東京郊外を旅する(光が丘-高島平-多摩ニュータウン)

・概観

1.旅の前の予備知識

2.漫喫の夜

3.光が丘団地

4.ロードサイドで考える

5.高島平団地

6.多摩ニュータウン

7.角田光代空中庭園』について

 

1.旅の前の予備知識

 都市社会論や郊外論をいくつか読んでいて徐々に分かってきたことがある。というのは、郊外を取り上げる各著者が実例として挙げる地域やデータ、そしてその主張のなかで主軸となるテーマごとに語られる<郊外>は、それぞれが微妙に違った顔をしているということである。

 社会学者の若林幹夫は『郊外の社会学』で、郊外をめぐる様々な言説のなかに現れる「同質性」という神話と、その他方で郊外の現実が「多層化」していることについて言及しているが、まさにそのことを僕は感じ取っていたというわけだ。

 より具体的に説明するならば、明治から昭和初期にかけての郊外は「山の手」であり、磯田光一が言うところの標準語的東京に憧れて地方の田舎者たちが移り住んだ辺りである。ちなみに江戸時代に至っては、新宿は「江戸の町」ではなかったのだから、こうして考えてみると時代が進んでいくごとに人がたくさん訪れるという意味での「都心」は西へとズレていったことがわかる。

 アメリカ航空部隊によって東京大空襲が行われ、様々な場所が焼け野原になった後で、都市計画が行われると本格的に現代の郊外が形成され始めた。そして世田谷・杉並・西東京・武蔵野あたりに公営の集合住宅、いわゆる「団地」が計画的に建設されていく。朝鮮特需によって経済が上向いてきた1950年代を契機に東京は西へと分厚く膨らんでいくのである。

 そして1970年代に入ると郊外は北にも広がり、人口を量的に補うための住居として、練馬の光が丘団地が建設され始め、そして戦後最大級の団地群であった高島平団地は1973年に入居が開始した。

 そのころから住宅戸数が世帯数を上回るが、しかしバブル景気によって都心の不動産価格が上がると人口はさらに西へと流出し、その結果1970年代から1990年代にかけて稲城・八王子・多摩・町田にまたがって「多摩ニュータウン」が建設されていく。有名な場所で言えば南大沢や多摩センターなど、アウトレットや大型のショッピングモールが集積されている商業地区だろう。

 この地域の特徴は建造物自体の外観がそれまでの無機質な箱型団地とは違って、ポストモダンな形式をとっているということだ。建物の構造が機能性だけでなく表現性を伴っており、見ただけで分かる奇抜な形をしている。例えば場所は違うが新宿のコクーンタワーなどはその象徴的な例である。

 さて、ここまでが20世紀における東京の郊外化に伴う住宅の変化についての概略である。すでに述べてきた通り、概念としての<郊外>は単一の抽象的なイメージを持ちながらも、その実態は多様であることがなんとなく分かってもらえたと思う。

 この冬休みも僕は例のごとく放浪癖を発揮して東京の各所をフラついていた。しかし今回は今までのような漂流ではなく探索のための旅であった。以下に綴る文章は、なんらの客観的根拠を持たない、学術調査でもなんでもない、ただの印象論、ただの戯言として読んでもらえればと思う。

 

2.漫喫の夜

 周囲で寝息が聞こえはじめたと気づき、スマホで時間を確認すると既に深夜3時を回っていた。ケバケバしいネオンが輝く新宿歌舞伎町のど真ん中、そのビルディングのなかに入っている漫画喫茶で、積み上げた漫画を貪るように読みふけっていたせいで時間のことなどとうに忘れていた。

 僕がいる喫煙シートの薄暗い一角は空調の換気機能すら間に合わないようで、ケムいほどではないが明らかに空気がよどんでいた。しかしこの重たくどろりとした空気が全て煙草の煙のせいだとは思えない。むしろここらにいる人間たちが醸し出す気だるさのせいではないだろうか。もちろん僕もそんな人間たちのうちの一人である。

 頽廃的な空気を吸い込み続けたせいか、頭に鈍い痛みが広がっていく。体も心なしかだるく感じた。こんなところで一体何をやっているのだろうか、と自嘲を禁じ得ない気分であることは確かで、大学4年生の年末にしてはいささかテキトーが過ぎるようである。

 ふと、自分がここに来た理由を思い出す。そうであった、書物のうえで語られる様々な郊外にイマイチ実感が持てず、実際にそれらの土地に赴こうと思いたって、夜中に家を抜け出してきたのだった。そして新宿を起点に早朝から行動を開始して光が丘や高島平や多摩ニュータウンを見て来ようと考えたのである。

