春休みの読書感想文①

 春休みが終盤に入ったので、この期間に読んだ本のうち4冊について感想と考えたことを書こうと思う。ちなみに、この記事はただの自己満足でしかなく、思いつきの文章でしかない、一介の読書人による暇つぶしである。

 前回の『年間100冊読んでみて思ったこと』では、だいぶ大雑把に一言のコメントしか載せなかったが、今回は僕自身の関心に強く響いた4冊に絞って書こうと思う。リストは以下である。ちなみにこの記事は初回なので『地下室の手記』だ。

ドストエフスキー地下室の手記

・ミシェル ウエルベック素粒子

・秋山駿『舗石の思想』

芥川龍之介『河童』

 

 これらを選んだ理由は「印象に残っているから」ということでしかないが、並べてみると「精神-自意識」と「社会-時代」との関係をどれもが明確に描いていることに気付いた。たぶん、僕の問題意識はこのへんにあるのだろう。

 感想文を書く前に、この関係について少しだけ自分の見解を書いてみたい。これは僕がどんな視点で本を読んでいるのかという話でもあるかもしれない。まぁこんな話に興味がある人は相当な物好きだけだろうから、退屈ならば読み飛ばしてもらって構わない。

 

 以前に「人生を変えた本は何ですか?」という質問に答えたことがある。その時の僕の回答は、沢木耕太郎深夜特急』、カミュ『ペスト』、キルケゴール死に至る病』だった。

 この答えについて、ある人から「30、40年前の大学生みたいなセレクトだな」と言われた。読んでいる本、特に気に入っている本は、その人の内的な性格を端的に表すと思う。現に自分の本棚や読んでいる本は絶対に他人には見せないという人もいるぐらいだ。読書はそれだけプライベートな領域でもあると言える。もちろん本に対する考え方はそれだけではないし、僕は他の人の読んでいる本を知りたいと思い、知ってほしいとも思うタイプだ。

 

 ところで、この「生まれる時代を間違えた」ようなセレクトは、僕の内的な性格を表すだろうか? 少なくとも「内的」という意味においては核心を突くような気がする。

 これらの本は、精神の「暗部」もしくは「陰鬱」を、その情景描写や分析的な考察によって表象している。ともかく形式は何であれ、スクリーンとしてのこれらの本に自らの精神-自意識が投射されることによって、精神-自意識を自覚させられてしまったことによって、「人生が変わる」ほどの衝撃を受けたのである。

 しかし、この言い方だと一面的な紹介にしかならない。大事なことは、この「精神-自意識」と「社会-時代」との関係において、これらの三冊は書かれているということである。

 この三冊のジャンルは全く違う。ヒッピー系の旅小説、実存主義的な不条理小説、絶望の心理に関する哲学書と、確かにバラバラではある。ただやはり精神と社会との対峙という点において通底しているように僕は思う。

 というのも、『深夜特急』では旅人として通過する様々な地域や人間模様を、『ペスト』では日常に突如として現れた非常事態に巻き込まれる人間社会を、『死に至る病』ではキリスト教的な共同体の生活を、これらを意識した上で書かれているからだ。

 

 精神と時代、もしくは自意識と社会。この関連を堅苦しく遠回しな言い方で述べる必要はない。たんにそれぞれが社会や時代に対して抱き感じる疎外感や安心感、「流行に乗っている」ような感覚、他人やある出来事に対して賛否両論が自分のなかに渦巻くような気分、これらを思い起こしてもらえればよい。

 これでも分かりにくいなら、よし、言い換えよう。世間に対する自分の気持ち、とでも言えばいいだろうか。気持ち、それは厭世感、隔世感、そうした言葉で表せるかもしれないし、もしくは反対に心地よい同調や共感の気持ちかもしれない。僕の場合は前者の気持ちになることが多い。それは若いからだろうか。僕は知らない。

 ともかく、世-間にしても人-間にしても、それか「世間的人間」とでも言おうか、この「間」を鋭く切り取る文章に僕は惹かれるのである。世間と人間との心理的な共空間・共時間の、その様相や物語を、どのように作家が描いてみせるのかが僕の読書人としての視点である。

