若者の最後、成熟の手前で

“彼は哲学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。”  ―――小林秀雄「様々なる意匠」

 

会社員生活が始まってから約三か月が過ぎた。

特筆すべきことは何もなく、ただシャトルランのように平日の向こう側を目指して働き、そしてまた折り返して、慌ただしく、しかし淡々と日々を過ごしている。だから、僕自身について書くことは何もない。というよりも、僕に関して面白い話は何もないと言った方が正確だろうか。もちろん僕自身は楽しく働いているつもりである。

いま書きたいのはむしろ他人のことについてだ。そのなかでも同年代の人たちのことについて書きたいと思う。というのも、僕は休学と留年を重ねているためにストレートで大学を卒業した人たちに比べて二年遅れている。つまり、二歩ほど後ろから同年代の人たちを見なければならない僕にとって、彼ら/彼女らは参考にすべき先輩たちであるから、ここ最近で見聞きしたことを素材に色々考えてみようと思う。

城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか』(光文社新書)が発売され話題となったのも、もう10年以上も前だということに驚きを禁じえない。この本が発売されたのは2006年だが、僕は大学一年生のとき、つまり2011年にこれを読んでいる。今から振り返ってみれば、そんな時分に読む必要はなかったと思うが、いわゆる「背伸び」の一環だったと思えば別に何の不思議もない。

ともあれ、僕たちの世代はストレートで進学・就職した人ならば、社会人「三年目」にあたる年齢(25歳)であり、そして紛れもなく「若者」である。この時点を通過した人ならば誰しもが「そんな分かりきったことを」と思うかもしれないが、今の僕が強く感じていることは、僕たちはもう「学生ではない」ということである。学生ならばひとまず無条件に若者と言えそうだが、しかし大学を卒業した時点で「無条件」ではなくなっている。つまり、25歳のそれぞれが「若者」を続行するか否かを考えているように見えるのだ。もちろんその決定にいたるキッカケはそれぞれ異なるものの、しかし、それぞれに共通した問題意識があるように僕には思える。それは「ここに決めてしまうか、あえて他の方へ迷うか」という「若者らしい迷い」そのものを相対化した微妙な地点だ。

なぜこんなことを思うようになったのかというと、この三か月の間に中学・高校・大学時代の友達やクラスメイトに会ったことが原因である。一言でいうと「エモい」ことの連続で、もう心が疲れ切ってしまった。お察しの通り、結婚だの転職だのといったお決まりの話題が、懐かしい顔ぶれの口からバンバン出てきたのである。しかしそれだけに限らず、「会社がブラックすぎて耳が聞こえなくなって仕事を辞めた」という苦労した人もいれば、長らく彼氏や彼女がいなかったけど最近とても良い人と付き合い始めたという幸せな人もいたり、あるいは大企業に就職したはいいけれど、これまでの人生を振り返ってみて後悔が多く、だから思い切って海外に留学しようか悩んでいる人もいた。

それにしても、20代後半の選択というこの「ラストチャンス」感は一体何だろうか。ひとつだけ分かるのは、転職であれ結婚であれ、あるいは他の選択であれ、その決定の場面で「若さ」を利用できる最後の時期なのだろうということだ。換言すれば「若さ」を自覚する年齢だとも言える。もちろん「若さ」を何の留保もなく「可能性」と翻訳してしまうことは危ういけれども、しかし否定できることでもない。そういえば、小林秀雄が「様々なる意匠」を雑誌『改造』に発表したのは27歳のときであった。このブログの冒頭に掲げた言葉には、彼の批評における鍵概念「宿命」の音が響いている。

自分の「若さ」を自覚するとき、つまりそれが正しいかどうかは別にして「最後の可能性」を感じるときにぶちあたる問題、それが「成熟」である。この問いは、発達心理学精神分析だけではなく、日本の思想/批評の場面でも繰り返し問われてきたことだ。だが、ここでは学問の専門用語や思想的なジャーゴンを用いることを控えよう。なるべく一般常識に基づいたふつうの言葉を使って考えてみる。(しかし「一般」や「ふつう」とは一体どういうことだろうか)

成熟とは、自分のなかにある可能性や絶対性を諦めることだろうと僕は思う。言いかえれば、自分の限界や相対性を悟らされることであり、今この何でもない自分を自分自身が受け容れた心の状態を指す。こう書くととてもネガティブな印象を受けるが、違った見方もできる。つまり、自分の能力には限界があるからこそ他人の助けを借りて社会的な存在として安定することができるし、自分の考えは相対的であるからこそ他人の考えを取り入れることができる。「そんなの学生時代から私は分かっていた」という人もいるだろうが、それを分かっていることとそれができることでは天と地ほどの違いがある。

ところで、これのどこが問題なのか。前段の最後に書いたことだが、それが若者にはできないのである。この私の可能性を、この私の絶対性を、この特別な私という価値を、なかなか手放すことができない。例えば転職や結婚のあとに「市場」という言葉がつくことがあるけれども、これは言わば無数の「私(の価値)」が売り出されていることが前提になっている。「生きるか死ぬかそれが問題だ」というシェイクスピアの言葉よりも、この時代を生きる僕たちにとっては「売れるか売れないかそれが問題」なのだろう。しかし、売りに出される「私」は「身体の老い」や「感性の保守化」あるいは「社会的立場」、もしくは単純な数字としての「年齢」によってその価値は少しずつ低減していく。だからこそ、25歳からの「ラストチャンス」感は、当然だが痛切なエモさを帯びてくるのかもしれない。

ところで、僕は今回の記事で僕自身の回答を書く気はない。というか、その答えを出すにはもう少し時間がかかる。ただ、すこし先を歩く同年代の人たちがこれからどのような答えを出していくのか、高みの見物ではなく他人事でもない気持ちで見ている。

 

 

2190日間の混乱

 ・内部の怒号

 この六年間はいったい何だったのか! そのように問う怒号が自分の内部から響いてきたとき、僕は、来るものがついに来てしまったと思った。そして、はじめはその声に対して耳をふさごうとした。なぜかというと、僕にも分からないからだ。困惑していた。しかし、その問いかけは僕の頭蓋骨を内側から叩き割るほどに反響して鳴り止まなかった。

 だから、その問いに答えなければならない。とはいえ、今から振り返ってみると、自分にとっても不可解なこの六年間の自分は、ツギハギだらけの滑稽な姿をしているので、本当はそんなものは檻のなかにぶち込んでおくのが一番よいことのように思えた。あるいは、楽しかった思い出話だけをつらつらと書くことでこいつをなだめることができるならば、いったいどれほどラクだろうか。しかし、こいつは僕自身であり、しかも今の僕に置いていかれた僕自身であった。今の僕によって踏み台にされ、ぎゅうぎゅうと押し固められ、折り重なったまま放置されたこいつが先ほどの問いを叫んだに違いない。

 この六年間は何だったのかという問いは、今の僕にとって「俺は誰なのか」という問いとほとんど同じ意味だ。もちろんそれは僕がまだ大学を卒業したところだからというのもある。しかし、それよりも知人や友人が言うように、僕が大学生活のあいだで「極端に変わった」ということにその主な理由はある。言いかえれば、高校時代までと大学入学以降のあいだに深い断層があるのだ。そして、大学入学から今にいたるまでにも色や性質の違った地層がいくつもあって、今の僕はその表面にあたる。そして、それらを一言でくくれるような言葉は見当たらない。

 しかし、だからといってそれを語ることを放棄することはできない。僕にとっては避けて通ることができない問いなのだ。今もまだ頭蓋骨の裏側から声がする。俺は誰なのか、俺は誰なのか、と。他方で、若者に特有の「何者かになりたい」という欲求がそういう声を発するのだと、そのように「大人」に慣れた人たちは言うかもしれない。けれども、僕は「何者」ということの答えをすでに出している。それは自称する名ではなく他称される名であって、自分に何者かであることを名乗る権利などない。そもそも「俺は誰なのか」という問いは、「何者かになりたい」という欲求とは別のところに発生するものだ。

 ともかく、この六年間を語り始めなければならない。出口の後で、入口を前にして、戸惑いながら立っている今の僕にしか語れない言葉があると信じて。

 

・屈折のはじまり 

 卒業論文を書き終えてから三か月が経つ。僕が書いた約13万字の論文は、およそ学術論文とは言いがたいものではあったものの、ともかく一生懸命な文章だった。その結果、教授から推薦をいただいて、1月の末に学部の卒論報告会で論文の発表をさせてもらった。そのスピーチは担当教授からすれば「たいしたもの」だったらしい。

 それは素直に嬉しかった。しかし、このとき僕はすでに停滞のど真ん中にいて、早く次に進まなければならないという焦りと何もやる気になれないという無気力な気分の両方から引っ張られていた。それというのも、この三年間ずっと続けてきた読書、そして文章を書くこと、この二つが卒論を終えたところでピタッと止まってしまったからだった。意欲が湧かず、集中力が保てず、苛立ちだけがジリジリとこめかみのあたりを刺激した。どうにかしたい、どうにかしたい、そう思っていたとき、ふとこんな問いが頭をよぎった。

「そもそもなぜ自分は本なんか読んでいるのだろう」

 そう、思考の出発点からしておかしいのだ。本が読めないことにとまどい、文章が書けないことに焦り、原因を突き止めようとして色々と考えている。そのことからしてどこか奇妙な感じがした。そもそも僕は「文化」や「教養」と名がつくものにはほとんど無縁の人間ではなかったか。これはべつに誇張した謙遜ではない。なにせ僕は小学1年生から4年生までは剣道、小学5年生から高校3年生まではサッカーと、ひたすら運動ばかりしてきたのだから。つまり、人格形成のおおかたを「体育会系」としてすごしてきた僕が、今ではこのような問題を抱えているということは、明らかに大学以降の変化がこの問題に深く関係しているに違いない。だからこの状態をたとえてみれば、自分を人間だと勘違いした野良猫が魚の骨をていねいに取り除こうとして、人間の使う箸を手の内で持て余しているような、そういう奇妙な様子だ。

 この「奇妙な様子」は、大学六年間の自分を振り返ってみると、そのどの時点にも見出すことができる。そこには自分の行動や思考によってそれまでの自分自身を否定しようとする姿があった。誤解を恐れずに言えば、高校生までの僕はもっと素直でわかりやすい人間だったと思うし、その人格を保ったまま成長することだってできたはずだった。少なくとも、これから書くようなめんどくさいことを考える人間になるなんてことは、大学に入学する前の自分には想像もできなかった。とりあえずのところ、このことを「生の混乱」と呼んでみよう。そして、この生の混乱の正体をつきとめることができれば「俺は誰なのか」という問いにも答えられるはずだ。

