内部生活者の手記

読書記録と雑文集

大学という社会的現実とその亀裂

・はじめに、一つのエピソードから

「君、学生ならヘーゲルの『精神現象学』ぐらい知ってるよね?」

 大学二年生の英語クラスで、大昔に有名だった学者の弟子だという初老の英語講師が、彼の前に座っている女子大生に向かってそうたずねた。聞かれた方の彼女は、「へーげる」という人名と、「せいしんげんしょうがく」という言葉が、自身の日常生活からは遠くかけ離れた、およそ火星かどこかに住む宇宙人の何かのように思えたのだろう。強張った表情のまま「知りません……」と、彼女は小さくつぶやいた。その講師はひどくおどろいた様子で絶句し、それから自分が学生の時にはドイツ観念論をいかに耽読(たんどく)したかについて語り出した。彼女をはじめとして学生たちは、その話を黙って聞いていた、というよりも聞き流していた。

 休学から復学したばかりだった当時の僕は、この気まずい一連のやりとりから、この英語講師と女子大生を隔絶する時間をまざまざと感じさせられていた。そして、誰にでも分かることだが、この隔絶を生み出した時間には、二人の主観的な経験の差異だけでなく、客体としての社会的現実の相違が内在しているのだということも、直観的に理解できた。すなわち、このエピソードの時点において二人は話しているのだが、しかし実際には話せていないのであって、その理由は広い意味での日常的な知識、もしくは生きられている背景的な現実の違いによるものだと僕は考える。

 この背景的な現実、社会的現実の違い。そこから、この文章を始めようと思う。

 

・視座と問い

 「大学の危機」が叫ばれている今日、現政権に対する反発として学問の意義を議論する様子はいたるところで見られる。特に人文科学に所属する学者や大学院生などは、その有意性を様々な角度から主張しているようだ。そうした言説の多くは、ヒューマニズムに依拠したものであったり、産業界の目的や論理との相違点を挙げ連ねるものであったりする。

 その他方で、学問に関わらない場所で日々をすごす人たちは、「人文学軽視の傾向」や「大学生の読書離れ」などについて、ことさらに注目し、何事かを考え、そして自身の意見を持つほど、親切で物分かりがいいわけではないだろう。しかも、そうした人たちのなかには、多くの大学生を加えることも可能なのである。

 かくいう僕は、人文学部生として大学に在籍している学生である。しかし残念ながら「大学」そのもの、あるいは「学問の共同体」のようなものに格別の愛着はない。というのも、哲学や文学などについてあまり真面目に勉強したこともなければ、休学と留年を重ねて来年度からは六年生という事情もあって、「学問の素晴らしさ」を説けるほどの優秀な頭脳も良識的な人格も持ち合わせていないからである。とはいえ、では大多数の大学生たちと全く同じ立場かと言えば、それも違うので、正直なところ「どちらでもない」としか言えない。要するに、立場なき異邦人である。

 この異邦人としての僕が、はばかりながらも大学について何事かを論じる上での視座を、社会学者ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンによる『日常世界の構成』から、少々長くなるが引用して、あらかじめ示しておくことにする。

 

(特定の社会的世界の中で通用する、理論以前の、習慣・伝統的に誰もが知っているもの:引用者注)こうした知識は制度化された行動を動機づける原動力となっている。それは行動の制度化された領域を指定し、その領域内に入るすべての状況を指定する。それはこの制度の文脈内で遂行されるべき役割を規定し、構成する。事実上、それはそうした行動の一切を統制し、かつまた予言する。この知識は知識として、つまり現実に関して一般的に妥当する真理の体系として、社会的に対象化されたものである以上、制度的秩序からの基本的な逸脱は、すべて現実からの離脱としてあらわれる。〔中略〕

(こうした社会構造の論理を個人が内面化するとき:引用者注)この意味において、知識は社会の基本的な弁証法の中心に位置するものである。それは外化が客観的世界を創造する回路を客観化する。つまりそれは、この世界を現実として理解されるべき対象のもとへと整序付ける。そしてまたそれは、社会化の過程において客観的に妥当する真理として内在化されていく。このように、社会についての知識は、ことばの二重の意味において、つまり対象化された社会的現実の理解という意味と、この現実をたえず創造しつづけるという意味において、実現化なのである