 しかしその肝心な予定を具体的にはさっぱり考えていない。現地で何をどのように見るのか、どんな資料をどのような観点で調べ上げるのか、まったく考えていない。そもそも都内を見てまわるなら深夜に新宿など来なくてもよかったのだ。突発的なある種の躁状態に衝き動かされてしまうのは、たぶん僕の最もよくないクセだろう。ただしかし僕にはこれまでの読書を踏まえて一つの疑問があったため、とにかくなんであれ現地に行って何かを見なければならなかった。

 一つの疑問、それは現実の物事や現象を抽象的な概念へと還元する際に、もしくは現実に流れる時間を説得的な論理によって一つの物語へと構成する際に、その整合性の作用や統合化の力によって、何らかの対象が実際の混沌とした現実からどこまで乖離し虚構化しているのかが分からないという事である。

 磯田光一『思想としての東京』、原武史『団地の空間政治学』、小田光雄『<郊外>の誕生と死』、若林幹夫『郊外の社会学』。これらはそれぞれが郊外をなんらかの形で語っているわけだが、そのなかで扱われる地域や時代や観点はそれぞれ違っており、しかし僕にはそのどれもが真っ当な主張・・・・すなわち<郊外>を捉えているように思えた。だからこそ、これら四冊の都市論を踏まえて実際に訪れてみようと思ったわけである。

 

3.光が丘団地

 「寒すぎる」

 それが都営大江戸線の地下から地上へと昇って最初に思ったことだった。それはともかく目の前にショッピングセンターがあって、その周辺を団地群が取り囲んでいる風景は、まさに僕が求めていたものである。

 上着を着ながら視線を周囲へと動かす。道行く人々の年齢と世代、駅とショッピングセンターと団地の距離、駅の近くにあるファミレスやファストフードをはじめとしたチェーン店の数々。郊外の特徴的な要素がどれだけ適合するのかについて考えをめぐらしながら、とりあえず図書館に向かって歩く。

 光が丘団地は、光が丘公園を囲むようにして形成されており、その近くには小中高の学校施設もある。そして団地の敷地内に入ってみると分かるが、一階が保育園になっているところも多く、「光が丘第9保育園」まであることは確認した。団地に多くの家族が入居した当時にまず必要とされたモノのなかでも重要視されていたのは保育園と学校だ。ここから察することができるのは、入居が始まった当時に保育園をたくさん用意しなければならなくなるほどの世帯数で若い家族がここの団地に住んでいたということだ。 

 なぜそれがそこにあるのか?ということを、日常の空間において問うことはほとんどない。林立する集合団地は僕にとっても日常の風景だ。しかし、その日常を相対化し既知の内容を一旦カッコに入れることによって、団地が新鮮で奇妙に見えてくる。自明の世界を書物のうえで分解し、それを踏まえて身体的な感覚のなかで再構成するという試みは、旅の一か所目ですでに成功し始めていた。

 光が丘では主に図書館での作業が中心となった。司書の方からの協力を得て、1970年代から1980年代の自治会誌を集めた雑誌や、郷土史の研究資料などをお借りし、ななめ読みをしながら必要な部分はコピーをとらせてもらった。

 僕は練馬区にある高校に通っていたし、幼いころは住んでいたこともあるし、親類は練馬区に今も住んでいる。光が丘に関しては友達がたくさん住んでいる地域だが、高校生のときにサッカーの試合で一回来たことがある程度である。だからと言うのも難だが、光が丘団地や光が丘公園が戦時中は日本軍の成増飛行場で、終戦直後はグラント・ハイツという名の「練馬のなかのアメリカ」として米軍の住居区域だったことなど全く知らなかった。

 周囲からはフェンスで仕切られ、その中だけは通貨を含めアメリカンな暮らしが営まれていたという話のなかで目に留まったのは、日本人がその地区で従業員やメイドとして雇われていたという記述だった。まず練馬にアメリカ軍が駐屯していたことでさえも衝撃だったのに、日本人がそこで雇われていたという事実はなおさらに衝撃的であった。

 その記述を指でなぞるようにして読みながら脳裏に思い浮かべていたのは、村上龍限りなく透明に近いブルー』と『69』である。つまりあの話は遠くの他人事でもなんでもなく、歴史の彼方にあるわけでもない。練馬区という、僕にとっての心理的な近隣地域にも地続きの物語であったということを知り、そしてそのリアリティに対してヒリヒリとした戦慄を、昼時の和やかな雰囲気に包まれている図書館で感じていたわけである。

 必要なページをいくつかコピーさせてもらってから図書館を出ると、年末の休日だからか、何組かの親子が公園で遊んでいた。5歳ぐらいの男の子は落ち葉を踏んだ時の乾いた音に興味津々のようだった。冬の晴れ空から降り注ぐ透明な光が、そびえたつ団地群を超えて、落ち葉の山のうえで飛び跳ねる彼の背中を照らしている。彼のご家族は微笑みながらそれを見守っているようだった。