 まず生の混乱はいつから始まったのか。それは明確に言うことができる。サッカー部の引退と失恋がほぼ同時に重なった高校三年の夏。あの時点が決定的な切断線であったことは間違いない。あのとき「自分らしさ」というイメージを支えていた地盤そのものに亀裂が生じた。さらに言えば、「自分はこうなっていくだろう」というひとつの未来へのコースが突然に断線したというわけだ。そうして、ありあまった過剰なエネルギーは行き場を失って、それが行動として奇妙な逸脱に結びついた。

 その最初の行動は大学受験だった。それを「逸脱」と呼ぶことは、社会学的に言って正しくない。むしろそれは社会のルールに則った行動だ。しかし、僕にとっての「受験」は、自分のまわりで決まっているルールとそこからの逸脱、あるいは正誤の両極が真逆に転倒した最初のできごとだった。僕の高校の雰囲気は、いわゆる「受験戦争」からはほど遠く、本気で受験勉強をする人はごく少数だった。それに僕自身も進級を危ぶまれるぐらいには勉強が苦手だった。しかしだからこそ、あのころの僕は、いや「僕たち」は、フザケ半分で「受験ゲーム」を始めたのではなかったか。つまり、予備校や高校の教師や受験システムを嘲笑しながらも「あえて勉強する」というアイロニカルな態度こそが、当時の僕たちのスタイルだったのではないだろうか。それは、ある意味では「自由でありたい」という心情の屈折した表現であったかもしれない。とはいえ、口では色々なことを言いながらも勉強それ自体は真剣にやっていたと思う。

 受験ゲームをそれなりの戦果で終えた僕たちは、それぞれの大学に進学した。そして、僕たちのほとんどが入学の時点であることに気づいた。とても自由度が高かった高校時代に比べて、大学はどれほどヌルい場所であるか。酒を飲んで騒ぐことで得意げになっている大学生たちは、たんにつまらないものとしか当時の僕の目には映らなかった。それにくわえて、スタンダールやゾラやバルザックプルーストボードレールマラルメアポリネールといった、基本的な人物名を誰ひとりとして知らなかった僕にとって、それらを知っている人文学部の同級生たちはあまりにも無縁な存在に思えた。僕に居場所はなかった。

 だから、そのころ僕たちのあいだでは「大学やめるわ」が流行りの口癖だった。そして実際に一人は入学早々に退学した。みんながたいして変わらない大学生活を送っているなかで逆張りをするにはそれぐらいしか道がなかった。けれど、僕を含めたほかの数人はそうすることができず、焦燥感と倦怠感がつのるばかりだった。退学のせいで家を勘当された友達が住んでいるボロアパートの一室で、安いウイスキーをコーラで割って飲み、そして煙草のケムリがせまい部屋に充満した。退廃という言葉を当時の僕は知らなかったが、当時の僕たちの間に漂っていたのは退廃の空気だった。

 

・旅という混乱

 僕たちのほとんどは、大学には居場所がなく、そしてボロアパートの一室で白くよどんだ空気を吸っていた。「最近なにしてんの?」「え、息してる」というのが挨拶代りなっていたぐらい、僕たちは途方に暮れていた。

 しかし、そんな状態を抜け出す方法があった。旅だ。その先陣を切ったのは僕だったか、それとも仲間の一人であるKだったか。いずれにせよ、大学一年の夏、僕は香港・マカオ、Kはインドと、それぞれが一人旅をした。Kはデリーで10万円のぼったくりツアーに見事ひっかかった。僕はマカオでギャンブルをして一時はあり金のほとんどを失い、全身に冷や汗をかいた。けれど、僕とKが「旅という自由への抜け道」を発見したことはたしかだった。

 一年生の後期が始まったとき、僕は大学に通うのをやめて学習塾とガソリンスタンドでアルバイトのかけ持ちを始めていた。というのも、僕とKは「退学」ではなく「休学」という方法を発見していたからだった。実はこのとき初めて読書らしい読書をしたのだが、それが沢木耕太郎の『深夜特急』だった。この小説に描かれているような旅をしたくなった。だが読書それ自体に熱中することはなかった。ともあれ、この時点ですでに自由への行動は「アイロニカルな受験」から「逸脱的な休学へ」という形で、二つ目の屈折へと折り返し始めていた。

 ところで、僕の場合は受験と休学のあいだにひとつの挿話が要る。3・11の震災だ。そして偶然ではあるが僕の誕生日は3月11日で、あれは高校の卒業式の2日前だったと思う。僕は震災が起きてから2週間後ぐらいに、母親の知り合いのツテを頼って被災地の仙台に行った。のちに再訪したことも含め、そのことについてはすでに「記憶の跡地への旅 - 或る蛮人の書誌」で書いた。

 被災地という壊滅した場所にはむなしい無の風景がひろがっていた。他方で、香港・マカオには猥雑な生の光が街のネオンとともに明滅していた。つまり、僕は背中合わせになった世界の両極をたった半年のあいだに経験したことになる。このことは、きれいでのっぺりとした東京の郊外しか知らなかった当時の僕にとって「大事件」であり、それは「自明性の解体」を意味した。言いかえれば、自分の「当たり前」がガラガラと音を立てて崩れていく経験だった。たった一撃の偶然で自分たちの人生というまぼろしは簡単にブチこわされてしまうのだという理不尽な真理を喉元に突きつけられ、そしてまた、それでも人びとは何かを欲望しながら世界中で蠢いているという狂気じみた現実を脳みそに叩き込まれ、僕はすっかり「自分の日常」を失くしてしまった。

 こうして2011年の3月から8月までの約半年のあいだに、僕は自分の生の混乱を一気に膨らませてしまった。それまではサッカーと恋愛のことしか頭になかった18歳の青年にとって、この混乱を処理することは不可能だった。

 ここでひとつの疑念が生まれる。それはつまり、僕は自分の混乱と世界の混沌を地続きにしてしまったのではないか、ということだ。安定した自分の世界像が壊れてしまったからには、それを再び作り直さなければならないが、その方法として僕は「旅」を選んでしまった。しかし結果から言えば、旅は「自分の世界を作り直すこと」には向かない方法だった。

 ともかく香港・マカオから半年後、僕は大学二年次を休学して世界一周の旅をすることになるわけだが、それから今にいたるまで「放浪癖」のようなものが身についてしまった。つまり、世界中から「風景の収集」をすることで、自分の世界を作り直そうとしたのだ。そして、その延長線上にあらゆる学問からの「知識の収集」として読書があった。しかし、これらは原理的に言って不可能な試みだった。まず世界のすべての風景を見ることはできないし、世界のすべての知識を知ることもまたできるわけがなかった。

 世界には色々なものがある。当たり前だ。そして、その「色々」をどれだけ集めてみても、安定した自分の世界を取り戻せることにはならない。むしろ自分のなかに異質なものがたまっていくだけだった。しかも旅や読書で得てきたたくさんの異質なものを自分のものとして血肉化するには、僕の知性はあまりにも貧弱で未発達だった。たとえてみれば、それは小鍋のなかに冷蔵庫いっぱいの材料を突っ込んで料理しようとするようなもので、要するに僕は自分の混乱をさらに混乱させる方向で行動してしまったのだ。

 ともあれ、独学としての旅/旅としての独学(本当の近況 旅としての独学 - 或る蛮人の書誌)という、この二つの行動は僕にとって生の混乱を収束させるための方法だった(しかしこの方法は混乱をむしろ拡大させた)。香港・マカオから1年間の世界一周、そしていくつかの小旅行。それから読書という抽象的な旅が三年間。この日々を合算すると1516日間になる。六年間はだいたい2190日間だ。だから、僕はその約七割を二つの旅ですごしたことになる。大学生活の七割が旅的な日々ということは、日常の七割が非日常ということだが、しかしこれはおかしな話だとわかる。そう、この六年のあいだで徐々に日常と非日常が転倒していったのだ。僕にとって日常は非日常的であり、非日常こそが日常的であった。すなわち、旅によって生の混乱は拡大し、そうして時間の性質さえもがいつのまにか混乱してしまっていた。

 

・執拗低音としての劣等感

 生の混乱によって自分の日常と非日常がひっくり返ってしまうということ。それをオセロにたとえてみれば、今の今まで盤面を埋めていた白がみるみるうちに黒へと変わっていくような様子だ。しかし何の仕掛けもなく白が黒になるはずがない。白い石の外側にひとつ、またひとつと、黒の布石が打たれていたのではないか。それも「生の混乱」以前、はるかに昔から、ゲームが始まった直後から、僕自身に気づかれないように素知らぬ顔で黒い石をひとつずつこっそりと置いていった犯人がいる。

 その犯人は誰か。そいつが落とす影はずっと遠くまで伸びている。思い出して、さかのぼって、その影の持ち主の足元に辿りつくまで追いかけてみると、そこには子どものころの自分がいた。部屋の隅にしゃがみこんで、すねた態度で泣いていた自分だ。そうだ、僕はよくすねて泣く子どもだった。その理由はもう覚えていない、ということにしておく。ただ、悔しさと悲しさと怒りで熱くなった全身を震わせていたことだけははっきり覚えている。

 あの微弱な震えが、過去の影をつたって今の自分にまで届いていたのかもしれない。では、子どものときの自分は何を感じていたのか。羞恥心、情けなさ、そして何よりも強烈な劣等感だ。あの劣等感が「生の執拗低音」となって、つまり成長という複雑なリズムの底で基調を成して、この六年間の「自己否定」や「生の混乱」どころか、それ以前のことまでも準備していたとしたらどうだろうか。困ったことに、すべてのことに辻褄が合ってしまう。

 身体能力にも才能にも恵まれなかったのに、なぜ8年間もサッカーをがむしゃらに続けたのか。たった半年の期間ではどう考えても無茶だったのに、なぜ早稲田大学を目指して受験勉強をしたのか。英語なんてまるでできないうえに人一倍気が弱いのに、なぜ世界をひとりで旅したのか。技術も経験もないくせに、なぜウェブメディアの立ち上げに関わったのか。いつもフラれることが分かっていたのに、なぜ一人の女の子を10年間も好きでいつづけたのか。頭も良くなければ教養の素地もないのに、なぜ本を読んだり文章を書いたりしているのか、ましてやなぜ出版社なんかに勤めているのか。

