内部生活者の手記

読書記録と雑文集

記憶の跡地への旅

 

・「無の大地にて」

 僕だけを乗せたバスが荒野の真ん中を進む。雲間から射す斜陽の強い光が窓を貫いて頬を熱く照らす。ガタガタと揺れる車体の音だけが鼓膜に響いた。いつか見た景色が突然現れると、記憶の奥の奥に潜んでいたイメージがゆらりと立ち上がる。ここに戻ってくるまでに四年かかった。

 閑静な住宅街はとっくに後方へと消えて、目を凝らしてもずっと向こうまで、夕陽の黄色に染められた雑草が生い茂る、ただの漠とした荒野。あとはぽつりぽつりとプレハブの作業小屋が孤独な居を構えていて、新しく敷設された電柱が道沿いに何本か立っている。そのどちらもが、そこに在ることの不自然さを強調するように見えた。もしくはそれが在ることによって他の不在を強烈なまでに際立たせた。かつてここが町だった頃、もちろん僕はその様子を知らない、それは一体どんな風景だったのだろうか。潮風が吹く海辺の町、夏は海水浴場として賑わう町、きっとそれは誰かの心の底に眠る原風景、懐かしい憧憬をそこに見る。なのに、今では―…、一切が無だ。

 バスは荒浜海岸まで行かない。人の住んでいない場所までバスが回る必要はない。海岸に一番近い停留所で降りる。海の方からやってくる風が緩やかに鼻先をこすった。少しだけ寒い。バスが行ってしまった後、来た道を振り返って眺めてみると、無の土地を割るようにして真っ直ぐ一本の道が伸びていて、遥か遠くにうっすらと住宅街の影が見える。パーカーのファスナーを一番上まで引き上げて、肩を小さくしながら歩き出す。そろり、そろり、と。何かに配慮するかのように、何かを気遣うかのように、周囲を見渡しながら奥へ奥へと進む。頭の中では四年前のことがフラッシュバックしていた。

 

・「原点への回想」

 四年前の三月十一日、それは僕にとって高校卒業を直前に控えた日であり、十八歳の誕生日でもあった。その頃には良くも悪くもない大学進学が決まっていて、たくさんの複雑な思い出を抱えていて、それでも全ては記憶の美化という聖域へと昇華されつつあった。つまり、十代後半の三年間を清算する準備が整った状態で僕はその日を、当然何の予感もなく迎えたわけである。

 太陽が真上からわずかに西側へと滑り落ちてきたその時、僕は高校の友達と遅めの昼ごはんを店で食べていた。卒業が近いともなると、今ではさっぱり思い出せないが、たぶん何らかの惜別の念があったのだろう。しかしその情念は一瞬にしてかき消されることになる。世界が捩れるような縦揺れと横揺れの振動は、僕らがいた店内の壁からテーブルや座席など全てを動揺させた。「あっけにとられる」とは、まさにこのことだった。その次に恐怖が、そして不安が、不穏な波となって後から後から押し寄せてくる。

 店員に半ば追い出されるようにして外の世界へ出てみると、確かに揺れは一旦収まったものの、突如として現れたこの非日常が東京郊外の日常を根底から揺るがせ続けていることは自明だった。この時に僕が見た、というより直観した「不条理な揺らぎ」は四年を経て今に至るまで、僕に何かを考えさせる動因となっている。

 家に帰って家族の安否確認をしてから、その後の数日間はテレビの前に釘づけだった。映画の特撮としか思えない映像ばかりが四六時中ずっとテレビ画面を占拠して、「これが現実だ」と言わんばかりに原稿を読み上げるアナウンサーの正気を疑いたくなるほどに、東京在住の僕としては戸惑いを感じた。結局、卒業式は数日だけ延期され、しかし無事に執り行われた。高校生活という時間は確かに終わった。十代の残り二年間は、高校三年間のオマケにすぎないもの、大学時代という気楽なモラトリアム、すなわち放蕩に費やされる時間として僕は考えていた。だから実質的には「熱い十代は終わった」という感覚が卒業と同時に芽生えるはずだった。

 それが、終わらなかった。人が無意識に行う時期の区分、愛惜の感情を覚えながら細くうっすらと引く「過去」という名の一線は、地震の揺らぎによって中断された。つまり曖昧な切断と余暇への気楽な気分が不穏で強烈な問題意識をもって中断されたのだ。学校社会という他人だらけの日常から一瞬だけ解放された状態、それは僕にとって非常に不安定な期間だった。そしてその期間に起きた震災という現象は、一人の僕という状態をより深刻なものにした。具体的に言えば、自分自身を問うということに他ならない。