 僕は考える。この土地、この空間は、果たして殺伐としたファスト風土だろうか。僕の目の前で遊んでいた男の子の中からは、三浦展が言うところの「リアルな生活」は「喪失」されてしまったのだろうか。確かに三浦の主張するその「リアルな生活」とやらが、現在の郊外における大量消費社会に対置される「唯一のかけがえのないものという感覚」だということは理解できる。

 「ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そういえば、この異常さがわかるだろうか」(三浦『ファスト風土化する日本』p209)

 しかしこの文言はハッキリ言って三浦の妄言でしかない。消費中心の郊外社会=バーチャルな空間に生きる子どもたちをまとめて「異常である」と決めつけてしまうのは、たんに三浦がこの時代をその空間で育ったことがないからだろう。自分の頭では理解できないことをとりあえず「異常だ」と人は言いたがるものである。

ファスト風土の過剰なバーチャル空間のなかにあふれるおびただしい物を毎日見ていれば(中略)それどころか、命さえもがハンバーガーのような大量生産と同じで(中略)余れば捨てられる物として感じられてしまうかもしれない」(同書p209)

 僕自身は90年代末期に建設されたマンションの育ちだが周囲は50~60年代に造られたと思われる団地だらけで、そこを使って「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」はよくやったし、サッカーの自主練をしていた公園は団地の目の前にあった。部活の友達とは一緒に大通り沿いのマックやコンビニに行ったし、中学生の時に流行っていたエミネムの映画『8mile』はツタヤで借りた、哲学や文学の本はたいていブックオフで買っている。

 この暮らしがバーチャルだろうがなんだろうが、人の命はハンバーガーとは違うし、人を殴れば相手は痛いし自分の拳も後で腫れる。それぐらい普通に分かる。たぶん三浦の目には現代の子どもたちが宇宙人か狂人か何かのように映っているのだろう。とてもかわいそうな人である。

 たとえ人間を取り巻く諸装置が画一的なのだとしても、その空間に内在する含意的な記憶は多様である。だから人間の生活が社会の表層に明示されている物質によってのみ規定されていると考えるのは明らかに間違いである。それに三浦自身が「人は記憶のなかにある街を愛するのであり」と述べている。すなわちこれを裏返せば、三浦はファスト風土の街が愛するに値しないということを言明しているに等しい。まぁ要は「昔は良かった論」でしかないということだ。

 さて、そんなことを考えながらドトールに入ってミラノサンドを注文して、そして食べ物を受け取り、席に座ってからとても眠い事に気付いた。徹夜で漫画を読んだことを若干後悔した。

 

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4.ロードサイドで考える

 光が丘団地のなかを抜けて田柄高校の校庭の裏側に出ると、小さな立札が並んでいた。「空きのペットボトル、缶、吸殻をここに捨てないでください」と書いてある。校庭の裏で煙草を吸う生徒がいるのだろう。初めて訪れた場所ではあるが、話では聞いていたのでなんとなく納得した。

 ここから高島平団地に向かって6kmほど北上する。電車を使うと池袋まで回らなければならないし、バスは路線がよくわからないので、せっかくだし歩くことにした。どうせ暇人の散歩である。億劫になることもない。

 外出時は常に音楽を聴いているのだが、今日に限ってはイヤホンをポケットにしまった。ちゃんと自分の五感を使って街を“観て”おきたいと思ったためだ。歩くのも普段はわりと早いほうなので、今回は一定のリズムでゆっくり歩くことにした。

 まずは川越街道につきあたるまで歩く。左手に広がる光が丘公園が途切れた辺りで道路標識に「板橋区」と書かれているのを見つけた。並木道が続き、道路の両側は住宅街がある。道沿いに店を構える八百屋から店内のBGMが外にまで流れてくる。「もー いーくつねーるーと おっしょうがつー♪」という懐かしい歌であった。ついつい僕も口ずさんでしまったのだが、歌詞をあまり覚えていないことに気づきちょっとがっかりした。羽子板や凧揚げなんて、もう十年近くやっていない気がする。最後にやった記憶は学童クラブでのことである。

 古くからある文化的な遊びを子どもたちがしなくなったという嘆きの声は、たぶん今だけでなくもう数十年前から言われていたことだろうと思う。ただ今の時代ではパソコンやスマホやゲームが子どもたちにとって最も身近なツールであるために、羽子板や凧や独楽などはもはや非日常的な道具になってしまったように思われる。それが再び多くの子どもたちの手に取られる日はもう来ない気がする。