 

 そして今回の読書感想文は、この「間」というキーワードを基軸に書いてみようと思う。このキーワードは上記に挙げた4冊のどれにも適用できると思う。『地下室の手記』は、地下室に引き籠る男の個人的な信条と理性万能の世界。『素粒子』は、ある男とその関係者をめぐる性とフランス社会。そして『舗石の思想』は、作者自身の空虚な自己像と戦後の日本社会。最後に『河童』は、とある精神病者が妄想を独白するところから始まる河童の世界、しかしそれは人間文明に対する痛烈な批判でもある。

 

 さて、序文で2000字近くなってしまったが、まぁこんなものを読む人は相当な暇人に違いない。僕は暇人に遠慮はしない。僕も暇人だから知っているが、この有り余る時間の使い方ぐらい読者はよくわかっているはずである。

 便利で有益な情報だけを効率よくインプットしたいヤツらは、ここに辿り着く前にうんざりしてブラウザを閉じているはずであろう。彼らは目を血走らせながら「役に立つ」ような情報でもかき集めていればよいのだ。

 そして、今この部分を読んでいる読者はきっと「暇の愉しみ方」を知っていると思うからこそ、僕は本編へと書き続けるのである。

 

ドストエフスキー地下室の手記

 ドストエフスキーとはどんな人であるとか、作品に関してどんな研究がなされているだとか、そういったことには言及しない。あくまで僕がこの本を手に取った個人的な理由だけに留めておく。

 ここ最近の僕の読書は、実は父親の影響に因るところが大きい。僕はフランス文学が一応は中心だが、父の場合はロシア文学だったそうだ。そして学生時代にはドストエフスキー作品にかなり傾倒した時期があったらしい。それがドストエフスキーを読もうと思った理由である。

 しかしなぜ『地下室の手記』だったかというと、これまた大した理由ではないのだが、単純に分量が多過ぎず、ブックオフで250円だったからだ。僕は基本的に中古本でしか本を買わない。新刊や新品などを買える金がない。

 本を選ぶとき、僕はあまり躊躇しない。とんでもない長編や、まったくの専門外(例えば自然科学系とか)でない限り、面白そうだと思ったら買ってしまう。これが積読本を増やす原因でもあるわけだが、しかし古典にも抵抗が無くなったおかげで幅広く読書ができるようになったと思う。

 

 話を『地下室の手記』に戻そう。

 この本の内容を僕なりに紹介するなら、あらすじは次のような話になる。前半は「地下室」で貧しくて偏屈な男が自分の空想や信条をひたすら雄弁に独白し続ける。後半ではその男が外に出て学生時代の知り合いたち(しかし仲は良くない)と一緒に食事をするのだが、まったく相手にされず、バカにされもする。そしてなりゆきで娼館に行くことになり、そこで一人の哀れな娼婦に対して自分の人間観や倫理観を半ば説教のようにべらべらと喋ってしまう。最終的にはその娼婦に自分の貧相な生活を見られてしまい、沈鬱な悲劇のうちに「手記」は終わる。

 この本は作中でも「小説ならヒーローが必要だが、ここにはアンチ・ヒーローの全特徴がことさら寄せ集めてあるようじゃないか」と書いてあるように、ひどくカッコ悪い、悪役にすらなれない男の話である。だから「アンチ・ヒーロー」なのであって、ヒールではない。悪役は、それはそれで強い存在として描かれることが常だと思う。しかしこの地下室の男はハッキリ言って「口だけの雑魚」である。

 「口だけの雑魚」な男が、空想の中だけの雄弁さと、実存的な生活における貧弱さとの、その間で自意識を肥大させていき、どんどんと心が捻じれていく様子に、僕は強く共感を覚えた。なぜ1864年から現在に至るまで広く長く読み継がれてきたのか、それは確かに文学史的に重要な意味を持つからなのかもしれないが、一般読者にとってはそんなことよりも、この僕の自意識を介した共感の方が根拠としては強いのではないだろうかと思う。