 大小様々なことが疑問に思えた。この国はどうなるのか、これから先の社会はどうしていくのか、新聞やテレビの報道は現実なのか、原発は一体どれほど重要で危険なのか、津波はどれほどの被害をもたらしたのか、他の人はこの現実をどう考えているのか、今自分がやるべきことは何か、そして何よりもまず自分がこれらのことを理解するための客観的事実とは何なのか。何が正しくて何が間違っているのか、何をすべきで何をすべきではないのか、何をどう捉えてどう考えるべきなのか、自らの判断のための基準や尺度とは…。

 分からなかった。何が分からないのかも分からなかった。だからこそ被災地をこの目で見に行こうと決意し、新潟経由仙台行きのバスチケットを買った。震災直後、三月半ばのことである。二週間分の非常食や飲料をぎゅうぎゅうに詰め込んだバックパックを担ぎ、慣れない深夜バスにそわそわしながら乗り込んだ。周りに座っている人たちは明らかに医療関係者と思しき人たちばかりで、緊迫した静寂の張りつめる車内において一人不安そうな顔をした僕は場違いに思えた。

 明朝、どうにか無事に親の知人の家へと辿り着くと、すぐに仙台市若林区の役所へ向かった。内陸の方は地下鉄が動いていて、役所になるべく近い駅で降りてからは地図を見ながら30分ほど歩いた。街は意外なほど平静としていて、少なくとも荒廃した感じはなかった。しかしそれはむしろ非日常であることを示していた。例えば、街中を走る車の数は少ないのに、ガソリンスタンドの前には異様なほど長い車の列ができていた。そしてほとんどの店や会社は営業を停止していた。子どもたちを外で見かけることはほとんどなかった。だから街は当然「異常に静か」だった。

 若林区役所は街の郊外に位置していたように思う。大きなビルがドンと住宅街の中に建っていて、敷地内に入ると作業服の人たちがウロウロしていた。ボランティア本部は区役所の隣にある児童館だった。中に入ってみると、係の識別用にゼッケンを着た人たち、ジャージ姿の人たち、報道関係者のように見える人や、ともかく様々な人たちが忙しなく館内を行き交っていた。壁には備品の数量やスケジュールなどを記録した紙や、日本各地から送られてくるメッセージカードなども貼ってあったように思う。この場所こそが被災地救援のリアルだと僕には強く感じられた。しかし、受付に行ってボランティア登録をしてみて分かったのは、東京や他県から来る人よりも圧倒的に地元の人たちの方が多かったということだ。それはもしかしたら当然なのかもしれない。東京から来たことに驚かれたぐらいだから、ここでは地域内の相互扶助が当たり前なのかもしれない。ただ僕には納得いかなかった。

 この当時ボランティアがどのようにして各地に派遣されていたのかというと、被災した各地域にボランティアセンターの電話番号や仕事依頼の伝達方法などが記載されたビラが配布され、センターに依頼が来ると待機しているボランティア人員に依頼内容が伝えられて自主的な挙手によってメンバーが組まれる。若い男は基本的には海岸に近くて被害が大きい場所へ回された。

 ジャージ姿に長靴、スコップや軍手を携えて、十人程度の男たちが軽トラの荷台に乗り込む。軽く自己紹介などをしながら、様々な情報をお互いに交換し合っていた。僕もその中に混ざっていたが、飛び交う話のなかには一体どんな表情をしたらいいのかも分からない内容が多々あった。露骨な言明こそあまりなかったものの、要約すれば会社が無くなった。親戚に連絡がつかない。友達が死んだ。妻と子供は実家に逃がした。家が半壊した。あそこの地域は被害が酷い。などといった話を耳にすることは少なくなかった。薄汚れた軽トラの、土くれのニオイが立ち込める密室の荷台は、落ち着いているがゆえに異様な雰囲気だった。よそ者の僕が何かを語ることは憚って然るべきであり、そして皆の冷静であろうとする態度は、もはや裏返って狂気のごとく感じた。

