或る蛮人の書誌

読書記録と雑文集

本当の近況 旅としての独学

・はじめに

 「自分を変えよう」

 そう思って学問の扉を叩いてから1年半が経とうとしている。今回の記事は、とても個人的な振り返りに終始する。その理由は、春休みにやったことの振り返りを簡単にフェイスブックに書いたところ、意外にも「いいね」の数が30以上ついたからである。

 そんな些細な、大したこともないことで、一体なぜこの記事が書かれるに至ったのか。それは一か月も二か月もかけて準備したブログ記事に対するフェイスブックでの反応に比べて、中学生でも5分足らずで書けるような文章の方が圧倒的に他人の注目を集めていることに気付いたからだ。そしてこの後者の投稿内容が僕の近況として他の人に理解されてしまうことに、僕自身がとても戸惑っているからでもある。だからこの記事のタイトルは「本当の近況」なのである。

 今の僕にとって、行動レベルでの僕は大した意味を持たない。誤解を招くような言い方になってしまうので付け加えるが、思い出や楽しみだとかの話ではもちろん意味があるし、価値がないとは決して言わない。ただ「今の僕」の中心軸が、内的な自分もしくは「考える自分」に据えられているために、実際の行動には本心として希求するような意味がほとんどないのである。他方で「考える自分」はどこに具体化するのかといえば、それはこのブログ上であり、すなわちテクストでの実践とも言える。

 

・旅としての独学

 もし休学期間が「独学としての旅」だとしたら、この一年半は「旅としての独学」なのだろう。例えば、シエラレオネでボランティアをしていた時点での自分を説明するには、それに至る経緯を説明しなければ個人的には不十分だと思う。それと同様に、今の自分を説明するには「旅としての独学」における今までの道程を説明しなければ不十分であると考える。

 「独学としての旅」は分かりやすいにしても、「旅としての独学」は意味不明に思われるかもしれない。独学とは、僕の私見でしかないが、自分本位の興味と関心で何かを学び得ていく営みである。裏を返せば、「やらされること」からの逃避とも言える。好きな事を好きな時に好きなだけ学ぶこと、これだけである。

 では、何故その独学が旅として喩えられるのだろうか。それは端的に言って、行動指針が旅と同一だからである。旅も、好きな場所へ好きな時に行き、そして大抵の場合は好きなだけ滞在することができる。少なくとも僕の旅はそんな感じであった。このことから、次のように言うことができる。独学は旅と同様に自由である、と。

 

・独学の旅路

 実際の旅における始点は、大抵の場合には自分の住む町だろう。しかし「旅としての独学」においては、僕は「自分の住む町」がなかった。つまり専攻も専門も何も無かったわけである。一応、人文学部ヨーロッパ文化学科という所属は与えられているが、これはとても広範囲な区分であり、そのなかで一体どんな分野が自分の関心に近いのかよく分からなかった。それに加えて、前文と矛盾するようだが、なぜその範囲に自分の学問を限定されなければならないのかも、よく分からなかった。

 そんな状態で旅が終わった時、僕の問題意識は貧困と人権にあった。そして、これらに対するアプローチとして開発経済や国際人権法があることも知っていた。ただしかし、深刻な問題ほど、その構成要素として複雑で、なおかつ歴史的な重層性を孕むものであるという直観をこの時の僕は得ていた。そして、これこそが当初の僕にとって最も重要だったのだが、その問題を世界という人間社会の全体像のなかで捉えることが必要なのではないかと、浅はかにも思ったわけだ。

 上記のような理由で、学問の様々な領域において「立場なき状態」のまま、色々な分野に入っては出ていくということを繰り返している。「色々な」とはいえ、基本的には文系科目に限られているし、人間社会を根底で形作っている「哲学」や「思想」と呼ばれる分野に偏っている。以下にざっくりとした変遷を羅列してみようと思う。

 実存主義哲学・不条理文学→構造主義哲学→仏独文学→カントの平和論→マルクスの経済学・哲学→日欧の現代思想法哲学倫理学→都市社会学・郊外論→日本の政治思想・文芸批評→歴史学物語論(現在)