 しかしこれは単なる惨めな男の話に留まらない。僕が最も共感し感激したのは次の諸部分である。少々長いが、引用する。

 

「だいたいが諸君は、ぼくの知るかぎり、人間の利益の賃借表を作るのに、統計表や経済学の公式から平均値をとってきたのではなかったか。諸君のいう利益とやらは、要するに、幸福とか、富とか、自由とか、平穏とか、まあ、そういったたぐいのもので」p34

 

「(上記に反して、人間は、)理性にも、名誉にも、平和にも、幸福にも ――― 一口でいえば、これらの美にして有益なるものすべてに逆らっても、なおかつ自分にとってもっとも貴重な、この本源的な、有利な利益を手に入れようとするのではないだろうか。(中略)大事なことは、この利益の注目すべき点が、これまでのあらゆる分類表(=幸福に関する諸々)をぶちこわし、人類の幸福のために人類愛の唱道者たちが作りあげた全システムをつねに叩きこわすものであることだ」p35-36

 

「にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときがきて、そうなれば古い悪癖(=野蛮さ)のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる」p38

 

「どうです、諸君、この理性万能の世界をひと思いに蹴とばして、粉微塵にしてしまったら。なに、それも目的があってのことじゃない。とにかくこの対数表とやらをおっぽりだして、もう一度、ぼくらのおろかな意志どおりの生き方をしてみたいんですよ!」p40

 

「もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ」p42-43

 

「ところで人間が、そんな突拍子もない夢想やら、あさましいばかりの愚劣さに必死でとりすがるのも、ただただ、人間がいまだに人間であって、ピアノの鍵盤ではないことを、自分で自分に納得させたい(まるでそれが絶対不可欠事ででもあるように)、そのためだけにほかならないのだ」p48

 

 引用は以上である。これを読んでどう思っただろうか。不快に感じただろうか、それとも嫌気が差しただろうか。しかし僕は嬉しかった。なぜなら、自分と同じ感情を持っている人間に、これを読んで初めて出会えたからだ。

 これらの引用を僕なりに解釈するならば、ここで今回のキーワードである「間」を使うわけだが、理性万能の世界と自意識との間に厭世感が生じているのである。この厭世感は屈折しているように見えるかもしれないが、約150年を経た今となっては、深刻な切実さを帯びつつあると思う。

 アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」を観た人は、p42-43の引用がまさにサイコパスの世界観そのままだということに気付いたかもしれない。しかしこれは現実にも起きつつあることで、例えばAmazonが検索履歴から自動的に推察して「あなたにお勧めの書籍」をメールしたり、Gunosy が自分の興味に合わせてニューストピックを選別してくれたり、就活生がウェブ上で職業診断テストを自ら進んで受けていたりする。そして様々なメディアに表れるCMや広告、消費欲求を喚起させることを意図したコンテンツなどは、それを見た個人が合理的な判断の下に商品を欲求するように作られている。

 『地下室の手記』では書かれた時代を考えれば、近代的な自然科学と啓蒙主義が隆盛した世界を意識して、それに自由意志や欲望を対置したのだろう。他方、現代はどうかというと、地下室の男が擁護したかった個人の自由意志や欲望自体が、既に合理的な、高度消費社会の資本主義経済にとって合理的な姿へと変容した状態であると言える。つまり人間の全ての欲望と行為が、もっとラディカルなことを言うならば「人間自身」が、「それいくらで売れるの?買えるの?」という目的にのみ収斂していくわけだ。

 結局のところ、地下室の男は「人間の不合理さ」を強く主張したのだと僕は思っている。この不合理な欲求、たとえ自分が社会一般的には不利と思われる選択をすることへの欲望、その自由を声高に叫ぶ姿に(しかしそれは他人からすれば惨めに映る)、僕は共感を超えて感動すらした。

 

 とりあえず、第一回目のドストエフスキー地下室の手記』はここまでにしようと思う。第二回目はミシェル・ウエルベック素粒子』の予定だ。