 鉛色の重たい空の下、ぬかるんで濁った大地の上、冷たい海風が吹きつけるなかで、農家の畑に飛び込んだ防風林、瓦礫、車、家具、用途不明の様々なモノを運び出し、崩壊した壁の破片や塊を拾い集め、家の中に流れ込んだ汚泥を拭う。こうしたことを約二週間、朝から夕方まで泥まみれ汗だらけになってやっていた。時には炊き出しや避難所の掃除などを手伝うこともあった。農家の方々がお昼ごはんや飲み物を出してくれた。商店のおばあちゃんが僕に煙草をくれた。地元のボランティアの人たちは協力して一生懸命に手を動かしていた。

 僕はずっと考えていた。色々なことが頭を駆け巡った。半ば混乱さえしていた。世界は何故こんなにも不条理なのか。人は何故こんなにも強く健気なのか。僕と被災地の人たちとの間には一体どれほどの断絶と距離があるのか。善意に満ちた同情も、涙を誘う悲劇も、何かを知ったような言論も、東京で見聞きした何もかもが安っぽいものに思えた。では、僕に何か語れることがあるのかというと、それもなかった。

 

・「原点への回帰」

 あれから四年が経った。色々とあって僕はまだ大学を卒業していない。なぜ未だに大学生をやっているのかというと、それは因果関係を遡ればあの三・一一があったからだろう。仙台での経験を経て、地球をぐるりと一周し、日本各地をウロウロしていたら、あっという間に四年間が過ぎていた。戦後七〇年という節目の年、そして震災から四年、僕の脳裏には「原点回帰」という言葉がちらついた。

 それは明滅するシグナルのようで、しかもどんどんと自分のなかで大きくなっていく。あの三・一一に呼ばれている気がした。被災地に関することが人々の話題に上がらなくなった今、再び僕はあの被災地を訪れる必要性を感じた。

 

 早朝五時、僕らは仙台駅のバスターミナルに着いた。五月初旬にしては肌寒く、空は分厚い雲で覆われていた。しかしそれよりも中空に立ち込める濃霧がより印象深い。ともかく始まったのだ、原点回帰の旅が。

 ところで「僕ら」と書いたのはなにも文章のレトリックではなく、事実として「僕ら」である。今回は僕のほかにもう一人の男がいる。世界一周の旅をしていた時に、カンボジア、インド、そしてトルコで同じ時間を過ごした淳平は、僕よりも三つ年上で、ひょろりと背の高い、優しげな顔の男だ。僕と彼は旅のスタイルにおいて似ている。観光地や名物を蒐集するように回るアクティブな旅行者は多いが、僕らはそのちょうど反対に位置する。つまり、のんきで、ぐうたらな旅を好むわけである。

 今回もそのスタイル通り、僕が「原点回帰」と銘を打った旅に明確な予定はない。原点回帰とは実際のところ具体的にどんなことを指すのか、それすらまったく僕らはよく分かっていないのである。それはかっこつけたいだけだ。そう言われれば確かにそうなのだが、果たして「原点」とは具体化されうるものなのだろうか。つまり定点として固定されるべき何かなのだろうか。「被災地を旅する」ということは、日々刻々と変わりゆく現場をこの身体で感じることではないだろうか。原点と言いながら点であることを否定し、回帰と言いながら目的地も特に決めず放浪する。矛盾だらけの僕らの旅は、朝五時半のシラケた吉野家から始まった。

 空腹を満たすと眠気が襲ってくる。これは人間の摂理だろう。仙台から気仙沼を目指す北上の電車旅は、早々にして睡魔との戦いになった。淳平は出発してから二十分と経たぬ内にうつらうつらし始め、一方で僕はなんとか窓の外の景色を眺めながら睡魔を遠くへ追い払おうとした。しかし本来は僕が睡魔に敗けるべきである。なにせ淳平は夜行バスでも寝ていたが、僕は宮澤賢治の詩集をスマホで読みながら過ごしたわけだから。夜行バスでさえ眠れなくなってしまった僕は、旅で培った自分の優秀なる図太さを失ったことに気付いた。

 東京のローカル線は基本的に長椅子が両側に取り付けられているけれど、これが地方になるとボックス型の向かい合った四人掛けになる。電車内の座席配置の違い、そんな小さなことから非日常の空間は立ち上がるものだ。頭上の荷物置きから相棒であるバックパックの調節紐が垂れ下がって、電車の振動に合わせて楽しそうに揺れている。駅の売店で買った甘酸っぱい梅菓子を口に放り込んで頬の内側に隠す。それから窓辺の方に身体を寄せて窓に映る景色に視線を向ける。相変わらずの霧がかった空ではあるが、今はちょうど田植えの時期らしく、一面に広がる水田の表面から産毛のような苗が若い緑色を覗かせている。その遥か遠い向こう側、灰色の薄い幕の裏側にまるで水墨画のごとく濃淡の変化をつけながら山稜の影が引かれていた。