 全部わかっている。おまえ、みっともないほどに弱い自分が嫌いだったんだろう。どうしようもなく情けない自分のことが大嫌いだったんだろう。そして、そんな自分を跡形もなく消してやりたかったんだろう。僕は知っている。おまえが自分の行動に対してどれだけ前向きな動機を口にしたとしても、その裏側ではつねに劣等感という執拗低音が鳴っていたことを。

 そうして「行動力」とかいう実体のない何かを他人から褒められ、おめでたくも有頂天になっていたときの僕は、この音の存在をすっかり忘れていたのだ。成長という名の自己否定、その伴奏はつねに劣等感だった。ならば、アカペラで歌えるだろうか。しかし、今の僕の焦りや無気力は、無伴奏の不気味な沈黙によるものではないのか。劣等感なしでは肯定しうる自分を見出せないからではないのか。

 高校三年の夏が決定的な臨界点となって、執拗低音の劣等感が僕の生のリズムそのものになってしまったのだとしたら、この六年間における過剰な行動や激しい変化にも納得がいく。おまえは弱い自分をどこまでも嫌うことによって、あらゆる障害を蹴り飛ばして前へ前へと自分を駆り立てることができた。それが僕の混乱の真実だ。

 

・救済としての日常

 しかし、そのように言い切っていいものだろうか。劣等感が僕の核心であったと言って、安直に「暗い裏側」を暴露してみせれば、それですべてが済んだことになるのだろうか。もちろんそうはならない。人生がそんなに簡単であるはずはない。そもそも良かれ悪かれ簡単に生きることができていたら、こんなに饒舌になる必要があるだろうか。

 僕の大学生活は、七割が非日常で、残りの三割が日常だった。実はこの三割の日常は絶対に無視できないほど重要だった。ここで言う「日常」とは、大学のキャンパス内で普通に授業を受けて友達と遊ぶという意味である。なぜこの日常が重要なのか。それについてはあとで書くことにしよう。

 はじめの方で「僕に居場所はなかった」と書いた。そして大学内に居場所がなかったからこそ、僕は旅に活路を見出したはずだった。しかし、世界一周から帰国すれば自分を待っているのはまた大学だ。

 旅の途上のイスタンブールで、僕はその憂鬱をとある学生バックパッカーに話した。彼は僕よりも一歳上で「話の分かる先輩」だった。そして、彼は僕を諭すように言った。周りの環境に自分から働きかけることで楽しく生きることもできるんだぞ、と。これはたぶん誰にでも言えることだろう。だけど、当時の僕にとってはそれを誰が言うのかが大事だった。まず彼は大学や大学生のつまらなさをよく知っていたし、なにより僕と同じ学生バックパッカーであった。しかし、僕と彼が決定的に違っていたのは、僕が学内では何もせずただつまらないと不満をたれていただけなのに対して、彼の方は大学がつまらないからこそ自分で学内を盛り上げる活動をやっていたということだ。

 帰国してから僕は彼が言ったことを実行に移した。まず大学で友達をつくろうと思った。それから学内で何かしようと思った。自分に興味を持ってくれる人に会って、企画をあれこれ考えて、そして有志をつのって学祭でカフェを出店することになった。はじめは二人で始めたこの企画も、友達がさらにまた別の友達を誘ってという形で、最終的には当日のみの参加を含めて8人のメンバーが集まった。夏休みあたりから本格的に準備を始めて、メンバーのOが住むマンションの一室で色々な作業をする日々が11月まで続いた。

 祭りは、準備をしているときが実は一番面白かったりする。そして、その慌ただしい日々の最中で、メンバーのそれぞれに生の転形期とでも呼べるようなドラマがあった。というのも、あの大学三年の夏から秋にかけては、それぞれが何らかの葛藤や迷いや不安を抱えていたのだ。青年に特有の困難。右手のペンで紙に何かを書きながらも左手でそれを次々と破り捨ててしまうような、もしくは、四本の手足をバラバラに動かして四つ同時に別のことをしようとするような、あるいは、眼をとじて耳に栓をして鼻をつまんでも重力だけはどうにもならなくて宇宙にでも逃げ出したいような、そういう日々でもあった。

 このことについてここで詳しく書く余裕はない。ただ僕に関してひとつだけ書くとすれば、それは、学祭の準備の日々を通して、大学や大学生に対する偏見を捨てて心から大事だと思える友達ができたということだ。高校まで友達に困ったことがなかった僕は、このときはじめてその「ありがたさ」を噛みしめた。これは退屈な三文芝居のように思えるかもしれない。しかし、この「ありがたさ」は、先ほど書いた「日常」に深く関わっているのだ。

 このころ僕はすでに転倒した時間感覚のなかで生きていた。読書も本格的に始めていた。それにゆえに、いつの間にか混乱のど真ん中に立たされている感じがどんどん強くなっていき、混沌とした世界と宇宙のように広がる知識とに囲まれて、夜中には謎の発熱に襲われるようになった。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜと、その疑問符を世界と自分に対して叩きつけているうちに朝が来てしまう夜も少なくなかった。何もかもが分からなくて不安になった。

 身体の着地点、すなわち居場所というものが、どれだけ心に強く影響するのかということを僕はこのとき実感した。家の自室と大学の教室とファミレスの片隅、三角形になったそのレールをぐるぐると周るだけの日々はルーティンであるのにもかかわらず、落ち着いた気がしなくて、そのどれもが居場所にはなりえなかった。このときの僕の感覚というのは、地面から足の裏が3センチほど浮き上がり、眼は自分の内面に陥没したような感じで、両手は何かをつかめるような気がまるでしなかった。だからどうしても当時の僕にとって「人の世界」は遠く、ひとりきりでいる気がした。でも、学祭のメンバーと一緒にいるときだけはなぜか安心できたし、その証拠にOの家に泊まる日だけは熟睡することができた。

 Oをはじめとした学祭のメンバーは、その後の僕がどんどん内向的になっていっても近くにいてくれて、色々なことを言ってくれた。たとえば、どこかに遊びに行こうとか、お昼ごはんを一緒に食べようとか、ちゃんと授業に出ろとか、ヒゲを剃れとか、新しい服を買えとか、運動でもしてみろとかいうようなことを。もしあのとき彼ら彼女らがいなかったとしたら、僕はたぶん大学をやめていただろうし、その後の人生もロクなことにはならなかったと思う。生の混乱のど真ん中で、何をどうしたらいいのかも分からず、渦巻く世界の動きに目をまわし、文字の洪水で溺れかかっていた僕に、彼ら彼女らは「ここだけは確かだ」と思える場所を与えてくれた。友達とともに過ごす日々のことを世間では「日常」と呼ぶらしいけれども、僕にとってそれは「救済」にほかならなかった。

 

・就活から卒論へ

 2013年11月の学祭を終えてから2016年12月の卒論提出にいたるまで、約3年のあいだ僕はずっと抽象的な旅をしていた。あるいは生活なき生存の日々と言ってもいい。身体をファミレスか友達のところに預けて、頭だけは再び旅をはじめた。つまり、読書と書き物以外のことはほとんど何もしなくなったのである。いや実際には授業に出たりもしていたが、今ではほぼ何も覚えていない。

 ファミレスの片隅で完結するこの生存に必要なものは、おかわり自由のコーヒー、煙草、文庫本、ノートパソコン、それから小銭が300~500円ぐらい。一日の5~10時間をファミレスで過ごし、あとは家に帰って寝るだけの簡単な日々をつづけていると、しだいに身の回りの色々なものごとがどうでもよくなってきた。まず髪や髭や服装や靴に気を使わなくなった。そして大学の友達をのぞくほとんどの人間関係から遠のいた。生活リズムもひどく狂った。深夜から午前中まで本を読み、昼前に寝て夕方に起きるようになった。バイトもほぼしなかった。たんなる親のスネかじりだった。そのくせにマルクスなんか読んで得意気になっていたのだから、何も分かっちゃいないことは言うまでもない。

 ともあれ、世界一周の旅に出たときと同じように、読書の旅もまったくの一人で始めた。つまり、動機は自分のなかにしかありえず、その動機はやはり「生の混乱」にあった。自分の自己像と世界像が同時に破綻してバラバラになってしまっていたために、このとき問題となったのは「認識」についてだった。人間、世界、政治、経済、社会、歴史、文学、あらゆる対象についての色々な捉え方を知ろうとした。それでとうてい分かりもしない本を片っ端から読んでいったのだった。

 カントからアーレントへ、他方でヘーゲルからコジェーヴ。さらにマルクスからアンリ・ルフェーヴルへ、そこからボードリヤールとデイヴィッド・ライアン、この流れは卒論の主線になった。日本の知識人で言えば、丸山真男から小田実埴谷雄高から谷川雁、そして津村喬平岡正明、ここまでの流れも卒論のなかで重要なキーパーソンだった。それでスガ秀実から花田清輝に戻る。他方で小林秀雄から秋山駿、磯田光一から小林信彦橋川文三から松本健一など、いわゆる「保守派」もその文章の巧みさに惹かれて好きになった。

 とはいえ、人というのは手段を目的化してしまうことが多々ある。僕もそうだった。分からないことを考えるために本を読んでいたのに、いつの間にか本を読むこと自体が楽しくなってしまい、それにのめりこんでいった。結局のところ、いざ卒論の準備をしようとなったとき、自分の問題意識がどこにあったのかすらよくわからなくなってしまっていた。というよりも、世界のすべてが問題に思えてきて、何から考えたいのかを考える自分自身がその問題群のなかに埋没してしまっていた。つまり、旅とおなじく読書によって自分の混乱をさらに混乱させてしまったのだ。

 その混乱が不眠や吐き気や憂鬱という形で心身に表れていた2016年5月。何度目かの失恋と公務員試験の放棄を経て宙ぶらりんになっていた僕は、ただの趣味でしかなかったことを仕事にするために、いや正直に言えば、身の振り方に窮したために、ほとんどヤケっぱちで出版業界を目指して就職活動を始めた。と言っても、求人サイトはほぼ見なかったし、新卒がやるような一般的な就活ではなかった。まずウィキペディアで「出版社」を検索し、そこから自分の関心に合いそうな出版社のHPを見ていき、求人募集がかかっているか調べた。それで三つの出版社をリストアップして、最初に普通の履歴書と課題作文を書き、そして3000字ぐらいの志望動機をつづり、さらにダメ押しで自分のブログ記事を何枚か印刷して同封した。

 これでどこにも引っかからなければ、もうそのあとのことは何も考えていなかった。そして、自分の一挙一動があれほど不安でおっくうに感じたのは初めてだった。だから、自分でひそかに「ゲリラ的就活」と呼んでいたそれは、その言葉に反してまったく軽快ではなく、脂汗をたらたらと流してやっと一歩踏み出すというようなものであった。