(ピーター・バーガー&トーマス・ルックマン『日常生活の構成―アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳、新曜社、一一三―一一四頁)

 

 今回のテーマ「大学」に合わせて、バーガー=ルックマンによるこの知識社会学の視座を適用すると次のようになる。

 学問という営みが行われてから、あるいは大学という制度的機関が成立して以降、習慣的に積み重ねられた知識は、大学内の人間に特定の行動(専門的な研究や講義、啓蒙的な広報など)を指示し、その行動を起こす役割(=知識人、教養人、オピニオンリーダー)を与えて、なおかつ大学という場において、何が問題で、何が問題でないか、何が正しくて、何が正しくないかということの社会的現実=有意性の圏域をも保証してきた。そしてその知識は、大学の社会に新たに入ってきた個人(=学生)に対しても、大学内の論理や真理や価値観(「学問は重要だ」「人文学は社会に有益だ」)を、正当化し、理解させ、内面化させ、その社会に適した行動を採らせるように、媒介的な役割を果たしている。

 以上のことを裏がえせば、こうした有意性の圏外にいる人間からすると、大学内部の人間が何を言っているのかサッパリわからない、という亀裂を見る事態に直面してしまう。そしてこの亀裂は「現実」として、すでに書いたエピソードのように現に実在する。というわけで、この「現実」を傍観する異邦人として僕は、「大学とは何か」という本質に関する議論はいったんおいて、さしあたって次のように問うことにしよう。

 大学という社会に割って入った亀裂は、なぜ生じたのか、と。

 

・「意識高い学生」の出現

 学問共同体が、自分たちの社会的な現実観は外の世界だけでなく、学生たちにも通用しないことに気づくとき、他方で学生たちはどのような現実を生きているのだろうか。

 まず学生の人物像について想起してみると、大まかに三つの類型が仮定できる(先に断っておくと、実際にはこれらの要素が各人に応じて様々な配分で備わっている)。

 大学をレジャーランドとして大いに遊ぶ学生たち、学術書や古典を読み耽る学生たち、学外の活動に血道を上げる学生たち。  

 このなかで、一番目と二番目は昔からいたと言えるだろう。一方で、三番目に関しては最近になって突然注目されるようになった類型である。ちなみに「学外の活動」というのは、学生団体やインターンや留学や旅やボランティアなど、学問以外で「役に立つ」「有益な経験」と言われることだ(論旨の便宜上、アルバイトは除く。なお「留学」については学問との接点が人によって様々であることを留保として書いておく)。この三つ目の類型が、今日の大学が直面している対話不可能という「亀裂の問題」に深く関わってくるのだ。その理由について、この類型を詳細に考察しながら以下に進みたいと思う。

 ところで、前述したように僕は大学を一年間休学していた。何をしていたのかというと、海外で旅をしていた。各国でボランティアもした。帰国してから学生団体らしきものを立ち上げて、休学経験者たちの共同ブログを書いていた。留学代理店やインターン斡旋企業と提携してビジネスらしきこともした。要するに、「学外の活動」に該当する主なことは大体やってきたわけだ(はいそこ、「意識高い学生だ」とか言わない)。

 とは言うものの、「意識高い」というフレーズは、一時期とても人口に膾炙(かいしゃ)した言葉であり、今なお通用する言葉として存在している。ここで言う「意識高い学生」と、前述した三つ目の類型は、ほとんど同様の人物像だと考えてもらって構わない。この類型について、『「意識高い系」という病 ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』で、著者の常見陽平は、その特徴を次の七つにまとめている。

一、やたらと学生団体を立ち上げようとする。

二、やたらとプロフィールを「盛る」。

三、すべては自己アピール。

四、ソーシャルメディア意識高い発言を連発。

五、人脈をやたらと自慢、そして利用する。

六、やたらと(就活に向けた)前のめりの学生生活を送る。

七、人を見下す。

常見陽平『「意識高い系」という病 ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』ベスト新書、二九―三七頁) 