 成瀬川を越えて小牛田で乗り換え、前谷地、そして小渕へ、江合川を渡って柳津に着いた。電車はここまでである。というのも、津波被害によって線路自体が未だに修復されていないからだ。JRは柳津から気仙沼まで代替バスBRTを運行している。これに乗り換える。かなりの長距離を移動するバスだからどんなものだろうかと思っていたが、どこにでも見る普通のサイズのバスだった。ここに来て僕の眠気はピークに達しており、乗り込んだ途端に身体がずっしりと重たくなってきた。ただしかし、出発直後の車内アナウンスに「路面状態が悪い場所があり、揺れる場合がありますのでご注意ください」といった内容があったことは聞き逃さなかった。線路のないエリアが始まる。

 南三陸町陸前戸倉のバス停を出て、断続的で薄暗い「トンネルを抜けると被災地であった」。海側から押し寄せる霧のカーテンで白く霞む河口地帯には、暗澹とした灰色の更地と人工的に積み上げられた黄色い土の堆積した、空虚な空間が広がっている。そこかしこに無造作なまでに停めてある重機やクレーン車、作業場を縫うような形でうねる道路、急遽こしらえられたプレハブ小屋の数々。かの有名なセブンイレブンが、プレハブでできた店の表側だけ茶色のタイル張りを模して塗色していたのを見たときは思わず笑ってしまった。もちろんその笑いは嘲笑などではなく、可笑しさのあまり笑うのでもなく、苦さの混じる笑いである。

 睡魔に対する闘争がとうとう敗北へと向かってしまいそうになった時、僕は淳平に一つの提案をした。気仙沼までこのバスで行ってしまうのはもったいないだろう、せっかくだから僕らの足で歩いてみようではないか、ということである。そういうわけで僕らは本吉のバス停で降りた。濃緑の山々に囲まれた田畑を見下ろせる、なだらかな丘の上に位置するこのバス停に降り立ったとき、僕はあることを失念していたことに気付いた。それは本吉から気仙沼まで具体的に何キロあるのか調べていなかったということである。大したことはないといった表情で、スマホを使って検索してみると、距離にして約二〇キロ、時間にして徒歩四時間あまり。僕は煙草を取り出した。

 しばらく休憩してから歩き出して数十分、淳平は東北の大地は空気がおいしいと嬉しそうに言っているが、一方で僕はとにかく歩くペースを一定に保つことに集中していて空気の味どころじゃない。明らかに車社会だと思える地方の広がりは、いかに田中角栄の「日本列島改造計画」が凄かったのかを分からせてくれる。というのも、こんな田舎の隅の隅までアスファルトの道路を通し、今ではほとんどの地方社会がそれなしでは成り立たないのだ。他方では、シャッター商店街の名は誇張した表現ではないことが分かった。GWだからなのか分からないが、どこの店も閉店していて道を歩く人はほとんどいない。通行する車だけが行き来している。地方消滅論が叫ばれる今日、その言説は確かに切実さを帯びていると思われる。観光資源がなく、海産物を売りにするにしても、それはどこの沿岸地域も同じことで、差別化を図るのは難しい。一次産業で獲れたものを二次産業で加工して三次産業で流通させる手法を「六次産業化」というらしい。しかしどこでもそんなに上手く産業構造を作り変えることは難しいだろう。そもそもそのための知識を持っている人が少ない。さらに人口減少も相まって事態はかなり厳しいのではないだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていると、別のあることに気付いた。歩き始めてからずっと路傍の野原一面にタンポポが生えており、その種子である「綿の華」が海風に揺れているのである。淳平も僕も、綿の華を摘んでは種子のパラシュートを風に飛ばして遊んだ。やっていることがまったく小学生と変わらないのだが、それこそが原点回帰なのかもしれないと言い訳をしてみる。それにしても、海の近くに歩いているのに海が見えない。濃い霧だけが僕らにまとわりつく。これはなんというか興醒めである。ということで、より海岸線に近づこうと二人で話していたとき、道路の上に掲げられたとある青看板を見つけた。「ここから過去の津波浸水区間」と書いてある。