 このとき身にしみて感じたのは「ひとりであることの弱さ」だった。世界一周の旅は、どんな状況でも自分は一人でなんとかできるという「無根拠な自信」を僕に与えたが、それがどれだけひどい勘違いであるかを思い知った。ほとんどの旅はどこまでいっても個人の消費でしかなく、生産の場で働く場合その自信は妄想にすぎなかった。仕事において、僕はひとりでは何も生み出すことができず、まだ技術も経験もない、ただの学生でしかない。そのことを痛いほどに自覚したとき、やっと「はじめの一歩」を踏み出すことができた。そして、その一歩目は運良く「その先」に続くものとなった。この当時のことは(複線的な文脈の終わり - 或る蛮人の書誌)で書いている。

 ともあれ、就活が約3週間という短期間で終わってくれたおかげで卒論の方に集中できるようになった。このとき、頭のなかを占めていたのは「日常生活」についてであり、そこにおける「消費」だった。そして、この二つを立体的に捉える舞台として「郊外」という空間があった。さらに卒論を執筆していく過程で、この都市空間がきわめて近代的かつ資本主義的な環境であることを知り、それで「旅」という観点から「日常生活」と「グローバリズム」を接続して、都市を媒介とした「世界空間」の全体性を見出そうとした。そして、そこでいかに人びとが分断=疎外されずに生きていくことができるかを模索した。

 というのは、表向きの建前だ。『社会空間の思想史――近代としての郊外――』と題した、この卒論の本当のタイトルは、身も蓋もない露骨な言い方をすれば『ひとりになってしまった僕が、ふたたび誰かとともに生きていくための方法』である。もっと言えば、23歳の時点での僕の人生論だ。こういう試みが浅はかであることも、学術的に見てそれが無価値であることも、はじめから百も承知だった。

 しかし、僕にとって卒論は、23年間の総決算であると同時に未来の自分に向けての手紙であり、新たな原点であるべきだと思っていた。そして「生の混乱」と「世界の混沌」とが重なり合ってしまった自分の状態を、この卒論に色濃く反映させて、それをひとつの思想という形にまで昇華したかった。

 だから、自信がなくてもやるしかなかった。執筆には約半年かかった。参考文献は50冊をこえ、そのほかにアニメや歌謡曲日本語ラップも引用した。総文字数は約13万字。まったくまとまりがなく論理も穴だらけの文章になってしまったが、それでも現時点の自分の全力投球であることだけは胸を張れる。だから僕は今やっと自分と世界を取り戻しつつあると感じているのだ。(卒論について - 或る蛮人の書誌

 それで、僕の卒論に対する客観的な評価はどうだったのか。すでに書いたように、卒論報告会でこの論文を発表させてもらった。それからこの文章を書いている途中で人文学部の優秀卒業論文賞に受賞が決まったとの通知が来た。今その受賞をどう受け止めるべきか考えているが、おそらくは「これからも頑張りましょう」ということだろう。僕は大学院には進まないが、在野で文章を書いていくことは決めているので、これを励みにしたいと思う。

 

2190日間の混乱、その正体

 しかし「めでたしめでたし」で終わらせることはできない。もう一度はじめの問題に立ち戻ろう。この六年間は何だったのか。そして、僕は誰なのか。ひとつずつ考えていこう。

 この六年間の大学生活は「自己解体の日々」であったと、とりあえずのところで言うことができる。つまり、高校三年生の夏を始点に、劣等感をエンジンにして、震災と旅と読書と恋愛を通過しながら自分の自己像と世界像をバラバラにしていくような日々だった。けれども他方で、学祭をはじめとした日常や卒論の執筆を通して、その解体された自己像や世界像を再構築しようとする日々でもあった。

 だから、解体と構築、あるいは分裂と統合、もしくは切断と接続、そうした二つの力が対立する磁場の中心に自分を置いた、この混乱の2190日間は、それ以前とは比べものにならないほどの「自分自身との闘争の日々」であったと言うことができるだろう。

 その内的な闘争の結果として今の僕がいることは確かだ。では、その僕はどのような人間だろうか。それはもしかしたら内的な闘争をむしろ生きることの原理にしてしまった人間なのかもしれない。すなわち、実体としての自分はより混乱する方向で動いていきながら、しかしその自分を思想的に綜合しようとする、そうした矛盾を人生の根底に据えた人間。

  それが今の僕であったとしたら、そうだ、なにも臆することはないだろう。なぜなら、たとえ今の僕が粉微塵に粉砕されたとしても、さらに多くの混乱を巻き込んで何度でも生き返ってやるのだから。 

 

 

卒論について

やっと卒論が終わった。

魂の全体重を乗せて書いたつもりだ。

たかが学位論文に対して「魂」だなんて大袈裟すぎると思われるかもしれないが、これからもたくさんの文章を書いていくうえで、この卒論を「原点」にしたかった。それと同時に、いささか長引いてしまった大学生活六年間の「総決算」という意味合いもあった。

だから、ありきたりなテーマで、答えの分かりきった問いを立てて、生真面目な方法で素っ気ない答えを出す、なんてことはしたくなかった。あるいは、偉い学者の二次創作みたいな真似もしたくはなかった。要するに、僕にとっては、はじめからアカデミズムの価値基準は問題にならなかったのだった。まぁそもそも理論を体系的に学んだり、語学をきっちり勉強したり、あるいは学術論文の訓練をしなかった不勉強な僕にとって、そういうことをやれるわけもなかった。つまり、あえて「やらなかった」のではなく「できなかった」の方が正しい。

ともあれ、では、この拙い論文を通して僕には何かができただろうか。言い換えれば、何か新しいことが言えただろうか。もしくは効果的な批判を提出することができただろうか。正直なところ、あまり自信がない。というのも、敵に回したモノがあまりにも巨大すぎたからだ。タイトルは「社会空間の思想史-近代としての郊外-」としたが、この文章に一貫してある問題意識は、都市と郊外における資本主義の諸問題であり、近年のグローバリズムと消費社会の問題であって、要するに一介の学部生が取り組めるようなサイズの問題ではない。学部生によくありがちな失敗である。しかし、それでもこの膨大な問題に食い下がりたかった。

この話を分かりやすく喩えてみると、ポケモンで言ってみれば、Lv.100のミュウツーに対して、こちらはLv.5のコラッタで挑むようなものであり、あるいはナルトで言えば、穢土転生を使う相手に対して、こちらはクナイ一本で戦うようなものだ。僕のちっぽけな頭で真っ向勝負を仕掛ければ秒殺されるだけである。

だから「手札」を揃える必要があった。ポケモンならより強いモンスターをゲットする。もしくはナルトならより優れた忍術を習得しなければならなかった。そこで読書が必要になった。ドラゴンボールで言えば、「精神と時の部屋」で修業を積むというわけである。結局、三年かかった。そのあいだに約三百冊の本を読んだ。でも、それだけではない。一人で本を読むだけだと味気ないので、僕はツイッターで自分と似たような人たちを探した。

そう、いるところにはいるものである。いわゆる「意識高い系」の人間関係から、匿名の教養主義者たちが集まるところへと移ってみたところ、そこでは四六時中ずっと難解な議論(という名の「容赦なき殴り合い」)をしているではないか。もう気分は千と千尋の神隠し、昭和のお化け、教養の怪物、オタクの魑魅魍魎が、そこらじゅうにウジャウジャと跋扈していてカオスである。一九六〇年代の思想的な問題、例えば吉本隆明埴谷雄高江藤淳谷川雁が出てきたと思えば、次の瞬間には「シン・ゴジラ」や「君の名は。」などの最近の話題がTLを埋め尽くしていく。ツイキャスでは批評言語が飛び交い、あるいは下劣な罵詈雑言が叩きつけられ、まさにバーリトゥード範馬刃牙もびっくりである。

「半年ROMってろ」とは、昔の2ちゃん用語だけれども、実際のところ僕も半年ぐらいこの界隈のやり取りをROMってた。なぜなら、あまりにも広範囲かつ難解な話題についていけなかったからだ。TLで重要視されている書籍や人物はまずメモって、それから大学図書館ブックオフや古本屋で探しまくる。ちゃんとは分からなくても、とにかく読む。それから解説本を探してまた読む。すると、TLで流れている話題が少しずつ分かってきて、自分もツイートしてみたくなる。そこで「こんなの読んだ」とか「この主張は違うでしょ」みたいなツイートする。すると、何らかのレスポンスが返ってくる。現実の人間関係ではありえないような会話が可能になる瞬間。「異界」に引っ越しできたような気がして、嬉しかった。

そこから二年半の間、議論とも口喧嘩とも判別のつかない、ツイッターというリング上における無差別級ルール無制限のバーリトゥードに身を沈めた。そこでは、本当に醜い罵り合いをたくさん見かけた。美しいほどに論理的・学術的な議論もあった。あるいはプロレス的な丁々発止も少なくなかった。そして僕も、たまにはリングに上がってみたりしたけれど、やっぱりこわかったし、たいしたことは言えなかった。

それでも、この「異界」に沈潜したことの収穫は大きかった。第一に、読書の幅が広がったこと。これは何かを考えるときの地図そのものの拡大を意味した。第二に、自分が「井の中の蛙」であることを意識するようになった。実際、僕より三歳も下の人とのスカイプ読書会で、思想史をはじめとして僕はたくさんのことを教わった。第三に、何かを読んだり書いたりするモチベーションになった。一回だけではあるけど、文学フリマに参加するサークル誌に評論めいた文章を寄稿することができた。

そんなこんなで、僕は丸々三年間を読書に費やした。二十代前半の三年間のほとんどの時間をファミレスと古本屋で過ごしてしまったことは、他の人からすれば「もったいない」と思うかもしれないが、僕にとっては何にも代え難く貴重な時間だったように思う。もちろん、一人でいる時間が長かった分だけ失ったものも色々あった。でも、それはこれから何とかしていけばいい。

そうして、卒論に取り掛かろうとなったとき、三年間の読書経験も含めた大学生活六年分の、いや自分の人生すべての体験と記憶が一気にフラッシュバックしてきた。地元のロードサイド、被災地の荒野、アジアやアフリカのバラック街、東京の高層ビル、ネット空間のTL、そして出会ってきた人びとの表情や言葉が頭蓋骨の内側を駆け巡って、書きたいことがバンバン出てきた。パソコンのキーボードを叩く手が止まることはほとんどなかった。自分の持っている手札を全て出し尽くしてこの世界と勝負すること。それは読んできた本だけではなく、体験した出来事、感じてきた情念、見てきた風景、その全てをこの世界にぶつけるつもりで書いた。だから「魂の全体重」というのも冗談ではない。「賭けるものがないんです。人生でいいですか」と叫ぶZone the darknessに震えた18歳の時から僕はブレてない。