 これらの特徴は、著者自身の経験に基づいたものであるが、この七つをさらに抽象化すると、要点は「ソーシャルメディアによる肥大化した自意識や承認欲求」と「就活(あるいはビジネス社会)への過剰な関心」という二点に絞ることができる。そして、この類型的な人物像を題材にした朝井リョウの小説『何者』は直木賞をとり、テレビではドラマ「その男、意識高い系」が放映された。このように(計量的な調査がなされたわけではないので)あくまでも推測にとどまるが、「意識高い系」という人間像は現在の社会において、一定の認知を得ていると言えるだろう。

 ある社会下における学生像を端的に分かりやすく示したものとして、青春小説がある。すでに紹介した朝井リョウの小説『何者』の世界では、ワナビー(何者かになりたがる人)と批評家かぶれ(分析眼があると思っている人)という、二分された人物像を描いて物語は進行していく。この物語世界の中には、理系の院生という人物が大人な見識と理解を持った人物として登場するが、小説の主題が「就活」であるからか、学問そのもの対する言及や描写は皆無である。

 大学を舞台とし、大学生を登場人物として描く小説の中で、代表的な名作として夏目漱石の『三四郎』がある。この小説では、大学の学問と、主人公の人生観と、異性との恋愛という、三つのテーマが絡み合っている。他方で、朝井リョウの『何者』でも、恋愛や人生観というテーマは出てくるが、しかし学問の代わりに就活が物語の主題としてスポットライトを浴びる。

 人物像としても、『三四郎』の主人公「小川三四郎」は、都会である東京やインテリの集う大学で起こる出来事を、内面的な悩みや内省へと転化させるような、いわゆる近代的な文化人の傾向がある。他方で『何者』の主人公「二宮拓人」は、自らを記号的に装飾する意識高い学生たちや就活での出来事を、これまた記号的な(あるいは表面しか見ずに独断的な)解釈をしてツイッター上で批評する、今時ありがちな人物である。「学問」「内面性」と、「就活」「記号性」という、青春小説におけるこうした着眼点の差異は、明治と平成の時代的な「主題」、あるいは社会的な「価値」の違いが、そのまま如実に反映されているようにさえ思える。

 意識高い学生は、その自意識とインターネットの間で、「就活」と「記号」という制度体系によって秩序付けられた社会的な現実を生きている。しかし、学生が大学内にいながら、学問共同体の圏外にある論理によって行動することは不合理に思えるかもしれない。だが、一人の人間が主観的に把握する社会的な現実は、何も一つに限られた世界ではなく、いくつもの制度的な秩序の中で生きているはずである。換言すれば、異なる価値体系と論理を備えた複数の社会圏を身の周りにまとっているのであって、当然そのなかでも影響力の強弱や優先順位、すなわち有意な現実にも競争的な対立が存在するのだ。

 そのなかでも強力な社会的現実=イデオロギーとは何か。学生にとってのそれは、あらゆる電子メディアを介して輸入される、市場をグローバルに拡大する資本主義の世界観である。そして国家はこの制度的秩序によって役割を付与され、同時に国家も「日本社会の諸問題を解決し、未来を切り拓くためのグローバル人材育成」という名目で、その役割を国民育成のために利用している。

 読者の中には知っている方もいるかもしれないが、「トビタテ!留学JAPAN」という留学支援制度が、文部科学省の政策として二〇一三年から導入された。この支援制度は、国が高校生や大学生に対して返金不要で多額の資金を提供し、それもアカデミックな海外留学だけでなく、インターンシップ、ボランティア、フィールドワークなどにも適用可能という、とても柔軟な支援制度である。ここで重要なことは、もちろん「学問以外の活動」も許されている、いやむしろ推奨されているという点だ。これは意識高い学生たちが熱心に取り組む活動とほとんど同様である。

この制度を紹介するウェブサイトにはこのように書かれている。

 