 過去の、というその言葉は僕に時間概念を考えさせる。きっと復興工事が始まった時に設置されたものだろう。それが四年経っても掲げられたまま、そしてこれからも同じであろう。すなわち、その「過去」が今を釘づけにし続けるということである。時間は過去へ流れるものだと無邪気に信じられる人々は、忘却の恐ろしさと、そして忘却できずに漏れ出すもの、つまり亡霊的なものの力を知らない。善い悪いではなく、人の記憶から生まれる情念の話である。「時間は流れない、それは積み重なる」。

 七キロほど濃霧のなかを行進した。少し休憩しようということになって、「小金沢駅」の看板に従い海岸の方へと下った。霧は不気味さを増しながら濃くなっていく。誰もいない。人の気配すらしない。おかしい。駅らしきものが一向に見えない。突然、目の前に踏み切りが現れた。しかしそれは作動していない。僕らは線路の上に立つと、ほとんどホラー映画のような世界が立ち現れたことに気付いた。そして視界を遮る真っ白な霧の向こうにぼんやりとプラットホームの姿を見た。そちらに向かって錆びたレールの上を歩くと、無残な姿で廃墟になった駅が、しかも打ち棄てられたものとして、そこにあった。雑草と徒花が茫々と生い茂る中、居心地悪ささえ感じながら僕らは歩き続けた。河口の拓けた場所に出ると、過去の残骸はここにもあった。以前はきっと川を跨ぐように鉄橋が架かっていたのだろうが、それも今ではへし折られたコンクリートの脚が残っているのみだ。他方で、海に向かってその瓦礫の脇を悠々と当然のように川は流れていた。自然に対する畏怖を感じないわけにはいかない。僕らは何かに打ちのめされたかのような気分を引きずって歩き続けた。

 

・「原点という限界点」

 一人で宿を出た時、ポツポツと雨が降り始めた。傘は持っていない。しかしどうでもよい。さっさと歩いて行き、仙台駅の市営バス六番乗り場に並ぶ。GWだからだろうか、仙台駅の周辺は人混みで溢れていて、特に若者と観光客が集まっているように感じた。背の高いビルディングが立ち並び、洒落たレストランや飲み屋が軒を連ねる。東京の都心と似たような喧騒がここにはある。震災の影響はもうどこにもないという錯覚さえ覚えそうになるほど。

 夕方の市営バスは帰宅ラッシュなのか、やたらと混み合っていた。制服を着た生徒、買い物帰りの婦人、杖をついたご老人、ビジネスバックを提げたサラリーマン、どこにでも見られる郊外行きの車内。窓から外を眺めているうちに、ほとんど忘れかけていた地名や風景を通っていることに気付いた。若林区役所、三百人町、七郷中学校、神屋敷、なぜ今日まで忘れていたのか不思議なぐらい、はっきりと鮮明に記憶が甦ってくる。そう、人は簡単に忘れてしまう。そしてそれを避けることはなかなかに難しい。

 僕が目指す場所、荒浜へと進んでいくうちに乗客はどんどんバスを降りて行った。言い換えれば、人の暮らしが営める地域から、それが不可能になっていく場所へ、バスは走っているのだ。僕以外の最後の乗客が降りた時、バスの車内は寂しい空間となった。よそ者であることを強く感じた。僕はここで暮らしていない。だからバスが住宅街を越えても降りない。東北自動車道のガード下を潜り抜けて、僕だけを乗せたバスが荒野の真ん中を進む。雲間から射す斜陽の強い光が窓を貫いて頬を熱く照らす。ガタガタと揺れる車体の音だけが鼓膜に響いた。

 四年前に僕がここを訪れた時には、まだ防風林や家具や車が畑中に散乱していて、半壊した建物には様々なモノ、例えば電柱が槍のように突き刺さっていたりした。水浸しで荒れた大地の上に真っ赤なソファーが鎮座しているのを見た時は、シュールレアリスムを思わせるグロテスクな印象が心に渦巻いた。超現実という芸術概念を被災地の渦中に見た、というのは何も比喩や冗談ではない。その芸術運動が合理的な文明社会の破壊を標榜していたのとまったく同じで、ただしかしこの被災地においては自然の力がそれを可能にしたという意味でどこか皮肉めいている。

 一切のモノが氾濫して無秩序な様相を成していた場所も、今ではすっかり掃除されて空虚な土地が広がっている。在るモノ、ここでそれを数えるのは容易い。電柱が寂しげに立ち並び、壊れかかった蜘蛛の巣のようにか細い電線を張り巡らしていた。あとはプレハブの作業小屋がいくつか、それとクレーン車や重機がぽつんとあるぐらい。乾いた無表情のまま硬直してしまった灰色の場所。