きっと学位論文の評価としてはC判定だろう。

たとえそうだとしても、この手で叩き込んだ12万字は僕の人生である。

 

ファミレス・レポート

 自然の様々な動きを観察するための手法として定点観測というものがある。例えば、気象の変化を同じ場所からカメラで連続して観測するといったものだ。その「お天気カメラ」のごとき目で、ファミレスの人間模様について書いてみようと思う。というのも、この二年間の多くの時間を東京郊外の大通り沿いに位置する某ファミレスで過しているうちに、大袈裟に言えばファミレスという場が日本社会の今日的な天気模様を、もちろん部分的にではあるが、それとなく暗示しているように僕には見えてきたからである。だからこれはファミレス・レポートということになる。

 ところで僕は大学生だ。しかもかなり暇人の部類。一日の授業が終わると、サークルや部活に行くわけでも、バイトに勤しむわけでもなく、すたこらさっさと地元行きの電車に乗り込む。ガタンゴトン、ガタンゴトン、外の景色はいつも通り、ニューヨークみたいな摩天楼が立ち並ぶわけでも、プラハみたいに可愛らしい赤レンガの屋根が軒を連ねるわけでもない、特徴のない郊外住宅のしげみが無秩序に広がっている。地元の駅に着いて、ふと見上げると現代人が生息する蟻塚、つまり団地やマンションが整然とドミノのように立ち並んでいて、その下を交通量の多い大通りが走っている。この大通りに面した家路の途中にある某ファミレスで、僕はいつもどおりに喫煙席の隅に座ってリュックサックから本を取り出す。今日は夏目漱石、いややっぱりセリーヌにしよう。店員にホットコーヒーを注文し、それから煙草を一本、唇にくわえて火をつけると、やわらかい毛絲のような煙が照明の光の下で絡まり合って天井へと昇っていく。

 どんどん時間は過ぎていく。ふと目線を上げると、夜八時の店内は家族連れで賑わっている。そしてその中には珍妙な一組の家族が今日もいる。この家族は一週間の半分ぐらいの夕食や昼食をファミレスで済ましているみたいだった。正直なところちょっと異様である。食事を外食で済ませる金はあっても、家に台所や冷蔵庫はないのかもしれない。昔は下着などの衣服から着物まで自分たちで誂えていたらしいが、今ではすべての衣服を購入しているのと同じように、食事も冷凍食品や宅配サービスや外食産業などによる外部の既製品へと委託されつつある。生活を取り巻くあらゆる品々が自分たちの手から離れていき、家庭から料理の火までもが消えていく時、そこには一体何が残るのだろうか。

 そしてまた時間は過ぎていく。夜の十二時を回るころ、客層はガラリと様変わりする。あのおじさんは今日もビールを注文し、周囲をキョロキョロと見回しながらジョッキに口をつけている。他に食べ物を注文しているところは見たことがない。ただひたすらビールを飲んでいる。そして、半分ぐらいまで減ったころには、ソファーの背もたれに身体を預けて脱力しきったように寝る。定年退職後といった様子のむなしげな顔、痩せ細ったあごや肩は微動だにせず、まるで石像にでもなったかのように、「考える人」ならぬ「眠る人」として、足を組んで身体を硬直させたまま口を半開きにして寝ている。彼が友達や家族と居たところを見たことはない。ジョッキグラスはすっかりズブ濡れになっている。透明なグラスの表面にしたたる水滴は、彼の孤独から流れ出る涙の代わりかもしれない。

 そうしてまた本の世界に没入する。セリーヌの描く主人公バルダミュがアフリカの悲惨な大地からアメリカの大都市へと命からがらで渡ったころ、深夜二時の灰皿は底が吸殻で一杯になる。いったんページに栞を挟んで本を閉じると、首から背筋までをぐっと後ろ向けに反らした。ゴキゴキゴキッと背骨の乾いた音が体内に響き渡る。それから周囲を見渡すと、今度は年配のカップルがソファー席に隣り合って座っている。痩せて小柄なおじいさんと、髪から化粧までなにやらゴージャスなおばあさんだ。仲睦まじく身体を寄せ合って話し合う姿は老年の夫婦に見えなくもないが、しかし二人の振る舞いや話し言葉からして、それはむしろ若々しいほどに歯がゆい男女の駆け引きさえ見て取れるような、そんな関係を思わせる。普通に考えればスナックのママとその常連客だと推測しそうなものだが、どうも私的で親密な雰囲気を漂わせている。もしかしたら二人はそれぞれ長い生涯の果てに深夜のファミレスという都市の中の離島に辿り着いたのではないかと妄想が膨らむ。

 さらに首をぐるりと回すと、今度は三十代ぐらいの、けっして羽振りが良さそうには見えない男達が数人でテーブルを囲んでいる。今日は平日だから健全なビジネスマンならばとっくにご就寝なはずだが、彼らは明日のことなどどこ吹く風らしく、携帯ゲーム機を両手に抱えて一心不乱に何かをやっている。視線を一瞬たりとも画面から外さないまま、仲間に向かって何かの指示をボソボソと言い合う様はかなりシュールだ。彼らの目の前にはコーヒーしか置かれていないテーブルではなく、奥深く壮大なダンジョンがあって、きっとそこで向かい合っているのだろう。もしかしたら彼らは凄まじく巨大な怪物か敵対する相手を討伐するためにファミレスへと赴いたのかもしれない。そう、『ニューロマンサー』でウィリアム・ギブスンが描いたようなサイバースペースの仮想現実がいつか実現する日を夢見て、彼らは今日もデジタル画面にゆらめく光彩の奥へと没入するのだ。

 人影が僕の視界にすっと入ってきたかと思うと、「コーヒーのお替りいかがですか」とすこし眠そうな顔をした店員が聞いてきた。「あ、おねがいします」と手短に答える。コポコポコポとカップにコーヒーを注ぐ音がして、それから「ごゆっくりどうぞ」と丁寧におじぎをして店員は去って行った。ごゆっくりどころか、もう八時間以上も居座っている。しかも注文したのは二五〇円おかわり自由のコーヒーのみ。これほど迷惑極まりない客もなかなかいないが、自宅は禁煙と決められている僕が朝まで煙草を吸いながら本を読んでいられる場所は近辺ではこのファミレスしかない。

 それにしてもファミレスというのは、都市郊外の中に浮かぶ小さな異界に思える。都市の世界とは、緩慢に広がる住宅街とオフィス街、その間に張り巡らされた数々の交通網、朝に夜に満ち引きを繰り返す人々の波。こうした日常空間に生きる人の単純な往復は留まることを知らない。まるで何かにとり憑かれたかのように行ったり来たりする。しかし、そうした運動法則を有する世間からファミレスは隔絶している。すなわち、人はそこで立ち止まることを許されているのだ。例えば、ノートパソコンと仕事用の資料をテーブルの上に散らかしたまま何もせず、歩道の上に落ちた街灯の青白い光を醒めた目で見つめて、そして何かを慎重に吟味するような深刻な表情を浮かべている、あのビジネススーツの彼のように。

 小さな異界としてのファミレスは一人で黄昏る場所でもあるが、午前中から昼にかけてはご婦人方やご老人たちのおしゃべりの場で、夜になると家族連れが外食に来るのはもちろんのこと、親戚や友達同士で集って和気あいあいと歓談するのに利用されたりもする。しかしその隣では孤独な老人が一人で豪勢な晩餐をとっていて、さらにその隣ではマルチ商法の勧誘に無垢な若者が引っかかっていたりする。そして大学の試験期間が始まると深夜には学生たちが集まって喫煙席を占拠し、頭上にタバコの煙をモクモクさせながら筆記テストの勉強や課題のレポートを書いている。そうかと思えば、僕のように友達もなく一人で空疎に時間を潰している輩も深夜帯には多い。

 このようにテーブルひとつひとつの世界はまったく違っている。客同士がファミレスという同じ空間にいるのにも関わらず、それはライプニッツが想定したモナドのごとく、複数の時空間が隔絶しながら、しかし全体としては調和しているように見える。テーブルごとの異なる時空を超越できるのは、偉大なる神ではなく可愛らしい制服を着た店員たちであり、食べ物や飲み物が記載されているメニューがプログラム・コードとしてこの消費の宇宙を厳密に秩序付けている。しかしそれはたまに季節限定フェアによって変更される。こうしてファミレスは寄る辺なき都市生活者に小さな祝祭と孤独な安息を提供し続けているようだった。

 ということで、僕のファミレス・レポートは以上になる。窓から外を見ると、東の空がやわらかな陽の光に照らされて黄色く滲んでいる。とうとう朝が来たわけだ。手元に開いてある小説『夜の果てへの旅』では、主人公バルダミュがアメリカで見つけた女と別れて、再びフランスへ戻ろうとしていた。女は主人公に向かって言う。「結局、それがあなたの道なんだわ……遠くへ、たったひとり……いちばん遠くまで行くのは、孤独な旅人なんだわ」。思えば、このファミレス・レポートも遠くまで来たものである。そう、夜の果てに至るまで、僕はカメラを回し続けたのだ。

 

 

複線的な文脈の終わり

 何の事情も知らない人からすれば、以下の文章は意味の分からないものになってしまうことを先に断っておく。あるいは、断片的に知っていて理解できるが、ところどころで知らないことがある人もいるかもしれない。というのも、これから書く話は、僕のケジメについてであり、そして決意でもあるからだ。要するに自分語りである。

 

 2014年が終わるとき、だから僕は大学五年目の手前、同年代は就職先を決めて卒業も間近になったころ、僕は泥沼の底へと静かに沈んでいくように読書を始めた。いや、この表現はあまり正確ではない。むしろ頭は、つまり思考は生活から離脱して上へと浮遊していったのだった。そこでは、そこから見える世界では、馴染みのない概念や術語、驚くばかりのレトリック、ハッとさせられるような認識の転回が、羅列され、繰り広げられ、指示されていた。そうして無数の言葉が、時には明晰さのために、時には攪乱のために、頭の中で渦巻いていた。