『トビタテ!留学JAPAN』とは政府だけではなく、官民協働のもと社会総掛かりで取り組む『留学促進キャンペーン』です(『トビタテ!留学JAPAN』http://tobitate.mext.go.jp/about/index.html

 

 ここで注目するべきことは、大学に在籍する学生が対象の支援制度であるにも関わらず、それを運営するのは「社会の総体」の「政官民」であり、「学」は含まれていないということだ。つまりこのメッセージは、学生を大学の制度的秩序から分離させ、政治的に統合=包摂することを意味する。そして、次に引用する文部科学大臣の挨拶は、まるで意識高い学生たちがネット上で異口同音に叫ぶ美辞麗句の引き写しのようである。

 

世界はどんどん変化します。あらゆる場所でグローバル化は加速し、情報通信や交通分野での技術革新により、人間の生活圏も広がります。また、世界は今、貧困や環境、エネルギーといった多くの地球規模課題(グローバル・イシュー)を抱えています。こうした中、先進国である日本は、それらの課題に積極的に取り組むことが求められており、そのためには、異文化を理解・尊重するグローバル意識を持つ人材が必要です。加えて、経済活動の変化と広がりに対応する上では、既成概念にとらわれない、チャレンジ精神も必要です。そうした人材を育てるための一つの有効な手段が、海外留学です。私は、若い皆さんが社会に出るまでに一度は日本から飛び出して、広い世界を肌で感じ、外から自分自身や日本を見つめ直し、先を見通すことが難しいこれからの時代を生き抜く力を身に付けてほしいと思っています(同上)

 

 学生がこの政策的制度に影響を受けたわけではなく、あくまで国際経済の動向に影響を受けているということを示すために断っておくと、「意識高い学生」という人々とその言葉が生まれたのは、この留学支援制度が始まるよりも前である。なぜなら、既に書いた朝井リョウ『何者』は二〇一二年に出版されたものであって、そして就業関係の文筆家である常見陽平によれば、リーマンショック以降、そしてSNSが一般的に普及した二〇〇九年あたりだと推測されており、僕自身の経験からもこの指摘には同意する。

 話を意識高い学生に戻そう。「意識高い学生」という人々を、ここでもう一度確認しておくと、「就活」、あるいは広義の意味での「就業」という制度的な秩序のなかで「記号」によって自らを装飾する学生である。ここで多少の修正を施すならば、意識高い学生は、あらゆる領域を自由市場化していくグローバル経済の動向に影響を受けて、もしくはその影響を受けたソーシャルメディア上の有名人に感化されて、労働市場における自分の価値を高めるようとする傾向にある学生だ。言い換えるならば、人間や社会の価値基準そのものを吟味する学問的な知性よりも、特定の社会的現実における価値基準(=労働者としての有能性)に即して、より能率的に処理することができる知能や技術を得ようとする人である。そして、揶揄の対象となっていた美辞麗句による自己表象のための「記号」は、国家の制度化された広報活動=プロパガンダによって政治的に統合=正当化される。そうすると、もはや意識高い学生は、非難の対象となる特殊な人たちではなく、一つの社会的な現実に適合した「利口な学生」と言えるのだ。

 その背景を挙げるならば、採用解禁時期の変更によって、早い段階から企業が学生にインターンの機会を提供することは現に当たり前となっているし、そこで予備選考を行うこともある。そしてこれに多くの学生たちが自ら望んで参加していることも考慮するならば、意識高い学生=利口な学生が有する価値観や行動原理は、より一般化していくことが予想されるだろう。

 意識高い学生=利口な学生の極端な例として、休学者を挙げよう。文部科学省の発表によれば、平成二十四年(二〇一二年)の時点で、全学生2,991,573人のうち、休学者数は67,654人(2.3%)。その内で「海外留学」は15%(約10,148人)を占める。しかしこれは正規の留学者数であるから、その他の活動(私費留学、旅、インターン、ボランティア)を含めれば、上記の数値よりも多いことは容易に予想できるだろう。ちなみに推移としては平成十九年の時点から平成二十四年までに、休学者は22,077人増加、海外留学者数は3,585人増加している。