 バスは荒浜海岸まで行かない。人の住んでいない場所までバスが回る必要はない。海岸に一番近い停留所で降りる。海の方からやってくる風が緩やかに鼻先をこすった。少しだけ寒い。バスが行ってしまった後、来た道を振り返って眺めてみると、無の土地を割るようにして真っ直ぐ一本の道が伸びていて、遥か遠くにうっすらと住宅街の影が見える。パーカーのファスナーを一番上まで引き上げて、肩を小さくしながら歩き出す。そろり、そろり、と。何かに配慮するかのように、何かを気遣うかのように、周囲を見渡しながら奥へ奥へと進む。

 海岸へと至る最後の十字路まで出た時、信号の上に「荒浜」と書かれている青看板を見つけた。とうとうここに戻ってきた。近くのプレハブ小屋の脇に自動販売機があったので、そこでオレンジジュースを買った。温かい飲み物は無かった。ふと見ると、作業員らしき男が一人で何かの機材をいじっている。帽子の影に潜むその顔は険しいようにも疲れているようにも見えた。しかしその眼差しは目の前の仕事へと一心に注がれている。復興の現実は孤独な闘いなのかもしれない。その十字路で立ち止まって僕は考える。東京からの視線はここまで届いているのだろうか。震災復興の問題は派手な話題を除けばほとんど耳にしなくなった。細々していて地味な問題はもはや誰も口にしない。ここに来るまでに廃棄物の山を見かけた。あれを焼却するなり埋めるなりするのに、どれだけの費用がかかるだろうか。この土地に戻ってくることを断念する人たちの気持ちは、一体どのようなものだろうか。所有地の売却額はどのように査定されるのだろうか。町を再建するための、住民と行政、行政と都市計画のコンサルティング業者、そのコンサルと建設業者、そうしたいくつかの関係において、話し合いはどの程度進んでいるのだろうか。その話し合いのなかでは一体どんなことが争点になるのだろうか。円滑に話し合いを進めるには対話の技術が要るかもしれない。ファシリテーターと呼ばれる人たちが必要なのではないか。しかし僕の想像しうることは狭くて貧しい。きっと他にもたくさんの見えない問題があるはずだ。都市生活者の僕はそういったことを知らない。知ろうとさえしてこなかった。

 ゆっくりと再び歩き出す。まずは目の前の現実を見なければならない。あの時と同じ鉛色の雲が空を覆っている。しかし今ではその間隙を夕陽が貫いて、僕の前に広がる荒野を照らしていた。遠くを見据えると、歯が欠けた櫛のように痩せこけた松の木が並んでいる。そしてその前に何やら石像らしきモノが置かれている。どうやら震災以後に造られたもののようだ。さらにその手前には荒浜小学校があった。ここは津波が押し寄せた時に生徒たちが屋上へ避難した場所で、当時は何度かその様子が報道された。今では柵に囲まれて誰も立ち入れないようになっている。海側のベランダが叩き壊されていた。道路沿いのガードレールはぐにゃぐにゃに歪んで路肩に放置されている。玄関の一部と基礎を残して個人宅の家々は跡形もなく消え去っていた。きっと半壊した建物も撤去の過程で取り崩したのだろう。それから周囲に視線を走らせると面白い風景を見つけた。「明るい笑顔、忘れない」という文句が書かれた看板の下にチューリップがお行儀よく整列して植えられていたのだが、どれも茶色になって枯れていた。その傍らでタンポポや野花の類いは公道の区画も私有地も関係なく群れを成して咲き誇っていた。よくできたイロニーだと思った。

 とうとう海岸の前まで歩いてくると、護岸工事をしている最中で海は見えなかった。朽ちた松の木がそこらへんに倒れていて、その横に「荒浜慈聖観音」という名の大きな観音像が建っている。そして「東日本大震災慰霊之塔」と書かれた小さな石塔と、黒の大理石でできた石板。その石板には、津波地震で犠牲になった人々の名前と年齢が刻まれている。一見すると六〇から七〇歳代の方々が多く亡くなられたことが分かる。逃げ遅れた人たちだろうか。そして次に目を引いたのは、三歳、四歳、もしくは十四歳や二十一歳などの若い命も亡くなっているということだ。