 見方を変えれば、社会や暮らしが豊かになったからシンプルなモノで遊ばなくてもよくなったと考えることもできる。シンプルなモノによる遊びというのは、たとえばサッカーがその典型だろう。たとえ貧しくとも、かき集めたボロキレを丸めて縫い合わせればボールはできるし、ボールさえあればサッカーはできるのだ。しかしサッカーの場合は遊びの範疇を超えて大きなビジネス市場を生み出し続けているから先進国でも多くの人々がプレイするのだが。

 さて、そんなことを考えながら歩くと、眠気が徐々に薄れて視界が鮮明になっていく。そうして川越街道にぶつかった。さすが大通りだけあって、カー用品店、ファミレス、ガソリンスタンドなどロードサイドビジネスと呼ばれる業種が道に並んでいる。

 乗用車、トラック、バス、バイクなどが整列して走っていく風景は、僕の住んでいる場所の風景とほとんど変わらない。街路樹だけがちょっと違っていて、名前は分からないが真っ白でつるつるした肌の木が葉も枝もほとんど失くした状態で路肩に並んでいた。それを見たときシュールなイメージが思い浮かんだ。というのは、雲一つない綺麗な晴れ空を背景に、働き蟻のごとく車が隊列を組んで走り続ける横で、脱け殻のようになった白骨体たちが等間隔に立ちすくんでいる風景である。

 ふと視線をずらすと道路標識のポールに一枚の紙が貼られているのに気付いた。それには「人類が平和でありますように」と書かれていて、何かこう居心地が悪い気がした。どこかの宗教団体の宣伝文句か何かだろうとは思ったが、モノの体制によって計画的に構築された町で見る「人類」という単語はどこか空虚な響きがあるように思えた。このロードサイドで平和を訴えるならば、人類よりも地域住民を想うべきだろう。

 川越街道を外れて、ひたすら北を目指す。「北を目指す」と言えばかっこよく聞こえるが、たんに住宅街のなかにある二車線の狭い道路を淡々と歩くだけである。それにしても、なぜ僕の旅はいつもこうなってしまうのだろうか。というのも、観光名所に足が向かないのである。それは世界一周の旅でも同じであった。たぶん他の長期旅行者に比べて訪れた世界遺産はかなり少ない方だと思う。

 町を歩いてしまうのである。気が付いたら日常の生活空間に潜り込んでいて、それが格別の刺激を僕に与えないとしても、そこをウロウロしてしまうクセがあるのだ。これは受け売り文句だが「自分が旅する非日常は、誰かの日常である」という言葉は、まさにその通りで首肯するしかない。この言葉は本来、旅人の粗相や傲慢を諌めるという意味だった気がするが、これを僕なりに解釈するならば、自分の住んでいる地域と大して変わらないように見える「日常の生活空間」でさえも僕にとっては非日常であり、すなわち「別の日常」がそこには根を張っていると考える事もできる。だから多くの人々が訪れる格別な場所としての観光名所だけが非日常的な空間なのではなく、むしろ別の日常こそが、誰かの日常を垣間見ることができるという意味で非日常なのである。

 淡々と歩くことに退屈を覚える人は多いように思う。それは多分「歩き方」を知らないからだろう。散歩にもテクニックがあるのだ。『地球の歩き方』が海外旅行をする方法を教えるものならば、こちらはさしずめ『郊外の歩き方』と言ったところだろう。しかしこちらの「歩き方」は少々の知識とちょっとした想像力が必要である。というのも、あれを観て、これを食べて、そこに泊まる、などという表面的な内容ではないからだ。

 実際に僕が目にした例だが、てくてくと歩いていると前方に二人の男の子を見つける。たぶん中学2年生ぐらいだろう。片方は自転車、もう片方は歩きのようである。歩いている方は周囲をキョロキョロしていて、どうも何かを警戒している。それからパッと自転車の荷台に飛び乗り、二人はサーッと行ってしまった。なるほど、警察がいないか確認していたのかと気づく。

 しかしすぐ近くの信号で彼らは足止めを食ってしまい、僕に追いつかれてしまった。もちろん追いつこうと思っていたわけではないが。後ろに乗っていた彼をよく見てみると、どうもハーフっぽい顔立ちでフィリピン系の浅黒い肌である。下は灰色のスウェットを腰パンしていて、上は大きめの黒のパーカー、髪の毛は短めの茶髪だ。

 ここでふと頭をよぎるのは現在の日本の労働人口の問題である。唐突なようだが、しかし彼から連想できることである。というのも、日本政府はこの国をアメリカ的なグローバル経済圏の枠組みのなかに組み込もうと必死であり、2020年には東京オリンピックが控えている。

 一方で、日本の生産年齢人口は32年ぶりに8000万人を下回ったという。しかし今後の少子化を考えれば、日本人労働者が増えていくことは難しいのだから、必然的に外国人の労働者が必要となり、実際に現政権はタイなどをはじめとしたアジア諸国に対するビザの規制を緩めていく方向にある。