文部科学省 平成二十六年報道発表「学生の中途退学や休学等の状況について」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/10/__icsFiles/afieldfile/2014/10/08/1352425_01.pdf

 このような状況から、大学の学問共同体が要請するような価値規範による学生像、つまり古典的な書物を読んで教養に身を浸し、内面的な自己を陶冶し、自分の専門分野の研究をするといった岩波文化人や文学青年と、意識高い=利口な学生とは、互いに相反するものであると言える。

 ここまでをまとめると、「社会的な現実」におけるグローバル経済(+政府)と大学、そして「価値規範の現実」における就業と学問という、この二つの現実に内在する対立した両者の秩序体系が、学生の大学生活という時間のなかに共在している。そして大学は、程度に差があるとはいえ、前者の側に傾いた状態の学生たちに対しては、当然の帰結として、学問世界の論理も、人文科学の有意性も、何も理解されない事態が発生するわけである。もっと言えば、大学の学問共同体は、学生たちと対話不可能になっているどころか、学生たちに逃げられ始めているのだ。

 ところで、そもそも、なぜこうした学生たちが生まれたのだろうか。そのことについて、次章で大学生の三つの水準を参照しながら考えてみたい。

 

・大学生における三つの水準―「教養」「学力」「スキル」

 意識高い=利口な学生たちは、当人たちによって自発的にそうなったのだろうか。それだけではないと僕は考える。つまり、構造的な原因が存在するのだ。そのことについて、大学生における三つの水準を時代的な推移とともに見ていきたいと思う。

 まず一つ目に「教養」を挙げる。これこそが人文学、ひいては学問の根幹の信仰対象とも言える水準である。日本の場合、教養という精神的土壌は明治期における西欧からの輸入物であるが、一方で日本には「修養」という、土着の人格主義的信仰がある。このことについて、竹内洋は次のように指摘する。

 

教養主義は西洋文化の崇拝を核にしたからバタ臭くはあったが、修養主義と同じく勤勉を底礎にした鍛錬主義だった。したがって、教養主義は、必ずしも成熟した都市中流階級のハイカラ文化とはいえなかった。むしろ田舎式ハイカラ文化とでもいうべきものだった(竹内洋教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』中公新書、一七三頁)

 

 教養の大きな項目として「文学」が挙げられるが、そもそも文学も輸入物であったために、都市のブルジョワであろうが、田舎の農民であろうが、それはまったくの新しい領野であった。だからこそ、文化資本の多寡に関係なく、立身出世的な意志が文学と結びつくことが可能だったわけである。この当時「大学生になる」ということは、そのまま「末は博士か大臣か」という時代なのだから、田畑を耕すがごとき刻苦勉励による教養の蓄積=人格的修練も、社会階層において「成り上がる」ことへと直結できたのだ。すなわち、教養は、この当時の学生にとって強力な現実感感を持つ一つの水準たりえたということである。

 しかし、教養という水準は、日本が都市社会化・大衆社会を迎え、学生運動の絶頂期で臨界点に達し、その効力を失っていく。すなわち、大学生になっても学者や文筆家になれるわけではない学生が大量に出現するのである。竹内は、その当時の学生たちを代弁して次のように言う。

 

おれたちは学歴エリート文化(=教養主義:引用者注)など無縁のサラリーマンになるのに、大学教授たちよ、おまえらは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義マルクス主義マルクス主義教養主義)をたれている」と。(同書、二一〇頁)

 

 二つ目に「学力」を挙げよう。教養が精神的な土壌だとしたら、学力は社会的な土俵である。ここで言う学力も、やはり近代以降に成立し、そして戦後からはより強力に制度化された水準として考える。なぜなら、それは大衆社会を背景とし、全ての学生に対して、平等かつ一元的に数値化された客観的な評価を下すものとして形成されたものだからだ。この平等神話の言説について、苅谷剛彦は次のように言う。

 