 僕はその場を離れ、観音像から少し遠い瓦礫の上に腰を下ろして、オレンジジュースを一口飲んで、煙草に火を点けてからまた考えだした。すべての人は、様々なルールや環境が既に決められた世界の中に生れ落ちるのだから、はじめから人は不条理の裡に在るのだと言える。言い換えれば、本当の「自由」や「平等」などというものは無い。ただしかしそれでもその世界の中で大抵の人は精一杯に生きている。たとえそれがどんなやり方であろうと。人は自分の人生に無関心ではいられない。裏返せば、その関心があるからこそ人は人生の重さに堪えきれず自ら死を選ぶ場合もあるのだ。しかし今僕が座り込んでいるここでは死にたくない人たちが蹴散らされるようにして死んだ。何かの未練を残して、欲望も夢も半ばにして、もしくはそれらを十分に感じられる自意識すら育たぬうちに、自分の人生をハッキリと自覚することなしに、海底からせり上がった泥土に飲み込まれて、捻じ切れるような圧力に押し潰されて、そうして石板に刻まれた名前の人々は、原初の不条理に別の不条理が重なって死という極点へと投げ飛ばされた。

 震災の犠牲者を弔うとか悼むとか、そんな言葉を東京ではたくさん見聞きした。しかしそれは遠くで傍観する生者の側が自責の念から救われるための言葉である。厳然たる死を美辞麗句で飾り立てて感傷に浸るのは容易い。死後の世界という物語を作り上げて救済されたことにする、なんてことも人間は古来より長いことやってきた。しかし未だに気持ちの整理がつかない、近しい人を亡くした人たちに押し付けるそうした感動的な言葉は、一体どれほど無責任で厚顔無恥なものだろうか。被災地から遠い場所で、もしくはテレビ画面の中で、追悼イベントが毎年行われる。そして震災はすでに終わった過去の出来事として再配置される。しかし震災の影響はこの現地において未だ終わっていない。僕はさらに想像する。戦争もそうではなかったか。戦後を合言葉にして、終戦記念日をもってして逆説的に過去という痛切なる亡霊を悲劇的な神話のなかで忘却したのではなかったか。一般に全ての死者は生者にとって祈りの対象でしかない。つまり象徴的なモノとしてしか見られない。そうではない認識を採用するならば、乗り越え不可能で圧倒的な断絶が僕と死者たちの間には広がっていることになる。 

 ふと遠くを眺めると、夕陽が住宅街の遥か向こうに沈もうとしている。地球が自転しながら公転している。海岸近くの貞山運河は流れ続けている。さざ波の音が工事現場の向こう側から聞こえる。無に還った大地で雑草が今この瞬間も芽吹く。タンポポの綿の華が潮風に揺れている。自然は永遠に自明だ。そして不条理による死もまた自明だとするならば、三・一一という僕の原点は、そのまま生者の限界点だ。今ここでは、物質で満たされた幻想の日常を引き裂いてその限界点が足元で剥き出しになっている。生命が中断された時間を、不在の実在を訴える空間を、僕は目の前に広がるこの記憶の跡地に感じていた。 

 

・追記(2016年2月21日現在)

 以上の文章は、2015年に地方のとあるエッセイ賞に応募した時のものである。だからこの時点では「四年前」となっているが、もう今は「五年前」の時期になりつつある。ちなみに、この賞は落選した。だからこうしてブログの方にアップすることにしたのだが、当時の自分の結論と、今の自分の考えとの間に、かなり違いがあることに気付いた。

 

「乗り越え不可能で圧倒的な断絶が僕と死者たちの間には広がっていることになる」

 

 当時の僕は最後の方でこのように書いたわけだが、それは「死人に口なし」とも言い換えられる。別に何か特別な感情を込めて言ったわけではなく、文字通り事実として死んだ人は何も語らないし、死の向こう側を見ることができない生者は死者の想いを知りえない。つまり想像をどれだけ逞しくしたところで、それは結局のところ、生者の自分勝手な妄想に過ぎないのではないかと、当時の僕は思っていた。

 この意見は、東京で何の喪失もなく生きている僕が、死者を代弁すること、そして死者の近親者に共感することの、その傲慢さや不可能性を配慮したつもりで書いた。そして震災に限らず、僕は幸いなことに最近では近親者を亡くしたことがない。(正確に言うと、両方の祖父はすでに亡くなっているが、それは小さいときのことで、じつはあまりよく覚えていない)