 何が言いたいかというと、これからは移民についての議論が様々な次元で盛んになるだろうということだ。べつに国家政策レベルの難しい話ではなく、より庶民的で生活的な話題でも移民外国人の問題は顕在化するだろう。たとえば東京オリンピックに向けて様々なインフラ整備を行うためにブルーカラーの職業は労働人口を必要とし、アジアや中東圏から数多くの若い外国人が安い人件費で雇われたとしよう。彼らはただ働くロボットではない。どこかの住居で暮らしを営んで、場合によっては誰かと結婚し子供を育てることも想定しなければならない。

 その時に起きる可能性がある法的な問題や異文化間による問題は、一体「どこで」起きるだろうか。それは国会議事堂ではなく、まさしくこの「郊外」で起きるのである。「グローバリゼーション」なんてカタカナ語には馴染がない人たちの目の前で郊外がグローバル化するのだ。

 訪れる外国人側の立場について考えるならば、僕が先ほど通り過ぎた都立田柄高校には外国人募集枠が存在し、毎年一定数の外国人が入学している。彼らは日本語を自由に使える人ばかりではないだろうし、むしろ日本語が上手くない人は多いだろう。僕自身がたまたま教科書販売のバイトをしていたから分かることだが、田柄高校の彼らのなかには自分の名前すらマトモに書けない人だっている。そんな人が自ら働いて暮らしていくのに必要な申請書類や契約書類を一人で捌けるとは思えない。

 かと言って、地縁共同体が崩壊した匿名性の高い郊外で手助けをしてくれる人が簡単に現れるとも思えない。頼りになるのは同じ出身国の繋がりや血縁者の人々しかない。となると、異文化間の溝が郊外の中で深まっていくばかりで、その両者の間に起きる生活的な問題は解消されない。たとえば早朝に隣の家からコーランが爆音で響いてきたら日本人はどう思うだろうか。

 と、まぁそんなことをぐるぐる考えながら歩いてみるわけである。つまり『郊外の歩き方』のポイントはたった一つ。目の前の景色から何かを連想し、それについて何かを考え、自分なりの意見やコメントを頭のなかで呟きながら歩くのである。

 

4.高島平団地

 恥ずかしながら、僕は高島平団地を知らなかった。高島平自体は一度だけ訪れたことがあるがハッキリとした記憶はない。だからその場所に関する知識は書物によるものである。ところで、1973年に入居が始まったこの団地は現代的な問題を多く抱えることになった。例えば飛び降り自殺の名所と呼ばれ、外部からも「死にに来る人」も現れ、その数は1977年から80年までに133人に達したという。ちなみ現在はあまり起きていない。

 『家族の現在』という本のなかで評論家・芹沢俊介は人口の移動に関する増減の統計データを引き合いに出しながら、1970~80年代は「移動の時代から定着の時代へ」とシフトした時期であったことを指摘し、そして定着してしまった密閉感のなかで溜まったエネルギーは死のタナトスへと向けられたのだと説明した。

 へぇ、そうですかぁ、ぐらいにしか読んだときは思わなかったのだが、実際に高島平団地を訪れてみて、「死のタナトス」ではないにしても、人々がここに定着=膠着することの不安と焦燥とを感じたとすれば、それは本当かもしれないと感じた。その理由はいくつかある。

 光が丘団地と違う点から考えれば、団地ごとの距離が近くて圧迫感がある。そして14階という高さに対して建物の奥行の幅が非常に薄い。まるで横長のドミノの中に穴を空けたような感じがする。中に入ってみると、配管が通路にむき出しで取り付けられており、外廊下は自殺防止のためか柵状の鉄格子で埋めてあって密閉感がひどい。また光が丘団地は隣に緑豊かな大きい公園があるのに対して、高島平団地は中に小さな公園はあるにせよ、周囲は大きな道路と線路で囲まれている。人口を量的に受け入れるために効率を最優先して造られた、人間が住むという身体性が省略された、そのような建造物だと感じた。

 ただしかし、ここには1万5千人以上もの人々が暮らしているのであって、外部の人間がその場所を一方的に非難してはならないだろう。それに今必要なことは高島平団地に対して自殺の名所なんていう野次馬じみた視線をぶつけることではなく、住民の40%が65歳以上であり、15歳未満の子どもは5.0%程度であるということに問題意識を持つことである。国民の生活に関する社会問題は新聞やテレビの中で起きているのではなく、この郊外この団地で起きている。

 高島平団地のすぐ隣にある図書館で『高島平30年の歩み』という郷土資料を読んでいて気付いたことだが、1970~80年の当時に入居した人々にとって「ふるさと」の観念はどうやら非常に重要であったようだ。地方から東京郊外へと人口が流入し、異なる出身の人々が隣り合わせで暮らすことが集団的に起きたことを示す材料がその資料の中にはあった。