 以上のそれぞれは、どれもが中途半端に終わっている。「かじった」と言ってもいいのか不安になるぐらいに半端である。大体1~2か月単位ぐらいで学問領域を移動していて、某大学が喧伝するところの「横断ゼミ」ではないが、こうした領域を横断的に独学しているような状態にある。だから「旅としての独学」なのである。

 アジア・アフリカを旅してきて、なぜヨーロッパの哲学を中心に学んでいるのか。結局は学部学科に影響されているのではないのか、という疑問が浮かぶかもしれない。僕の中で学部学科はほとんど関係ない。結果として、そうなっただけである。というのも、アジアやアフリカの現在を知るためには、以前の西欧における帝国主義的性格を持つ資本主義、政治や経済をはじめとしたポスト・コロニアルな状況、もしくは白人男性中心主義の問題、欧米発のグローバリズム、これらを学ばなければならない。遠回りに思われるかもしれないが、問題の表面だけを知ったかぶることはしたくない。

 

・本当の近況

 去年の秋以降、自分の関心が日本に近づいてきた。具体的に言えば、都市社会学と消費社会論から見る郊外の様相、法哲学や刑法から見る日本の死刑制度、日本の政治思想から見る戦後民主主義の文脈、日本文学や20世紀における文芸批評、そして物語論から見る日本の社会史などだ。

 旅をしていた時に痛切に感じていたことの一つとして挙げられるのが、これは海外に出ていた学生たちも同じことを言っていたが、僕は日本を全然知らないということだ。その問題意識を抱え続けてきたために、今こうして日本の問題に向かっているわけである。

 これはある意味で、自分自身の現実に接近しているとも言える。ただしかし、世界という空間的な広がり、時代という時間的な流れ、これらを哲学や思想の文脈で踏まえた上で日本に近づいているのである。例えば丸山眞男が、明治期から今まで、日本の学問区分や政治制度は「西欧からの輸入物」であり「タコツボ型」であると断じたように、そして村上龍が、アメリカの思想はモノであり、被占領国国民はその思想としてのモノから距離を取れないと言ったように、いつの時代でも日本は多分に外国の影響を受けている。

 だからヨーロッパとアジア・アフリカを切り分けることができないと前章で説明したように、世界と日本も切り分けることができないのである。「グローバルな視点」というフレーズをよく見かけるが、それはこうした意味で合っているのだろうか?僕には分からない。「グローバルな視点」とは何か、誰か僕に教えてほしい。

 ともかくだが、日本の、自分の、現実とやらに僕は近づいている気がする。そしてなんとなく思っていることだが、ここから更に近づいていくには実学へ入っていく必要があるのかもしれない。技術としての実学ではなく、知識としての実学、つまり実定法や労働経済や政治学や統計社会学などである。ただそこへ立ち入るのかどうかは、正直なところ分からない。

 今では哲学専攻を一応は名乗っているので、そちらをきちんと修めたいとも思っている。「かじった」だけでは、やはり自分が納得いかない。だからヨーロッパの近代哲学から哲学をやっていくのが妥当な道だろうと思っている。

 ただし、ちょうど今は、歴史学民俗学や文学などを横断する形で物語論を始めてしまったので、なかなか戻れそうにないのが現状だ。物語論をやり始めたのは、単なる知的好奇心だけではなく、この現実世界に対する僕の問題意識ともリンクしている。というのは、最近の国内外の状況が関係していて、言わずもがな「イスラム国」の問題である。

 ここで細かく言及はしないが、イスラム国はコーランという物語に依拠した行動を起こしていて、他方でアメリカは9.11以降から西部劇に似た原理で動いてるように見える。イスラム教世界VSキリスト教世界、共同体主義VS個人主義、元被占領国VS元宗主国前近代的な信仰VS近代的な理性、こうした様々な対立軸が多重的に世界を覆っていて、この状況に対する世界認識が、冷戦構造のイデオロギー的対立に代わって、一元的に物語化しているように思える。こうした問題意識があるために「物語論」を今から独学してみようと考えているわけだ。

 長くなってしまったが、これが僕の「本当の近況」であり、「旅としての独学」の現在である。学問は際限なく楽しい。この世界を出るにはもう少し時間がかかる。