或る蛮人の書誌

読書記録と雑文集

自意識の社会

 

・「自分探し」から「着せ替える自分」へ

 旅をしていると「自分探しですか?」と一度は聞かれる。しかし大抵の場合、それを聞いてくるのは年配の人で、若い人にとっては「自分探し」という言葉自体が死語に等しい。そもそも「自分」を探す対象として見ていないのではないだろうか。今日において、探す対象は「自分」ではなく「衣装」になっている気がする。

 衣装とは言っても単なる比喩であって、要は自分を構成する種々の要素を指す言葉である。ただし、「自分探し」のような内面の精神的な自己ではなく、他人が見ている、あるいは他人に見てもらいたいような外面の表現的な自己である。例えば、自分が何者であるかを考えてみてほしい。近代以前の日本人ならば、出身地(いわゆる「お国」や「村落」)、もしくは一族の系譜などの歴史性を感じさせる要素をアイデンティティとして重視するかもしれない。他方で、現代の日本人は、自分の現在の所属組織をはじめとして、様々な社会における自分の役割、そして私的な生活の特徴的な要素を挙げるだろう。何が言いたいかというと、今日の「自分」はそうした「情報の束」によって構成されているはずだと思っているのである。

 自分を構成する情報の単位は、無数のクラスター内に位置づけられる。例えば、人口を膾炙している言葉で言えば、「意識高い系」をはじめとして、恋愛における自分を「肉食系」だとか「草食系」だとか言い/言われるように、あるいは趣味における自分を「サブカル系」だとか「アウトドア系」だとか言うように。もっと一般的な例を挙げるならば、自己紹介の際に自分の名前よりも学歴や勤務先を先に述べる人は多いだろう。例に挙げた情報の単位ひとつひとつは無限に細分化できるし、「オタク」と呼ばれる人たちほど、より細微な違いにこだわる傾向にある。が、しかしそれは別にオタクだけではなくて、程度の違いはあれど、他人とのクラスターの違いを強調しようとする傾向は一般的に見ても存在するように思う。そしてそれは情報でしかないために、ほとんどの場合は交換可能なステータスなのだ。使い古された言説かもしれないが、着せ替え人形のように自分を扱い、他人とは違う新しい「衣装」を求めているように見える。

 ところで、教育や消費などを中心として様々な場面で「個性」を重視するのは、もはや当たり前になりつつある。ただしかし、それは本当に「個性」なのかと疑問になってくるような状態が現れた。つまり巷で騒がれる「個性」は、先ほど述べたクラスター的な違いに過ぎないのではないか、「~~系」という単なる類型的な差異でしかないのではないか、そんな疑念を誰しもが感じるはずである。なぜ単なる類型的な差異だと感じるのかといえば、それは発言や行動や振る舞いを繰り返し反復し自分を表現することにおいて、複数の人たちがとても似通っているからである。個性を求めた結果として、没個性に退行しているのではないかということだ。そしてそんな集団的な疑心暗鬼を上手く形象化したのが「地獄のミサワ」であった。ミサワの画像は一時期、大量にSNSに流通し、リクルートのテレビCMにまで採用された。ありていに言えば「流行った」のだろう。なぜなのかと言えば、「いるいる、こんな人」という類型を非常にうまく戯画化し皮肉ったからだ。つまり冷笑的な共感を誘ったのである。

 ここまで来て、やっとタイトルにあるキーワードが出てくるのだが、今日の「自分」に対する一般的な理解を考える上で、個性やクラスターというような枠組みに加えて、「自意識」を挙げたいと思う。なぜなら、特定の個性やクラスターから導き出されがちな言動を、他人が目に付くような自意識の発露を、地獄のミサワは描いたのだから。

 

(補足)

 そもそも「個性」ってなんだろう、という疑問が浮かぶかもしれない。先天的な才能や美的な感性と同一視されがちだが、それは部分的なものでしかないと思う。ひとつの回答として、ゲオルグジンメルの概念に「個性化」と「社会圏」がある。これをざっくり説明すると、人の個性は所属してきた社会の圏域に影響を受けながら変化する。例えば学校や部活、あるいは会社や交友関係など、過去から現在に至るまでの複数的な社会圏を同心円状かつ差異的な形として見ると、自分を中心に多種多様な文化的違いを持った輪が周囲に広がっているはずである。これが無変化で同質的になれば、それだけ単一の個性、いわゆる「無個性」な特徴の見えにくい人間になるわけである。だから逆に、幅が広くて全く異質な社会圏を数多く通過してきた人間の個性化は、とても多彩で豊かなものになるというわけだ。これは経験に照らし合わせてみても、わりと納得のいく分かりやすい話である。

 

 

・「見ている=見られている」の自意識ゲーム

 ここで話題にするのは、他人との関係における自意識であり、その発露である。もう少し砕いた言い方をすれば、「自分が他人にどう見られたいか」を意識している自分のことだ。地獄のミサワが対象としたのは、そうした自意識の中でも「頭いいだろ俺」「カッコいいだろ俺」と思ってもらいたいという類いのものである。地獄のミサワに限らず、インターネット上に流通する他のイラストや言説によっては、「オシャレを知ってる私」「かわいいものが好きな私」の類いを戯画化したものが数多くある。話が少し脱線するが、「オシャレ」という事に関して、ラッパーの環royがある曲のなかで「オシャレ雑誌を読んでる時点でお洒落じゃないことばれてるぜ」と言っているが、もしお洒落=個性だと考えるなら、それをオシャレ雑誌の中に探してしまい、「自分」を流行に委託してしまっているのだから、それは個性的ではないということになるよ、というように読める。