 高島平三丁目自治会ニュースのなかにある「私のふるさと」というタイトルのコラムは、高島平の住民がそれぞれの故郷を紹介するという形式のものである。なんでわざわざ自分の実家がある場所を不特定多数に紹介したいと思うのか、その感情が現在の若者である僕には分からない。ただしかし、他の記事には自治会主催の祭りに関して「子どもたちにはここをふるさととして」というような文言が見られるため、やはり故郷の喪失、俗に言う「根無し草」の自覚が当時の住民にはあったようだ。

 ふるさと、故郷、根といった概念は、血縁と土地とを磁場とした一つの強固な共同幻想であったが、プライバシー重視の高層型団地では匿名性が高く、当時の地方出身者にとってはとても冷たい場所に感じられたのかもしれない。だからこそ自治会の運営やニュースレターの発行、町内会のお祭りなどが自発的に行われ、そして自分たちの生活における共通の利害に関心が持てたのかもしれない。『高島平30年の歩み』には、そうした事情が窺える内容がところどころに見られる。

 

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 しかし高島平団地に住む現在の子どもたちにとって、そうした根無しの不安を感じることはあるのだろうか。たまたま写真に写ってしまった後姿の男の子は、団地のなかにある公園で遊んでいた10代の子どもたちのうちの一人だが、彼にとって高島平団地は当たり前の日常なはずである。そしてこの城壁のような団地群の中からいずれは彼も出ていくことになるかもしれない。その時の彼にとって自分の故郷はこの高島平団地であるはずだ。(もし彼がここの住人ならば)

 僕は考える。根無し草だとか地方の田舎者だとか、そんな話はとうに昔のことである。僕らは<郊外>に育ち、集合住宅が生家であり、それが人生の原点、リアルなのだ。だからそのことに対して他人から無遠慮に何らかの価値判断を押し付けられても困る話でしかなく、ふるさとのノスタルジーになんて浸れっこないのだ。

 団地の公園にある遊具が小さく感じられた時、時間が流れたことを感じて、団地の一室を狭く感じた時、団地の外に出ることを考え始めるのである。それは決して歴史の喪失などではなく、本当の意味で昭和が終わり、平成の世代が動き出したという事ではないだろうか。

5.多摩ニュータウン

 東京旅も二日目。この日は多摩ニュータウンである。

 ここは稲城・多摩・八王子・町田にまたがる多摩丘陵を計画的に建設した都市で、一番初めに入居が始まったのは1971年の諏訪・永山団地である。次いで多摩センター、そして南大沢など西へ向かって団地・マンション群は広がっていった。

 今回見てきたのは1970年代に入居が始まった永山・愛宕などの団地群と、1980~90年代以降に開発・建設された南大沢のマンション群だが、街中を歩いてみてまず率直に思ったのは「敷地の広さ」である。というのも、光が丘や高島平のように街の一角を開発したのではなく、ここは森林の生い茂る丘陵を拓いて街を造ったのだから、当然と言えば当然だ。団地周辺には小さな雑木林のようなスペースが散見でき、その外側を大きな自動車道がどーんと通っている。

 商業地区は多摩センター駅周辺や南大沢アウトレットなどに集中しており、もちろんかなり大きな駐車場も併設されていて、車社会として考えるならばとても合理的にできている。買い物ならば都心に出る必要はないだろうし、この街で大体の生活は完結できるように見えた。

 一方で、街全体のサイズが大きい分だけ移動にコストがかかる。東京と言えど車社会は存在するし、その典型的な例がここ多摩ニュータウンである。どうやら街中をかなりの数の路線バスが運行しており、あとはモノレールや電車が公共交通手段になっているが、バス以外はあくまで要所を押さえているだけであって自分の家のすぐ近くまで行ける人ばかりではないだろう。他方で、バスとなると複数の路線図をきちんと理解してなければならず、毎日の通学や通勤以外では使いづらいかもしれない。

 またサイズの大きさだけでなく、前述したように街全体の構造がとても合理的であるからこそ、昼は商業地区、夜は住居地区といった具合に人の流れがあり、まるで「小トーキョー」のような様相が想像できた。僕が訪れた時期が年末という理由もあるかもしれないが、昼間に歩いた団地エリアはどこもガランとしていて、駅前の人通りの多さとはとても対照的だった。

 集合住宅そのものについては、愛宕団地と南大沢で大きく違いが見られた。その違いは建設された時期に大きく影響を受けているモノと思われる。というのも多摩ニュータウンの歴史は都市計画決定から数えれば1965年~現在に至るまでとかなり長い。その間に集合住宅の形もかなり変わったことが見れば分かるぐらいにハッキリと示されている。

