或る蛮人の書誌

読書記録と雑文集

ファミレス・レポート

 自然の様々な動きを観察するための手法として定点観測というものがある。例えば、気象の変化を同じ場所からカメラで連続して観測するといったものだ。その「お天気カメラ」のごとき目で、ファミレスの人間模様について書いてみようと思う。というのも、この二年間の多くの時間を東京郊外の大通り沿いに位置する某ファミレスで過しているうちに、大袈裟に言えばファミレスという場が日本社会の今日的な天気模様を、もちろん部分的にではあるが、それとなく暗示しているように僕には見えてきたからである。だからこれはファミレス・レポートということになる。

 ところで僕は大学生だ。しかもかなり暇人の部類。一日の授業が終わると、サークルや部活に行くわけでも、バイトに勤しむわけでもなく、すたこらさっさと地元行きの電車に乗り込む。ガタンゴトン、ガタンゴトン、外の景色はいつも通り、ニューヨークみたいな摩天楼が立ち並ぶわけでも、プラハみたいに可愛らしい赤レンガの屋根が軒を連ねるわけでもない、特徴のない郊外住宅のしげみが無秩序に広がっている。地元の駅に着いて、ふと見上げると現代人が生息する蟻塚、つまり団地やマンションが整然とドミノのように立ち並んでいて、その下を交通量の多い大通りが走っている。この大通りに面した家路の途中にある某ファミレスで、僕はいつもどおりに喫煙席の隅に座ってリュックサックから本を取り出す。今日は夏目漱石、いややっぱりセリーヌにしよう。店員にホットコーヒーを注文し、それから煙草を一本、唇にくわえて火をつけると、やわらかい毛絲のような煙が照明の光の下で絡まり合って天井へと昇っていく。

 どんどん時間は過ぎていく。ふと目線を上げると、夜八時の店内は家族連れで賑わっている。そしてその中には珍妙な一組の家族が今日もいる。この家族は一週間の半分ぐらいの夕食や昼食をファミレスで済ましているみたいだった。正直なところちょっと異様である。食事を外食で済ませる金はあっても、家に台所や冷蔵庫はないのかもしれない。昔は下着などの衣服から着物まで自分たちで誂えていたらしいが、今ではすべての衣服を購入しているのと同じように、食事も冷凍食品や宅配サービスや外食産業などによる外部の既製品へと委託されつつある。生活を取り巻くあらゆる品々が自分たちの手から離れていき、家庭から料理の火までもが消えていく時、そこには一体何が残るのだろうか。

 そしてまた時間は過ぎていく。夜の十二時を回るころ、客層はガラリと様変わりする。あのおじさんは今日もビールを注文し、周囲をキョロキョロと見回しながらジョッキに口をつけている。他に食べ物を注文しているところは見たことがない。ただひたすらビールを飲んでいる。そして、半分ぐらいまで減ったころには、ソファーの背もたれに身体を預けて脱力しきったように寝る。定年退職後といった様子のむなしげな顔、痩せ細ったあごや肩は微動だにせず、まるで石像にでもなったかのように、「考える人」ならぬ「眠る人」として、足を組んで身体を硬直させたまま口を半開きにして寝ている。彼が友達や家族と居たところを見たことはない。ジョッキグラスはすっかりズブ濡れになっている。透明なグラスの表面にしたたる水滴は、彼の孤独から流れ出る涙の代わりかもしれない。

 そうしてまた本の世界に没入する。セリーヌの描く主人公バルダミュがアフリカの悲惨な大地からアメリカの大都市へと命からがらで渡ったころ、深夜二時の灰皿は底が吸殻で一杯になる。いったんページに栞を挟んで本を閉じると、首から背筋までをぐっと後ろ向けに反らした。ゴキゴキゴキッと背骨の乾いた音が体内に響き渡る。それから周囲を見渡すと、今度は年配のカップルがソファー席に隣り合って座っている。痩せて小柄なおじいさんと、髪から化粧までなにやらゴージャスなおばあさんだ。仲睦まじく身体を寄せ合って話し合う姿は老年の夫婦に見えなくもないが、しかし二人の振る舞いや話し言葉からして、それはむしろ若々しいほどに歯がゆい男女の駆け引きさえ見て取れるような、そんな関係を思わせる。普通に考えればスナックのママとその常連客だと推測しそうなものだが、どうも私的で親密な雰囲気を漂わせている。もしかしたら二人はそれぞれ長い生涯の果てに深夜のファミレスという都市の中の離島に辿り着いたのではないかと妄想が膨らむ。