 鳥肌の立つような興奮の連続、一人で叫び出したくなるような読書体験は、僕を本の虫にした。すると、まず人付き合いがどうでもよくなった。次に服装や食事も次第に意識から抜け落ちていった。そして最後には、深夜が一番読書に集中できるという理由で生活リズムも崩壊した。日常から人や物や出来事の固有名詞は失われ、抽象的で思弁的な言葉が世界を形作っていった。社会のこと、生活のこと、その大体のことは問題にならなかった。僕にとってこの時から新たに問題となったのは、根源的であり理念的なことだった。換言すれば、この世界を自分はどのように認識するのか、この世界で自分は何を基準に判断するのか、そしてこの自分は一体何なのか、といったことだけが問題になった。それに付け加えるならば、残り少ない小銭で煙草と本のどちらを買うかということぐらいだった。

 当然、社会性もしくは社交性などという性質が―――それは以前まで自分のなかで相対的に優れた部分だったのだが、いつの間にか失われていった。一日の全てが頭や意識のなかで行われた。一日が始まると、大学で講義を受け(時にはサボり)、それから新書を読み、次に漫画を読み、アニメを観て、文章を書き、さらに専門書を読んで、そして古典を読んで、またアニメを観て、それから小説を読んで、飽きもせず文章を書いた。こうした読書と物書きのほとんどの時間はファミレスで過した。この生活とも呼べない日々を過ごしているうちに、月、週、日付、曜日の感覚もどんどん消えていった。唯一数えていたのは長期休みまでの残りの日数だった。

 明らかに自分が変わっていくのが分かった。ひとつひとつの哲学的・文学的な固有名詞が、赫奕として爆ぜる木炭のように見え、その熱でカンカンになった頭を抱えて不器用な文章をひたすら書き殴った。これは俗に言う「頭でっかち」というやつである。そのような反省が当時の僕にはまったく無かったかといえば、もちろんあった。ただしかし、知識も語彙もない頭では、震災や旅の実体験を思い出のなかで酸化させ腐らせるだけだと思った。その考えは今でも変わらない。

 

 以上に書いたような月日は二年半も続いた。あっという間に過ぎた時間のなかで、僕は厭味っぽくて皮肉屋の教養主義者となっていき、太っていく身体に反して神経はガリガリに鋭く砥がれていった。気だるくて憂鬱なのはいつものことで、本を読んだり文章を書いたりするときだけ頭がキリキリと冴えだすようになり、そしてテクストや学問的知識から現実や他人を解釈するのもくせになっていた。

 まだ教養主義が学生のステータスだった頃ならば、周りと一緒になって将来のいくつかの可能性をオシャカにすることができただろう。衒学的で曖昧な議論に明け暮れ、鬱蒼とした雰囲気を纏って、大学という揺りかごのなかで偉そうな態度をとることができただろう。だが残念なことに、今この時代においてその姿は滑稽そのものだった。大正教養主義も、昭和モダニズムも、戦後の学生運動も、遠い歴史の彼方でわずかに輝いているだけだった。この時代はグローバルかつイノベーティブで、サブカルがポップで、オルタナティブがメインストリーム―――わけが分からないことを言っているのは承知している、そういうものが礼賛されていた。そしてこのとき僕自身、学問で食べていけるだけの気概も知識もなかった。要するに、僕の読書はどこまでも趣味にしかなりえなかった。

 ファミレスで本を読んでいる時間が幸福だったというのは、まったく疑いの余地もないが、それは引き延ばされた袋小路でしかないこともまた確かだった。それは喩えるならば、テレビゲームで壁にぶつかったキャラクターに対してそれでも前に進ませようとすると、壁は微動だにしないのにそのキャラは愚直に壁の前で歩き続ける―――あの滑稽な不条理だった。この停滞感と焦燥感はついに、自分の部屋の本棚を風呂敷で隠すまでに至った。本は読みたいが、しかし本を読んでいる場合ではない、就職先を決めなければならない、部屋の本棚を見ていると苛立ちや苦痛が込み上げてくる。だから本棚の表面を見えないようにした。そうした葛藤があった。

 2015年が終わり、2016年が始まって、この状況はより厳しくなった。他にも色々な出来事があって、そちらの方が実はつらかったのだが、それは書かない。ともかく様々なことが重なって、自分が追い詰められていくのが分かった。大学六年生、進路未定、貯金ゼロ、資格なし、単位も卒論も残っている。この時は、昼は落ち着かなくて、夜だけ安心できた。吐き気と頭痛が止まらない日もあった。憂鬱は常に瞼の裏側に張りついていた。公務員試験を受けようとしていたが、それもやめてしまった。部屋の隅で参考書や問題集の山がホコリをかぶっていた。ふいに、ここで人生をやめれば全て最高の思い出になる気がした。

 

 深夜のファミレスでひとり、ほとんど白紙に近い履歴書を目の前にしたとき、自分の視点が現実の日常生活に再び降りてくるのを感じた。そこに映ったのは、何も生み出さないまま知識を消費する自分であり、他者を喪失し内面をひどく肥大させた自分であり、そして饒舌なだけのワナビーとしての自分だった。学問や教養に対して、一切醒めることもできず、しかしそれへの情熱は他の学生に比べればヌルくて、何もかもが中途半端だった。

 今の僕に何ができるか。なるほど何もできない。では、何がしたいのか。言い換えれば、どんな環境や立場で、何を生み出して、それを誰に届けたいのか。考える、考える、考える、考える―――。

 社会問題や人文学に関心がある人たちと一緒に、言葉を練って、問題提起の力がある本を作って、それを必要としている人たちに届けたい。そして、そう思わない人に対しては、それが必要だと思わせたい。社会や他者に向き合う言葉を発しつづけたい。

 出版社に就職しよう。やりたいことをして働き、自分の手で暮らしを立てよう。

 そう思ったとき「日常生活」が、今度は反省的に自分の問題として現れた。日常は自明ではなく、生活は他者の存在を不可欠としていた。何を当たり前のことを、と思うかもしれない。しかし「当たり前」や「日常」といった現実の生活を自覚的・内省的に考え、そして自らの手で構築していく態度を、僕の場合は現実の生活を離れることで逆説的に手に入れることができた。だから僕のなかで認識は、下から上へ、上から下へと、二度転倒したことになる。以前までの自明な毎日は、一旦抽象化・客体化され、構造や記号として、あるいはそれらの関係として俯瞰的に認識されたのち、再び都市現実や日常生活として生きられる主観のなかに現れた。

 出版の仕事をしながら日常を生きるということは、このブログのタイトルである「複線的な文脈」の終着点、そのピリオドを意味しているように思えた。気取った言い方をすれば、言葉と生活を、精神的な営みと社会的な営みを、弁証法的に止揚することが一つの課題となった。こんな遠回しな言い方をしなくても、要するに「就活」と言ってしまえばそれまでなのだが、まぁ自分にとっては以上のような意味内容があったわけである。

 

 こうしてアホらしい精神劇を一人で黙々とやっていたのが、昨日までのことである。それで今日、とある学術・評論系の出版社から内定の連絡を頂いた。企画編集と営業をやらせてもらえることになった。近いうちバイトに来てくれとも言われた。毎日のコーヒー代や煙草代すらままならなかった自分としては本当に有り難いかぎりである。

 僕の内面に広がっていた複線的な文脈は、今ひとつの合流点に辿り着いた。そこは世間で不況・斜陽と言われる出版業界である。だが、それが一体何だろうか。だからなに、と言うべきである。いくら稼ごうが、いくらデカくなろうが、金や地位を墓まで持って行くことはできないし、たいていの組織は100年や200年も経てば跡形もなく消え去っている。

 ならばどうするか。「いま・ここ」で「あなた」に向かって、今の僕が持つ最高の言葉を差し出す、それしかないだろう。もしかしたら受け取ってもらえないかもしれないし、結局は無意味かもしれないが、それでもやる、やり続けるのである。この強度を鍛え上げるための大学六年間だったのだ。今となってはそう思う。

見送るということ

久しぶりにブログを書こうと思う。

たいてい更新する時は何らかの出来事や思いつきがあった場合なのだが、今回もやはり出来事があったのだ。出来事、つまりそれは様々な意味が集約されたワン・シーンに立ち会ったということであり、過去の中に見出した連続性が現在に繋がる一瞬でもある。

どんな出来事があったのか。

また一人、友人の旅立ちを見送ったのだ。

仲の良い友人に限って言えば、今回で六人目になるだろうかと思う。僕は三年前に帰国してから、たくさんの人に「旅へ出ろ」と煽ってきた。もちろんその中には実際に旅をした人もいれば、そうでない人もいた。だからまぁ、僕が何を言ったところで大して影響力はなく、最後はそれぞれの意志で決めるものだ。当たり前だけど。

それにしても、今回は少し事情が違う。

どう違うのかというと、その友人はすでに三年間会社に勤めていたのだ。これまでは皆、帰る場所(大学)がある人たちだった。しかし彼女(その友人)は、会社を辞めて旅に出た。つまり、帰国したらまたイチからやり直さなければならない。

この違いは大きいと思う。

僕自身、学生とはいえお先真っ暗の、なかばニート同然になってみて感じるのだが、何らかの生産組織に所属し、そのなかで社会的な役割を担い、他者と接する自分の生身に責任を背負わせるということは、重たい足枷を付けることであると同時に、世間の厳しさに耐えうる鎧をまとうことでもあるのかもしれない。だから今の僕は無防備なまま世間を浮遊する雑魚とも言える。

彼女は、その足枷と鎧を脱ぎ捨てて、ひとり旅に出たのだ。

彼女の親御さんはとても心配されているらしい。当たり前だ。僕が旅をしていた2012-2013年に比べて、国際情勢は悪化の一途を辿っているし、日本円のレートはかなり安くなった。そして本人はヨーロッパと中東を中心に世界を一周したいと考えているのだから、パリ・テロ以降の今日的な状況を考えれば、もはやリスクは爆上げ必至と言えよう。少しでもパターナルな考えを持つ人ならば、断固として許さないだろうと思う。僕も本来ならば「煽り」を慎むべきなのだが、実際は彼女の旅の準備にかなり協力してしまった。彼女が出立してから、その理由を考えるために色々と思い出していた。

記憶を遡ると、それは2012年8月イスタンブールの蒸し暑い夜に行き着く。

彼女と出会った場所はブルーモスク付近の安メシを食わせるレストランだった。お互いにまだ19歳、しかも彼女の言によれば「めっちゃ尖っていた」ので、今となっては具体的にどんな内容を話したのか忘れたが、やたらと威勢のいい人生論をぶつけ合ったような気がする。要するに、二人とも精一杯の背伸びをしていた時期だったのだ。その時の僕は、そんな「背伸び」の一環としてアゴひげや口ひげを生えっぱなしにし、それっぽいエスニックな服を小汚く着ていた。彼女の方はというと、誤解を恐れずに言えば「行動力のあるサブカル少女」のような印象だった。結局、その食事代は彼女に奢ってもらった。実に情けないかぎりだが、最近も奢ってもらったので、本当に僕は金もなければ男気もないクズ野郎である。