 愛宕団地の入居が始まったのは1972年で、これは高島平団地の入居時期とほぼ同時であり、すなわち人口を量的に受け入れるために造られた「近代的」な建物である。だからいわゆる「団地」の普通形で、背の低い箱型の建物が並んでいる風景が愛宕団地周辺では見られた。

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↑↓丘の上に林立する「近代的」な団地群

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 他方の南大沢だが、住宅のなかで一番古いものでも1981年で、主に1990年代に建設された建物が多い。そして南大沢駅が開通したのは1988年、首都大学東京(当時は都立大学)が誘致されたのは1991年、またアウトレットモールができたのは2000年に入ってからのことである。すなわち南大沢の街は非常に新しいということが分かる。

 こうした新しい街に建てられた集合住宅のなかにはポストモダン建築と称される建物が見られる。高島平や愛宕団地などの「近代的」と呼んできた団地群は機能的で合理的な構造を目指して造られてきたのに対して、こちらの南大沢に見られるポストモダン建築はモダニズムによって否定されてきた装飾性や象徴性を回復する意図で造られた建物である。

 

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↑↓南大沢周辺の「ポストモダン」な住宅群

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6.角田光代空中庭園』について

 ところで、僕が多摩ニュータウンに訪れた理由は建物の建築様式を見るためでもあるが、小説『空中庭園』(角田光代 著)を読んだからでもある。物語の舞台は多摩ニュータウンと思われ、主な登場人物たちの住居は「ダンチ」と呼ばれる集合住宅の一角だ。それについて批評めいたことを書いたので、そのことを以下に続ける。

 

・概略

 角田光代空中庭園』は2003年に発刊され婦人公論文芸賞を受賞し、2005年には小泉京子を主演に据えて映画化された。この作品のテーマは「家族愛」や「孤独」や「現代的家庭」であると映画サイトや書評レビューなどには書かれている。

 実際に原作を読んでみると、この小説は主人公を含む家族が母親の提案である「何ごともつつみかくさず」というモットーの下に暮らしながらも、しかしそれぞれが後ろめたい秘密や重大な隠し事を持っていて、それらを京橋一家の娘・父・母・息子の視点から描き、さらに外部者である祖母と父の浮気相手の視点が加わり、6人の視点から<家族の様相>が浮き彫りになっていく、という多角的な景色を読者に見せる。内容は非常にシニカルであり、巻末の解説者である石田衣良は「乾いた絶望」と評している。

 現代的な核家族の不気味な健全さとその裏に潜むドロドロとした内情、この小説では浮気以外の事件は発生しないが、実際の現実においてDVや非行や自殺などの露見によってそうした構図は世間で話題となっている。

 さてしかし本稿では、この小説のテーマである「家族観」や「心情」の問題よりも、この物語の舞台となっている「郊外」にスポットを当てる。なぜかというと、この物語は家族物語でありながら郊外物語でもあると言えるのであり、つまり内面的心理と郊外風景は「対立ての鏡」になっているからである。

 

・もうニュータウンは“New”ではない

 京橋一家が「ダンチ」と呼ばれるニュータウンのマンションに移り住んだのはバブル絶頂期だと物語のなかでは説明されている。これは第二次郊外化の「バブル経済によって都心の不動産価格が高騰したために、ふたたび郊外への人口流出が始まる」という1985年以後の社会状況に関する若林の分析に符合する。(若林幹夫『郊外の社会学』p158~159)

 この「ダンチ」-「グランドアーバンメゾン」に対して、マナ(娘)は「(ダンチは)まるで書き割りみたい」で、「A棟からE棟まであって、敷地内には、しょぼいけれど商店も公園もある」と説明し、そして「のっぺりとしていて、外壁がずいぶん汚れている。巨大なのに、どことなくみずぼらしい。このダンチの十七年の疲れと汚れは、あたしのなかにも蓄積されているものということになる」と、「十五歳という、非常に多感な年齢である」という自意識に従って、自分自身に重ねながら「ダンチ」を若干シニカルに評している。ちなみに第二次郊外化の80年代後半から17年経ったということは、この物語のなかでの時代は2000年代のどこかということになる。

 一方で、絵里子(母)は「ここいらへんで、画期的だったもの、このマンション群。ダンチなんて呼ばれてるけど当時は最先端だったんだから」と言い、そして「じつにクールな集合住宅」であり、「あのとき(入居当時)と寸分かわらず、かがやく光につつまれている」というように「新天地」が未だに効力を持っていると肯定的に考えている。

