行形ではなく、ある人物が「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」という三部構成で自らの過去を回想する形で進んでいく。そして『それから』で代助が信じた「天意による自然の愛」が、『こころ』では「先生と私」と「先生と遺書」のなかに現れる。

 自らを「私は倫理的に生れた男です」と自称する先生(以下、「私」)は、学生の当時下宿している家族の娘(御嬢さん)に惹かれていたが、住処に困っている親友Kを助けるために自ら自分の下宿先に引き込んでしまい、そのせいでKも御嬢さんのことが好きになってしまう。仏教の修道に励んでいたはずのKは、その恋を自らどうしていいか分からず、ひとまず「私」にそのことを打ち明ける。

 ここに三角関係が露見するわけだが、これは『それから』とアナロジーな関係となっている。すなわち、御嬢さんに対する想いを告白するKに対して「先を越されたなと思いました」と「私」が悔恨の念を抱くのと同様に、代助も三千代に自らの愛を告白するとき「僕は三、四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」と後悔を込めて言うのである。「私」と代助は、両方ともに自らの出遅れから、そして先んじられた相手が自分の友であることから、深刻な咎=罪を犯さずして、つまりダビデ王にならずして自分の恋愛を成就させることは不可能になってしまう。

 ところで、『それから』では代助の恋心は無自覚の裡にあり、三年後の事件が起こる頃には天意‐自然の愛へと昇華する形で現れてくるが、『こころ』の「私」はハッキリとした自覚の上で、御嬢さんに対する「恋‐愛」の性質を考え、その両義性を語っている。

「とにかく恋は罪悪ですよ。よござんすか。そうして神聖なものですよ」(p38)

「本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。(中略)もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです」(p175)

 この恋と愛との微妙な関係性が、漱石が「私」に「固より倫理的に暗いのです」と言わせた理由だろう。「私」も「代助」も、ダビデ王が犯した咎=罪(悪)のごとき恋を貫いて、そうして高い極点である神聖=天意(自然)の愛へと上昇していく。この倫理的暗さを根拠付ける「罪悪」からの「神聖なもの」を考える上で最初の詩句に戻って、それを『それから』や『こころ』に適応する形で解釈してみると、後半部分である「我が罪は常に我が前にあり」は、旧約聖書の「我が神の前に投げ出された罪」ではなく、「我が女の前にある罪」として考えることができる。しかし旧約聖書の詩句は神との関係において書かれたはずなのに、なぜそれを「女」との関係において解釈できるのか。それも『こころ』に間接的にではあるが書いてある。

「私はその人に対して、殆ど信仰に近い愛を有っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです」(p175)

 『こころ』の「私」において、恋‐愛は両義的なものである。だから神聖な信仰としての愛を人間の女に捧げることが出来るならば、恋の罪悪もまた人間の女に、しかも我が前にいる妻として「常に」立ち現れているはずだ。

 最後に、『それから』の代助と『こころ』の「私」が信じた愛とは何だったのか。それは「天意」「自然」「神聖」という言葉で「高い極点」として表現されている。『こころ』では「宗教心とそう違ったものでない」とあるので厳密にはやはり違うようである。これはおそらく特定の宗教観に基づかないからだろう。もはや単なる私見でしかないが、代助や「私」の愛は、西洋近代主義の論理では説明できない理性の向こう側へと突き抜けて行き、ダビデ王の咎と罪という徳義上の暗く重い影を纏って、それでもなお一人の女性を想わないではいられない、そうした超‐人的な法則に自ら飛び込んだ、いや飛び込まざるをえなかった男の心理ではないのだろうか。

 

 

 

 

*参考文献

夏目漱石『三四郎』岩波文庫 第97版 「注釈」大野淳一 「解説」菅野昭正

夏目漱石『それから』岩波文庫 第94版 「注釈・解説」吉田熈生

夏目漱石『こころ』 岩波文庫99版 「注釈」大野淳一 「解説」古井由吉