 話を「自意識」に戻すと、そもそもなぜ自意識という観念が、それとは言わずとも様々な形で世間一般に話題となっているのだろうか。それは、市場価値を生み出す経済の差異化システム、あるいはM.ウエルベックが『闘争領域の拡大』や『素粒子』で主題とした恋愛市場における性愛の寡占と貧窮の状態と同様に、アイデンティティをめぐる自意識ゲームが行われているからではないだろうかと思う。自意識ゲームにおいて重要なことは、他人からの承認である。承認欲求という言葉も、今日とても関心を惹く言葉のようだから、やはり時流に深く関係しているのだろう。自意識ゲームでは、周囲の他人と自分がいかに違う/優れているのかが問題となり、それを他人から承認してもらうことが必要となる。

 自意識ゲームがどこで行われるのかというと、それは主にインターネット上だろう。個人発信型のウェブサイトや様々な用途のSNSがそれを可能にしている。しかも「いいね」や「ファボ」のように「見られていること」が数値として可視化されるのだから分かりやすい。もちろん他方で地獄のミサワが描いたような実際の場面も自意識ゲームの一端である。ともかく、インターネット上の不特定多数あるいは交友関係一般という、特定の対人関係とは違った、いわゆる「世間」や「大衆」を相手取ったときの自分の在り方に、自意識は強く発露するようである。それはなぜかと言えば、不透明な対象、自分に内在する「批評的な他人の目」という、実際にはとても曖昧な他者を意識するからであって、それに対し役割なき自分(=いわゆる「自分らしさ」)を規定しなければならず、そこでより美的(だと自分では思う)自分を主張することになる。それが皮肉にも誰かの模倣となってしまうのは、洋服に限らずライフスタイル全般において流行の影響力が大きいからだろう。だから消費経済と自意識ゲームは相互補完的に動いていると言える。

 ところで、この自意識ゲームには観客がいる。いや、プレイヤーでありながら観客でもあると言った方が正しい。「批評的な他人の目」と前述したが、それは自分に内在すると同時に、実際に外側にも存在する。というか、ネット上の「炎上現象」をはじめとして、観客の存在が「見えて」しまっている。今日においては、不特定多数の他者(=世間様)が自分を見ていると強く感じてしまうような環境が整っていて、なおかつ自分もその環境を利用して他者を見ているのだから、雪だるま式に「見ている=見られている」という自意識は際限なく肥大化する。こうして「自意識過剰」な状態が慢性化していく。

(「自意識過剰」で検索してみたら『モテたいならやめるべき!「自意識過剰行動」ワースト5』というウェブページが上から二番目に出てきたが、「モテるかどうか」という「見られる自分」を強く意識するから自意識過剰な行動に出てしまうのではないかと不思議に思った)

 「見ている=見られている」ということを強く感じる自意識は、自分でもコントロールできないぐらいに肥大化することが珍しくない。もはや自意識は個人の私的空間に深く侵入していると言っても過言じゃないのかもしれない。例えば、家や部屋の中までインテリア商品を紹介するモデルルームとほとんど変わらぬような様子になっている人がいたりするのは、私的な実生活まで無自覚に自意識ゲームの領域と化しているからだ。

 「私的」と書いたが、私的=内密な心やその象徴的な操作、ある種の自閉的な想像の自己像までもが、この自意識ゲームに巻き込まれた社会ではどんどんと擦り減らされていくのではないだろうか。つまり、「見ている=見られている」の自意識が個人の心の内で全面化しようとしているのではないだろうかと邪推しているのである。べつに自意識それ自体が悪だとは思わないし、それは削り落とすべきものでもない。あって然るべき心理だと思う。それに芸術や文芸などの活動は、自意識を通して何かに表象し、それを他人が感動するところまで昇華してみせる行為だと僕は思っている。しかし、それは「演者」としての「見せる」自意識であって、全人格的にそうであるわけではないだろう。

 自意識ゲームが、生活一般に浸透しきっているのは言うまでもない。承認を求める欲望を煽って商品やサービスを売るような手法は、もはや当たり前になっているのだから。商品それ自体も、機能や効果より、ブランド(記号性)や物語性を重視して製作されている。広告だって消費者の自意識に訴えかける文言で溢れている。「あなたは見られている、だからあなたはもっと美しく健やかに優れた何者かにならなければならない」と暗に言うようなメッセージが至る所で生活者に降りかかる。もっと露骨な単語だと「セルフ・ブランディング」という言葉が少し前に流行った。自ら進んで自分を商品的に記号化しようとするのだ。こうなってくると、かつてサルトルが「地獄とは他者のことである」と言ったことも一般的な切実さを帯びてくる。すなわち、私における様々な意味や価値判断が他者に委ねられて、主体性の剥奪、自己疎外の様相を見せるのである。

 

 

・最後に

 僕はこの問題について何か上手い解決策も処方箋も持っていない。自分の自意識は自分で管理するしかない。強いて言うなら自らの欲望に対して自覚的にあろうとするぐらいだろう。繰り返すようだが、自意識それ自体は悪いものでもなんでもなく、上手くすれば内実のある成長にだって結びつくものであって、削り落とそうとするべきものではないと思う。ただこの社会はそれを無自覚に肥大化させやすい風潮になっているということを言いたかっただけである。