 まず注目したいのは「グランドアーバンメゾン」という建物の名前と、「商店も公園もある」という建物の構造という二つの特徴的性格である。1950年代から60年代までの間、増えていく人口に対して量的に住居を供給することを目的としていた公営団地がその役目を終えて、「住宅の絶対的戸数不足が解消され、住宅戸数が世帯数を上回るのは一九七三年度の事であった」という状況により、70年代以降徐々に量から質へと住宅需要の性質が移った。原武史『団地の空間政治学』p253)

 そして前述したように第二次郊外化が始まるわけだが、量的には飽和した状態の市場をさらに欲望させなければならない住宅メーカーは、「八十年代ごろからデザインやイメージによって商品価値を高める動きが顕在化する」)ことに転じる。(若林『郊外の社会学』p170)

 すなわち、住宅という商品が住むことの実質に関する機能的な側面よりも、住まいの外観や象徴という記号的な側面で他社の商品と差別化を図ろうとしたのである。

 この結果として、80年代半ばから住民の共有スペースなどを併設した「プラスワン住宅」が発案され、そして「“ソラティーオの丘”とか“ブランズガーデン”とか“ルアジーランド”とか、名前を聞いただけではマンションかと思われるようなカタカナ名前が増えて」と若林が述べるように、ネーミングにその顕著な特徴が表れるようになる。(『郊外の社会学』p173)

 ここで再び小説の内容へと戻ってみよう。「グランドアーバン」までは英語なのに、なぜだか「メゾン」だけがフランス語であるこの奇妙なマンション名や、公園や商店が敷地内に敷設されている構造は、まさに第二次郊外化に伴って現れた住宅の質的変化を具体的に内包している。

 ところで、この建物に対して、マナは「ダンチ」と呼び、「みずぼらしい」と言う。他方では絵里子は「マンション」と呼んで、「クール」と評する。同じものに対する両者の認識がこのように違うのはなぜだろうか。その理由は「生きている時間」の違いである。マナは自分の年齢と共に建物が老朽化していくのを自覚的に語っている。この認識は一般的であり、大抵はそう感じるのが普通だろうと思われる。

 しかし絵里子は「グランドアーバンメゾンに引っ越したとき、たしかに私は、光りかがやく新しい未来にやってきたと思った。(中略)私は今でも、光かがやく明るい未来だと、あのとき感じた同じ場所に居続けている。」という、時間と空間の認知がズレた発言をしている。本来、未来は来たるべき時間であり、それが訪れた途端に現在になり、その次の瞬間には過去へと過ぎ去っていくのだから、すでに訪れた空間が未来に在り続けることは原理的にありえない。

 こうした当たり前の認識が、なぜ絵里子においては半ば歪んだように変わってしまうのか。それは彼女の現在における態度が過去の記憶から抜け出せず、過去が現在を強く規定しているからに他ならない。彼女の過去の記憶とは、中学生で不登校だった当時の「あの家は、陽が射さずに暗く、じめじめして、奇妙に居心地がよかった」ということに始まり、しかし自分の不登校に対する母親の安易な態度を見て強烈な嫌悪感を覚えると、「大嫌いな家をそのまま反面教師にして私はあたらしい家庭をつく」るために「私の完全なる計画」を高校三年間で作り上げたことである。

 つまり彼女の現在とは、なによりも切望した未来であり、そのことを自覚し執着し続けることによって自己肯定感を得るのである。だからこそ、過去に住んでいた暗くじめじめした「生家」の対極に位置する光りかがやく「グランドアーバンメゾン」は、彼女の時間のなかでは計画した未来に立ち止まり続け、みずぼらしくなっていく現在になってはならない。皮肉にも計画した未来を手に入れた彼女に現実の未来はないのだ。

 「ニュータウン」という名称は残り続けるのに対して、マナが言うようにそれが「New」であったのはもはや十数年も前のことである。もしも「グランドアーバンメゾン」が多摩ニュータウンのどこかにある集合住宅だとしたら、それは計画された都市の一部だろう。まるで絵里子の「完全なる計画」による「理想の家族」のシニカルな隠喩のように見えてくる。都市にせよ、家族にせよ、計画できる部分とできない部分があり、時間とともに変化し衰えていく、決して思い通りにはならない「生き物」なのである。

 

・終わりに

 年が明けた。2015年である。

 2014年10月ぐらいから始めた郊外論の勉強はまだ終わりではない。というか、正直言ってこれはメモ程度だ。ほとんど小学生の「調べ学習」レベルでしかなく、自分の文章力のなさや独学スキルの低さに呆れている。

 さてしかし、なんとかそれっぽい形にしたい。そのためにも実際に郊外を見ておくことは大事な気がした。そうして実行したのが、この「東京郊外を旅する」である。なんかもう薄っぺらさ満載で自画自賛のしようもないが、ここから始めなければならない。次の「まとめ」に向けてがんばろう。