「試験」という、一見、公平無比な選抜装置によって、生まれの刻印を消去できる社会。身分や階層によらず、多くの人びとがより高い学歴を求めたのも、一度「試験」の関門をくぐり抜ければ、「氏や育ち」よりも学歴がものをいう社会のイメージが根強く、しかも広範に存在したからである。その意味で、学歴社会という社会認識は、「生まれ変われるものなら生まれ変わりたい」という人びとの願望を強化し、その願いを教育へ、学校へと水路づけするイデオロギーとして作用したのである

(苅屋剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴社会と平等神話の戦後史』中公新書、一二一頁)

 

 これもまた「上昇すること」という意味で、教養と同じ論理を備えた社会的現実を示す水準だと言えるだろう。しかし、教養という水準が本質的には西欧型の知識人という特権階級を社会圏として画定するものであったとするならば、他方で戦後における学力の水準は、漠然とした大衆社会のなかで、文化資本も経済資本も関係ない学歴という神話によって、相対的上位の経済的に安定した階級を目指すのに有用な水準となった。

 最後に三つ目の「スキル」を挙げる。これが教養や学力から、明らかに分岐する水準であり、現在の学生にとって最も有意性を感じさせる制度的水準である。これについて考える前に、常見陽平がこの水準に関係する重要な示唆をしているので、茂木健一郎のツイートに対する常見陽平の反論の一部を引用する。

 

茂木健一郎の発言:引用者注)「大学三年の夏から、実質上就職活動が始まる日本の慣習は、明らかに異常である。学問が面白くなって、これからいよいよ本格的にやろうという時に、なぜ邪魔をするのか」

常見陽平の反論:引用者注)「まず、この前提は、『頭のいい人』、いや『頭がいいと思っている人』の論理だ。日本の大学の学問は、すべての学生にとって面白いのだろうか?(中略) 前列の席に座っている学生はともかく、後ろの席は居眠りと私語と携帯いじりだ。少なくとも文系の学生はそうだ。この前提自体がおかしい」

(常見前掲書、九八頁、なお茂木健一郎氏の発言は、同書において内田樹氏のブログ記事から引用されていた)

 

 茂木と常見の対立点は明確である。つまり、学問の価値が「面白いかどうか」にかかっているという点だ。しかし見方をズラしてみるならば、そもそも学問を何のためにするのかという根本的な問いへと移行することができる。これまでの二つの水準に対する社会認識には、特定の社会的現実のなかで、精神的・経済社会的に「上昇する」という動機が内在していた。そして学問は、この二つの水準において、鍛錬される知性であれ、暗記される知識であれ、どちらにせよ必要とされていた。

 他方で、現在の時点における学生の動機には「面白いかどうか」という、趣味判断的な基準が前面に出てくる。すなわち、学問は、その特権性を剥奪され、他の趣味と同列に置かれているのだ。ここで常見の言説を敷衍すれば、「学生は学問に限らず、自分が面白いと思うことをすべきだ」ということになる。もはや学問は、消費される娯楽や活動的な営為と競争しなければならなくなる。

 このフラット化した局面に到達した時点で、スキルという制度的水準は、意識高い=利口な学生という人びとを生み出す。どういうことかというと、まずスキルとは実務能力や創作技術力を示す言葉であり、就活や趣味やその他の学外活動で「役に立つ(と思われている)能力」である。しかも学生にとって、大学を出たあとはほとんど用無しになる(と思われている)教養や学力とは一線を画す、将来性を感じさせるような有益かつ重要な水準に見えるわけである。当然それは、古臭く馴染みのない古典的な教養や、詰め込むだけの無味乾燥な受験知識とは違って、「主体的に」取り組みたくなるほど「面白い」と形容される。もちろん、そこには経済階級的に、あるいは「個性の承認度合い」において、「上昇すること」への欲望が含まれるのだ。そうしてこの水準に影響を受けた学生は、この制度的秩序を内面化していく。

 以上のことをまとめると次のように言えるだろう。三つの制度的な水準は、大学生という主体を自らの制度的秩序の圏域へと誘致し、そしてその内的な真理の体系を内面化させようと、それぞれが次のように有意性を主張しながら共在している。