時間はあっという間に過ぎていく。

僕が日本に帰ってきてから、半年に一回ぐらい会って酒を飲んだ。専門学校を卒業した彼女は就職の道を選んで、とある有名なファッションブランドの会社に勤めるようになった。僕は僕で復学後に色々あったものの、最終的には読書三昧の日々に身を浸していた。週に3~4冊、月に約10冊、年に100~120冊、何かに憑りつかれたように読んだ。その間に五人の友人が海外へ旅立つのを見送り、そして一年後その人たちの帰国を迎え、それからさらに一年後にはそのほとんどの人たちが大学を卒業していくのを再び見送った。すると次には、勤め人の彼女が「旅」を口に出すようになった。

ここ数年で、僕は多くの友人を見送った。

そしてついこの前、その彼女も見送った。

 

見送る。送り出す。

僕がそれをできるのは、その人が新しい場所へ出ていこうとするからだ。旅の準備を手伝いもしたが、それだって自分で調べて自分で実行しようとするから、僕は手伝うことができるのだ。海外に行きたいだの、会社を辞めたいだの、そんなことは誰でも言っている。

口ではなんとでも言えるのだ、本当に。

これは哲学や思想なんかを勉強していても思うことだが、学説として、理屈として、深遠で壮大な考えを語ることは確かにできるかもしれない。もちろん「家族を持たない人が家族論を語るべきではない」とか、「倫理的でない人が倫理学を語るべきではない」とか、そんなことは一概に言えるわけではないが、自己の実存と自分の発言との間に何か見えない透明な緩衝剤を挟んで、他人の諸々を操作的に論じてみせる人たちに対して、少なからぬ不信感を覚えることもまた事実だ。僕に限って言えば、僕自身が生きることに直接関係あることを学びたいし、言葉が僕に向かって飛びかかってくるような文章を読みたいと思っている。

ところで当の彼女は、「このタイミングしかない」と言っていた。きっと本当にそう思ったのだろう。今を逃したら旅の計画は全て「昔の夢」となっていくことが分かったのだと思う。ああしたかったのに、こうしたかったのに、そんな繰り言を吐いている間に人は年老いていく。鋭く狡猾な人間は「誰しもそんなもんだ、諦めこそが人生だ」と言ってみせるかもしれない。僕も最近になってその言葉の意味をだんだん理解してきたつもりである。

だがしかし、むしろそれだからこそ、僕はこう思うのだ。

絶対に諦めず、逆接の語を叫び続けて、たった一つでも何かを達成したら、それは「人生に勝った」と言えるのではないだろうか、と。つまり、諦めと挫折の連続が人生の内実であるならば、生そのものが逆風であるとすれば、それを突破しようとすることは自己の実存に真正面から向き合おうとすることだろう。

僕は友人のそうした瞬間に立ち会いたいと思うタイプだ。

それが僕にとっての「見送ること」である。たとえ世間的に見て「逃げ」だろうが「遊び」だろうが、そんなことは関係がない。それに僕は知っている。逃げた先にもまた壁があり、そして遊びのなかにも学びがあることを。

以上のように、こうした一連の考えがあるから、僕は彼女の準備にも協力したんだと思う。実際に何かやっていれば誰かが見てくれている。そのうち誰かが手を貸してくれるようになる。他人との関わり合いのなかで、自分の速度が少しずつ上がっていき、現実はいつの間にか姿を変えている。月並みな話だが、そういうものだと思う。

そうでなきゃ、人生はつまらなくさびしいものだ。

だから僕は誰かを見送るし、いつかは誰かに見送られたいと思う。

 

 

 

年間100冊読んでみて思ったこと②

・はじめに

 とうとう師走になってしまった。しかし今年もなんとか年間100冊を読むことができた。とはいえ、「100冊読んだ」なんて虚仮脅しに過ぎないと自分でも思う。一週間に大体3~4冊のペースで読んでいれば自然と一年間に90~120冊にはなるのだから、土日の休日に一冊ずつと、平日に学校の行き帰りの電車で一冊読めばそれで100冊ぐらいになってしまうわけだ。つまり100冊という量は別にたいしたことじゃない。

 それに「100冊」の内訳だって、小説が100冊なのか、専門書が100冊なのかでも読書体験として質が違うだろう。もちろんそれは「良い/悪い」の違いではなく、「どんな100冊だったのか」という意味で違うだけである。もう少し具体的に言えば、知的好奇心を満たすための娯楽としての読書なのか、何かを研究するための読書なのかなどいった違いはあるだろうということだ。ちなみに僕の場合は「娯楽としての読書」である。だからこれも別にたいしたことじゃない。テクストを精読したり、読解ノートを作ったり、原文と翻訳を比較したりなど、そんな高等な読書術なんぞ僕はほとんどやったことがない。

 本を読むときの態度なんてのも、学問的で難しい内容ならば「へー、ふーん」とか「なるほど、なるほど」なんて具合にワケ知り顔で肯いておきながら、実のところ本の内容の30%も分かっているか怪しいところだし、小説に至っては僕が仏文の学生だからと言ってバルザックプルーストとかを読んでいるわけでもなく、一貫性も何もないまま手当たり次第に乱読している。しかも大抵は一冊で完結しているものしか読まない。

 というわけで、僕の読書はテキトーで中途半端なものなのだ。ただそうは言っても、日々の読書体験はいつも新鮮で、物語ならば新しい世界を、学問ならば新しい認識や知識を、むさぼり呑み尽くすようにして読んでいくことは本当に幸せである。

 大学五年目も終わりに近づいて、就職先は何も決まっておらず、六年目の卒論すら未だにマトモなことを考えてもいないのにも関わらず、ひたすらに無目的な読書を続けているというのは、おそらく一般にしてみればバカもいい加減にしろといったところだろう。まったくそうである。じつにそのとおりだと思う。

 ただそれでも「しかし・・・」と言いたくなるのが読書中毒者の性だ。これは色々な人が言っていることではあるけれど、文学なんてのはまさに「毒」なわけで、合法なくせに極めて破壊的な麻薬であることは違いないだろうと思う。

 前置きが長くなったが、今年の100冊の中から以下で紹介する何冊かの本は、そんな「毒」をたっぷりと含んだものばかりである。つまり、読んではいけない本ばかりである。(注:ネタバレ的なことはなるべく書かないようにする)

 

 

夏目漱石『それから』 岩波文庫

あらすじ(本書記載):三年まえ友人平岡への義侠心から自らの想いをたち切った代助は、いま愛するひと三千代をわが胸にとりもどそうと決意する。だが、「自然」にはかなっても人の掟にそむくこの愛に生きることは、二人が社会から追い放たれることを意味した。

 

解説:主人公の代助は、今風に言えば「三十路のニート」であり、しかも金持ちの家のボンボンで、高学歴でもある。要するに高等遊民なわけだ。作中の時代は1909年(明治42年)で、実際にこの小説が朝日新聞に連載されていたのも同時期である。作中では、代助が旧友の平岡に向かって当時の世相についての文明批評をしてみせる場面があり、その意見はリアルタイムで読んでいた読者にとってかなり衝撃的な印象をもたらしただろうと思う。そしてまた、代助の暮らしを取り巻く品々や出来事なども具体的に描写されており、当時の生活風俗も覗けるようになっている。

この物語は、代助・平岡・三千代の「遅すぎた」三角関係によって進行する。それに加えて、当時の日本社会では(今も同じかもしれないが)一人前とは認められない「口だけ男」の代助が、自分の過去に培ってきた思想と、将来への大きな転換を予期させる事件との狭間で悩み抜く姿が描かれている。他にも、代助の父親が持つ「富国強兵」や「儒教道徳」の価値観と、西欧から輸入した近代学問を身に着けてニヒリズムに浸っている知識人・代助の価値観とが対立していたりする。つまり、社会的・歴史的な条件によって様々な対立項が出来上がっていく最中で『それから』の物語は展開するのだ。

果たして、代助は三千代と結ばれるのか?

 

感想:なぜこの小説を最初に挙げたかというと、今年読んだ小説の中でもっとも共感した作品だからだ。しかし恋愛の三角関係にではなく、代助自身の実際の状況、あるいは少々子どもじみているとさえ言える厭世感に対してである。

というのも僕は、同年代に対して社会に出遅れていながら、読書の窓から世界を覗いて頭だけであれこれ考えたり、イライラしたり、うんざりしているという有様で、ほとんど代助と変わらぬのである。そういうわけで『それから』は、今の僕にとって痛いぐらいに切実な内容を含んでいる。(とはいえ、僕は別に代助ほど優秀ではない。代助よりよっぽど半端者である)

そんな事情もあって、代助がどのような思考を経て、どんな決断に至るのかを、本当に「手に汗握る」ような思いで読み進めていった。読み終わった時はファミレスに居たのだが、叫びだしたくなるのを必死に噛み殺さなければいけないぐらい、壮絶な終わり方だった。たぶん10年後、20年後、これを初めて読んだときを思い出しながら読み返していると思う。それほど思い入れのある小説だ。

 

 

横光利一『上海』 講談社文芸文庫

あらすじ(本書記載):1925年、中国・上海で起きた反日民族運動を背景に、そこに住み、浮遊し、彷徨する一人の日本人の苦悩を描く。死を想う日々、ダンスホールの踊子や湯女との接触。中国共産党の女性闘士 芳秋蘭との劇的な邂逅と別れ。

視覚・心理両面から作中人物を追う斬新な文体により、不穏な戦争前夜の国際都市上海の深い息づかいを伝える。昭和初期新感覚派文学を代表する、先駆的都会小説。

 

解説:欧米諸国のあらゆる勢力が出店を構えていた「魔都・上海」で、日本の紡績会社の社員である主人公の参木は、このモザイク状の植民地的な国際都市に様々な闘争と駆け引きが渦巻いているのを目にする。それは近代の国際社会における西洋と東洋との激しい軋轢であり、帝国主義的な資本主義と中国人民のマルクス主義とのぶつかり合いでもある。そしてまた参木はそれだけでなく、港で働く苦力(クーリー)や外国人たちを相手にする売春婦に出会い、他方ではダンスホールという社交場を出入りする貿易会社のアメリカ人やイギリス人やドイツ人にも出会う。このように混沌とした魔都・上海で参木は、「自らの身体は日本の領土であるという国権的な思考と、中国の民衆の貧しさに同情する民権的な感情の狭間」(本書解説)で揺れる。