 死を想像することができず、死者を想うこともできない。これは想像力の乏しい僕に限ったことだろうか。仮にそうではないとするならば、なぜなのだろうか。

 例えばの話をしよう。これは社会学も心理学も、その他の学問も、一切を何もマトモに勉強したことがない僕が、ただの妄想で安易に口走る話である。

 

 あらゆる死には、事後的に社会的な価値づけがなされると僕は思う。死という出来事は万人に平等であるが、死の影響力は不平等である。9・11テロやパリ・テロで死んだ人々と、中東やアフリカで民族紛争や報復の空爆に巻き込まれて死んだ人々との、その死の影響力の差は、報道とそのリアクションの数という形で実質的に可視化される。

 2016年の一月に、ブルキナファソの首都ワガドゥグで、アルカイダ系のテロリストがホテルなどを襲撃して26人が死亡したという。この事件を知っている人はどれぐらいいるだろうか。そもそも、西アフリカのブルキナファソという、美術や音楽や映画の盛んな国を知っている人がどれだけいるだろうか。この国で死んだ人のことを、どれだけの数の日本人が想像しただろうか。死は事後的に価値付けられてしまうと、僕は思う。

 

 次に、死体は日常から漂白されていると、僕は思う。ところで読者の皆様は、自分の目で実際に人間の死体を何回見たことがあるだろうか。(僕も今思い出しながら数えている…)僕は二十三年間で、死体を直視した経験は四回しかない。しかもその内の二回は、旅中に目撃した交通事故だから、本当に死んだのかどうかは分からない。(けれど、見た途端に死を直感させる惨い光景ではあった)

 テレビや映画やネットを見れば、バーチャルな死体はいくらでも転がっている。アニメを見ると、美少女が物騒な重火器で丸太の木材よろしくモブキャラの人間たちを撃ちまくってたりもする。別にそのことを四の五の言いたいわけではない。そうではなくて、バーチャルな死体はいくらでも見られるが、しかし現実の日常世界においては、死体を見ることが限りなく少ない社会に生きているという事実に、あらためて目を向けてみたいのだ。

 多くの場面が私生活化した都市社会において、死体は真っ先に隔離され、私的なものとして扱われるようになった。読者の皆様は自分がどこで死ぬのかを想像したことがあるだろうか。真っ白な病室だろうか。青畳の上だろうか。灰色の路傍だろうか。何にせよ、「孤独死」という言葉が流通するようになった今日、自分の死体を目撃する人間は少数であろうということは容易に想像がつく。親族が見送ってくれれば御の字といったところだろう。

 それだけではなく、動物の死もまた、漂白されている。読者の皆様は、道を歩いていて、猫や烏の死体を見かけたことはないだろうか。その時、異様な不気味さを感じなかっただろうか。それは清潔な日常に闖入した生々しい死という、その非日常性ゆえの不気味さなのだと思う。これはよく言われることだが、肉は食べるが、その肉ができる過程や実際の様子を知っている人は少ない。鳥をシメることが出来る人は多くないだろう。そんな技術は必要ない、血も肉も臓物も綺麗に処理され加工された、潔癖な社会に生きているのだから。

 

 長々と書いたが、あらゆる死には、その価値と影響力に偏差があり、そしてたいていの死体は、日常世界から漂白されている。だから普段の僕は、バーチャル上で数字に還元され、価値付けられ選り分けられた死者たちを、その死体を見ずして、その死の乾いた事実だけを知ることになる。

 

 想像に必要な素材が不足している。だから僕は死者を想像することができない。

 

 と、当時の僕は思っていたのだが、ここでおかしなことが起きていることに気付く。そもそも、死者との間に断絶があるのだとして、尚且つその断絶を越えるための想像に必要な素材も足りない僕が、それでもなぜ死者について文章を書いているのだろうか。なぜ死者について考えてしまうのだろうか。死んだ人間のことなんて分かるわけがないと言いながら、それなのになぜ死者に対して無関心でいられないのだろうか。

 

 その理由は、死者が死という断絶の向こうにいるのではなくて、生きている僕の傍らにいて、何かを伝えようとしているからなのだと思う。たぶん。

 

 断っておくと、スピリチュアルな話をしたいのではない。僕が言いたいのは、人は過去から切り離された現在に孤立しているのではなく、人の現在と過去の全ては共在しているということだ。そして人は死してなお、存在したという過去の事実から何らかの作用を伝播させて現在の世界に影響を及ぼすということだ。

 だから、生者は死者を、想起し、物語る。それが生と死の結節点なのだ。