  • 教養(より専門化していくのに必要な古典的学識と人格的修養に必要な知性)
  • 学力(大学受験と公務員試験で必要になる暗記知識)
  • スキル(就活と学外の活動、そして将来は業務や趣味のために必要な知能=技能)

 この三つの水準は、それぞれの内部に社会的現実=有意性の圏域を備えている。すなわち、教養には読書文化と専門知識を重視する知識人の世界、学力には学歴を重視するテクノクラートの世界、スキルには実務と創作の技能レベルを重視するビジネスマンと趣味人の世界、である。

 スキルの世界に入っていった学生が、より個人として活動し評価されることへと尖鋭化した結末は、「意識高い学生」と同時期に流行した「ノマド」という人びとだ。「時間・場所・組織に制約されない自由な働き方」という、イデオロギーとも呼ぶべき謳い文句を掲げたノマドブームは、実は90年代前後のフリーターブームの変奏でもある。

 こうした極端な類型を生み出す背景には、終身雇用制度の崩壊や転職市場の活性化が挙げられるかもしれない。しかし常見はこうした一部の傾向を「幻想だ」として批判する。

 

「これからは会社が潰れても生き残る人材の時代だ」「どこにいっても通用する人間になれ」という意見もよく聞くが、実際は(独立行政法人 労働政策研究・研修機構『第6回勤労生活に関する調査』によれば 注:常見)1社でキャリアを形成したいという人が5割にまで推移している。しかも独立自営キャリアを望む人はますます減っているというのも現実である。(中略) 「有名大学を出たらレールに乗ったようなものだ」そんな言葉があったし、今も一部には残っている。そう、私たちの多くは、そんな「レールモデル」を求め、しがみついているのだ(同書一八五―一八六頁)

 

 常見は、この点においては、社会科学の学識を用いて、その制度的秩序に基づいた批判的検討を行っている。しかし本稿で重要な点は、こうした批判が行われるぐらいには、意識高い学生とノマドの住む、スキルという水準を核にした社会的現実が現に形成されているということである。

 

・亀裂の回復へと縫合される大学のカリキュラム―三つの社会的現実

 大学という社会に亀裂が入った原因は、明治・大正から昭和、そして昭和(戦後)から平成へと時代を経るごとに、教養から学力へ、学力からスキルへと、学生にとって有意な制度的水準が変遷してきた、あるいは分裂してきたからである。そして、この三つ目の段階に到達した時点において、学外で多種多様な活動を行う意識高い学生が発生し、それが尖鋭化すればノマドワーカーに、穏健に適合していけば利口なインターン学生になり、学問共同体の外にあるビジネス社会の制度的秩序を内面化することによって、大学は内側から切り崩されていくのだと、ひとまずのところ結論付けたい。

 ところで、大学運営側は、この事態に直面してもなお、頑なに旧態依然の教養主義、あるいはテクノクラートの再生産を行い続けているのだろうか。実際のところ、昨今の大学におけるカリキュラムは、やはり時代の変化を追って変化してきている。その特徴的な側面について、スガ秀実は次のように言う。

 

スチューデント・コンシューマリズム(D・リースマン:引用者注)は、もちろんまず、バブルの時代に猖獗(しょうけつ)をきわめる種類のものです。それは、さまざまな形をとって現出します。見やすいところでは、相撲の舞の海を某大学が講師に呼んで学生の人気をとるとか、語学なんかやらなくても卒業できる文学部、数学や物理・化学の入試がない理工学部といったものですね。九〇年代の教養部改組の結果として、「国際」「環境」「地域」「表象」「文化」「総合」「情報」等々といった言葉を冠した学部が簇生したことは周知のとおりですが、これもまた学生消費者主義の一環といえるでしょう(スガ秀実『JUNKの逆襲』作品社、二〇七頁)

 

 学生消費者主義とは、端的に言えば市場支配力を持つ学生のニーズに応える大学運営方針という意味だ。このスガの言説を言い換えれば、要するに「規律=訓練を必要とするハードな学問ではなくて、学生たちにウケそうなソフトでポップなことをやろう」というわけである。