 さらに首をぐるりと回すと、今度は三十代ぐらいの、けっして羽振りが良さそうには見えない男達が数人でテーブルを囲んでいる。今日は平日だから健全なビジネスマンならばとっくにご就寝なはずだが、彼らは明日のことなどどこ吹く風らしく、携帯ゲーム機を両手に抱えて一心不乱に何かをやっている。視線を一瞬たりとも画面から外さないまま、仲間に向かって何かの指示をボソボソと言い合う様はかなりシュールだ。彼らの目の前にはコーヒーしか置かれていないテーブルではなく、奥深く壮大なダンジョンがあって、きっとそこで向かい合っているのだろう。もしかしたら彼らは凄まじく巨大な怪物か敵対する相手を討伐するためにファミレスへと赴いたのかもしれない。そう、『ニューロマンサー』でウィリアム・ギブスンが描いたようなサイバースペースの仮想現実がいつか実現する日を夢見て、彼らは今日もデジタル画面にゆらめく光彩の奥へと没入するのだ。

 人影が僕の視界にすっと入ってきたかと思うと、「コーヒーのお替りいかがですか」とすこし眠そうな顔をした店員が聞いてきた。「あ、おねがいします」と手短に答える。コポコポコポとカップにコーヒーを注ぐ音がして、それから「ごゆっくりどうぞ」と丁寧におじぎをして店員は去って行った。ごゆっくりどころか、もう八時間以上も居座っている。しかも注文したのは二五〇円おかわり自由のコーヒーのみ。これほど迷惑極まりない客もなかなかいないが、自宅は禁煙と決められている僕が朝まで煙草を吸いながら本を読んでいられる場所は近辺ではこのファミレスしかない。

 それにしてもファミレスというのは、都市郊外の中に浮かぶ小さな異界に思える。都市の世界とは、緩慢に広がる住宅街とオフィス街、その間に張り巡らされた数々の交通網、朝に夜に満ち引きを繰り返す人々の波。こうした日常空間に生きる人の単純な往復は留まることを知らない。まるで何かにとり憑かれたかのように行ったり来たりする。しかし、そうした運動法則を有する世間からファミレスは隔絶している。すなわち、人はそこで立ち止まることを許されているのだ。例えば、ノートパソコンと仕事用の資料をテーブルの上に散らかしたまま何もせず、歩道の上に落ちた街灯の青白い光を醒めた目で見つめて、そして何かを慎重に吟味するような深刻な表情を浮かべている、あのビジネススーツの彼のように。

 小さな異界としてのファミレスは一人で黄昏る場所でもあるが、午前中から昼にかけてはご婦人方やご老人たちのおしゃべりの場で、夜になると家族連れが外食に来るのはもちろんのこと、親戚や友達同士で集って和気あいあいと歓談するのに利用されたりもする。しかしその隣では孤独な老人が一人で豪勢な晩餐をとっていて、さらにその隣ではマルチ商法の勧誘に無垢な若者が引っかかっていたりする。そして大学の試験期間が始まると深夜には学生たちが集まって喫煙席を占拠し、頭上にタバコの煙をモクモクさせながら筆記テストの勉強や課題のレポートを書いている。そうかと思えば、僕のように友達もなく一人で空疎に時間を潰している輩も深夜帯には多い。

 このようにテーブルひとつひとつの世界はまったく違っている。客同士がファミレスという同じ空間にいるのにも関わらず、それはライプニッツが想定したモナドのごとく、複数の時空間が隔絶しながら、しかし全体としては調和しているように見える。テーブルごとの異なる時空を超越できるのは、偉大なる神ではなく可愛らしい制服を着た店員たちであり、食べ物や飲み物が記載されているメニューがプログラム・コードとしてこの消費の宇宙を厳密に秩序付けている。しかしそれはたまに季節限定フェアによって変更される。こうしてファミレスは寄る辺なき都市生活者に小さな祝祭と孤独な安息を提供し続けているようだった。

 ということで、僕のファミレス・レポートは以上になる。窓から外を見ると、東の空がやわらかな陽の光に照らされて黄色く滲んでいる。とうとう朝が来たわけだ。手元に開いてある小説『夜の果てへの旅』では、主人公バルダミュがアメリカで見つけた女と別れて、再びフランスへ戻ろうとしていた。女は主人公に向かって言う。「結局、それがあなたの道なんだわ……遠くへ、たったひとり……いちばん遠くまで行くのは、孤独な旅人なんだわ」。思えば、このファミレス・レポートも遠くまで来たものである。そう、夜の果てに至るまで、僕はカメラを回し続けたのだ。