この小説は新感覚派の代表作と言われるが、新感覚とは何かということを横光利一は次のように述べている。新感覚とは「自然の外相を剥奪し、物自体に踊り込む主観の直感的触発物」を小説として表現することらしい。この説明について、本書の解説者であり文学者の菅野昭正は「むずかしい鹿爪らしい用語をあれこれ繰り出してみせるものの、横光利一の<新感覚>とは、要するに、視覚、聴覚など感覚の知覚するがままにしたがって、外界の現実をとらえることにほかならなかった」と評言している。

このことについて少し自分なりの解釈を書いておくと、横光の言う「自然の外相」というのは自然科学が見せる客観的な認識であり、たとえ街の群衆と言えどもバラバラな個人の肉体の集合に過ぎないのであるが、これが「主観の直感」によれば、群衆は「膨張」したり「流れ」たり「割られ」たりするような、一つの流動体になる。つまり、世界を細切れの静止画あるいは点として写実するのではなく、蠢く動画あるいは線としてそのまま連続的に活写するのである。

 

感想:日本文学なんて夏目漱石森鴎外芥川龍之介太宰治の名前ぐらいしか知らなかった僕は、横光利一という作家を名前さえ知らなかった。だからこの小説『上海』もまったく知らなくて、ただブックオフの本棚でこれの背表紙と目が合ったから買ったという程度であった。本の内容も、よく知らない中国の、しかもマルクス主義運動とくる。あまり慣れない政治小説とも思えた。

しかし実際に読んでみると、まず新感覚派の文体によって描かれる上海のエキゾチックな情景へと一瞬で引き込まれる。そして物語の構成と人間関係の配置から来るスリリングな緊張感で読むのを止められなくなった。次は横光利一の『旅愁』を読みたいと思う。

 

 

埴谷雄高『死霊』 講談社

あらすじ:昭和10年代の東京市と思われる街を舞台とするこの小説に於いて、議論の中心となるのは、「虚體」の思想を持ち「自同律」に懐疑を抱く主人公・三輪與志、結核に罹患し瀕死の床に伏す元党地下活動家の三輪高志、「首ったけ」こと自称革命家の首猛夫、「黙狂」と呼ばれる思索者・矢場徹吾ら4人の異母兄弟である。こうした群像が存在の秘密や宇宙や無限をめぐって異様な観念的議論をたたかわせる。

何十ページにもわたる独白を中心とした饒舌な文体によって進められる非常に緩慢な時間進行の中での対話劇に、永久運動の時計台、《死者の電話箱》・《存在の電話箱》の実験、《窮極の秘密を打ち明ける夢魔》との対話、《愁いの王》の悲劇、「暗黒速」「念速」などの概念、人間そのもの・イエス・キリスト・釈迦・さらに上位的存在への弾劾、ある種象徴的な黒服・青服による「虚体」「虚在」「ない」の三者の観念的峻別についての示唆なども挿入され、一種神秘的・超常的な雰囲気さえただよう。日本文学大賞受賞。

 (引用元Wikipedia「死霊」)

 

解説:むり。

 

感想:あらすじを読んだ人は「なんだこりゃ」と思うかもしれない。この本の帯には「二十世紀の闇に光芒を放つわが国初の形而上小説」と書いてある。これでもよく分からないと思う。要するに小説の格好をした哲学書なんだと思ってくれればいい。全部で九章あるうち、僕は定本に記載されている五章まで読んでみた。ちなみに埴谷雄高を若者たちが読んでいた時代はとうに昔のことである。この本が雑誌「近代文学」に連載され始めたのは1946年、僕の父は予備校で大学浪人していた1970年代に読んだという。この時代からも分かるとおり、マルクス主義と学生運動の盛んな時期に書かれた本であり、埴谷雄高自身も元共産党員であるから、作品の中にもそのことが描かれている。とはいえ、20世紀の末で平成生まれの僕はそんな事情も風潮も知らない。でも「そういう時代だったんだ」ぐらいに知っておけば、たいして詳しく知らなくてもあまり差し障りはないと思う。

それでもこの本を理解できたのかと言えば、おそらく10%ぐらいしか分かっていないと思う。僕が分かったのは、というか共感したのは、「自同律」に対する懐疑だった。このことについて文学者・本多秋五は次のように言う。「埴谷が「自同律の不快」というものは、じつは「俺は」といって、つぎに「俺である」と断定するのにたじろぐ、そこに大きな抵抗を感じるということ」だった。

読者のなかには全く共感できない人も多いかもしれない。しかし僕は少しばかり共感するところがある。今においてもあらゆる種類の「僕」がいて、しかも過去と今を比べると「僕」は時期ごとに全然違っている。それに仮に過去から現在までの全ての「僕」を紙に書き連ねたとして、「この全てが僕だ」と言っても、次の瞬間には「僕」で埋め尽くされたその紙面を突発的な怒りと共に破り捨ててしまう「僕」が白紙の向こうから現れる。この「白紙」が怒りを生むとしたら、この「白紙」はどこから来るのだろうか、一体何なのだろうか、分からない。だから埴谷が『死霊』の中で「不快が、俺の原理だ」と主人公・三輪に言わせるとき、「怒りだろう、それは」と僕は言いたくなる。ちなみに批評家・秋山駿は『舗石の思想』の中で同じことを「苦痛」と言っていた。まぁそのへんはどう感じるかの違いに過ぎないかもしれない。ともかく、六章から九章までの続編を僕は早く読もうと思う。

 

 

セリーヌ『夜の果てへの旅』 中公文庫

あらすじ(本書記載):全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた<呪われた作家>セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。下巻では、遍歴を重ねた主人公バルダミュは、パリの場末に住み着き医者となるが―。人生嫌悪の果てしない旅を続ける主人公の痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の傑作巨編。

 

解説:人生へのとてつもない嫌悪と、全人類へのはげしい罵倒と、世界をこっぱ微塵にするような言葉が詰め込まれた、破天荒すぎる長篇小説『夜の果てへの旅』は、アンドレ・ジッドが言うように「セリーヌが描き出すのは現実ではない、現実が生み出す幻覚」であり、過敏症的な感覚によって描かれているようにも読める。

しかしその他方で見逃してはいけないのが、セリーヌの冷徹な分析眼である。第一次世界大戦におけるフランスでは戦時体制下のナショナリズムを呪い、小コンゴでは帝国植民地の最底辺で貧困の惨めさを叫び、アメリカでは大量生産大量消費の資本主義を見て人間疎外を呟く。つまり、セリーヌはこの本で自らの人生を感情のままに謳いながら、その饒舌な言葉は時代や文明をも鋭く批評している。

 

感想:この本を読むにあたって、奇妙な読み方かとは思うが、政治哲学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を下敷きに読んでみるといいかもしれない。というのも、アーレントが言うところの「モッブ」こそがセリーヌであり、セリーヌの描く社会の背景をアーレントは分析しているからだ。すなわち戦争と大衆の世紀をアーレントが写実的にスケッチしたとしたら、セリーヌはそれを悲惨な色合いで情念たっぷりに彩ったと言えるだろう。

僕はこれを読んだとき、言葉がこれほどまでに破壊力を持つものなのかと震えた。この本の書き出しからしてもう鳥肌モノである。

「旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ」

想像の旅、それが分かるだろうか。僕には分かる。目を閉じることで、目を開いている時よりも明瞭に世界を見ることができることもある。大江健三郎が言うように、想像とは認識に限りなく近い。セリーヌの想像する現実の世界は情念の色で真っ黒に熱く輝いている。

 

・そのほか印象に残った本

J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)

旅をしていたとき、トルコで出会った日本人の旅人が「一番好きな本」として教えてくれた小説。ずっと読もう読もうと思っていたけど、やっと最近になって読めた。「君」に語り聞かせる形式で描かれる、あてのないまま都市を彷徨う旅をする少年のうらぶれた姿や感情には、なんとも言えないほど親近感を覚えた。

 

島崎藤村『破戒』

日本の自然主義文学として代表的な作品。信濃千曲川周辺を舞台にして、新平民であり穢多の出身である若い教師が、自分のアイデンティティと世間一般の差別心との間で悩む。「戒め」を「破る」ことを希求せざるえなかった青年の肖像が描かれており、また藤村の有名な詩「初恋」を思い出すような描写もあり、読み手の感情を大きく揺さぶってくる。

 

筒井康隆モナドの領域』

筒井康隆の最後の作品と呼ばれ、最近とても話題になった小説。実は僕は筒井康隆を読むのはこれが初めてだった。考え方は違っていてもヴォルテールの『カンディード』を思わせるような哲学的な内容になっていて、ライプニッツ的世界観を基にして現代の日本社会にGODが降臨する。筒井ファンにとっては総決算の一作に読めたかもしれない。作中の後半でGODがメタ発言をぶちかます場面では、文章の向こうからGODがこちらを本当に見ている気がした。

 

E・Y・ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』

約650ページにもわたってアーレントの一生を綴ったこの伝記は、読者にまったく飽きさせない。間違いなく20世紀の世界のド真ん中を駆け抜けたアーレントの足跡を辿る文章は、タイプライターを前に、あるいは友人や学生たちを前にして、あらゆることを雄弁に語る彼女の姿を本当にハッキリと浮かび上がらせる。今年読んだなかでもっとも勇気をもらった本。

 

J・オースティン『高慢と偏見

夏目漱石が「則天去私」の思想を見たイギリス近代文学の代表作。片田舎の家族の娘たちが社交界の男性たちとの恋愛や結婚をめぐってドタバタ騒ぎを繰り広げ一喜一憂する話。主人公エリザベス・ベネットの知性と観察眼の鋭さは読者を驚かせて惹きつける。映画化もされており、世界的に高い評価を受けている一作。

 

 

・まとめ

今回は小説中心で書いた。というのも、今年は「物語」というものに深く耽溺した一年だったような気がするからだ。この一年、現実の思い出はあまりないが、読んだものや観たものについての思い出は数多い。たぶんそれって現実逃避だとか非リア充だとか言われるんだろうけど、僕は僕なりにけっこう楽しかったし充実していたと思う。小説、漫画、アニメの中で無限に広がる物語にひたすらのめり込んでみる、人生の中にそんな時期があったっていいじゃないかと、やっぱり思う。

自分の生きている世界ってのは、日本の東京にある家と学校の往復だけじゃない。読書によって、現在も現実も飛び越して幾重にもなる物語の世界を旅することができる。

想像の翼は、それを可能にする。

そんな当たり前のことに気付いた一年だった。

楽しかった。そして、来年も楽しみだ。