 スガは九〇年代における大学カリキュラムの状況を批判したが、前章で述べた「スキルという水準」は、主にゼロ年代後半から現在に至るまでの大学カリキュラムに影響を及ぼした。つまり、大学は学生消費者主義に基づくカルチャースクール化の延長として、「キャリア教育」の名の下にグローバル・ビジネススクール化へと移行したのだ。極言すれば、大学が企業という外部へと教育を委託する動きも活発化しているのである。

 その例をいくつか挙げるならば、二〇一一年から大学では「キャリア教育」が義務化され、多くの大学ではそれが必修科目になっている。そして企業へのインターンシップで単位認定を行っている大学数は、一九九八年に23.7%(143校)だったのに対し、二〇一一年には70.3%(554校)にまで拡大している。

文部科学省 【資料1】「インターンシップの普及及び質的充実のための推進方策について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/055/attach/1338000.htm

 また二〇一五年における文部科学省の政策「私立大学等改革総合支援事業」で、626校が選定され、次の四つのタイプが設けられた。「教育の質の転換」「地域発展」「産業界・他大学等との連携」「グローバル化」。これらのタイプの機能を綜合的に抽出すると、それはまさしく「大学ではない外の社会(地域・産業・海外)へと、学生を主体的に参加させること」に他ならない。

 ここには、異なる三つの社会的現実が統合していく過程を見ることができる。すなわち、大学と学生との間に入った亀裂に対して、グローバル経済の制度的秩序から役割を付与された国家が政治的に介入し、大学に新たな役割を与えて両者を縫合しつつあるというわけである。こうして、グローバル経済、国家、大学という三つの社会的現実は、それぞれが「労働者」「国民」「消費者」を求めて、「スキルの水準」へと大学生を包摂しながら、一つの制度的秩序へと統合していくのだ。

 

・最後に、もう一つのエピソード

二〇一一年の四月中旬、震災が起きて延期された入学式に僕はいた。キャンパス内の桜が満開だったことをまだ覚えている。その花びらとともに舞うサークル勧誘のチラシ、すこし大人っぽい在学生たちの姿を見て、自分はどんな大学生活にしようかと考えを巡らしていた。ベタもベタだが、まずテニスサークルに行ってみた。そこの学生に学部と学科を聞かれて、「人文学部●●学科です」と答えた。僕は学問に特別強い関心があったわけではないが、受験勉強の延長として、文学や思想や歴史に、それなりの興味はあった。だからかもしれない、そのサークルの学生から言われた次の言葉に、少なからぬショックを覚えたのは。その人は言った、「同じ学科だから、ラクに単位取れる授業を教えてあげるよ」と。

 入学初日、たった数時間で、僕は、大学が「ヘンな場所」に、大学生たちが「ヘンな人」に見えてきた。結局そのサークルには入らず、大学内の社会にも馴染めないまま、一年後には休学して旅に出た。帰国してから、意識高い=利口な学生たちと共に、いや僕自身もそうであったのだが、学生団体のようなものを立ち上げた。しかし、それも長続きせず、半年ぐらいで辞めてしまい、今度はファミレスに一人こもって、手当たり次第に哲学や文学や社会学書物を読み漁るようになった―。

 こんなくだらない自分語りをしたのは、つまるところ、これまでの文章の全ては、僕が経験してきたことから生まれた問題意識によって書かれているということを示したかったからである。大学に五年もいるのに、その社会像がまったく掴めてこない。そして他の大学生たちが、どんな行動原則で動いているのかも、よく分からない。そういった不安あるいは疑問から、この文章を書いた。

 同人誌への寄稿は初めてなので、どう書いたらいいのか分からなかったが、ともかく自分が考えられることを、書けることを、全て出したつもりである。そして最後に、原稿の締切直前に参加申し込みをしたのにもかかわらず、親切で丁寧な対応をして頂いたふるとさんに感謝します。ありがとうございました。

文学フリマ: 評論同人誌「余白のR」寄稿論文)