2190日間の混乱

 ・内部の怒号

 この六年間はいったい何だったのか! そのように問う怒号が自分の内部から響いてきたとき、僕は、来るものがついに来てしまったと思った。そして、はじめはその声に対して耳をふさごうとした。なぜかというと、僕にも分からないからだ。困惑していた。しかし、その問いかけは僕の頭蓋骨を内側から叩き割るほどに反響して鳴り止まなかった。

 だから、その問いに答えなければならない。とはいえ、今から振り返ってみると、自分にとっても不可解なこの六年間の自分は、ツギハギだらけの滑稽な姿をしているので、本当はそんなものは檻のなかにぶち込んでおくのが一番よいことのように思えた。あるいは、楽しかった思い出話だけをつらつらと書くことでこいつをなだめることができるならば、いったいどれほどラクだろうか。しかし、こいつは僕自身であり、しかも今の僕に置いていかれた僕自身であった。今の僕によって踏み台にされ、ぎゅうぎゅうと押し固められ、折り重なったまま放置されたこいつが先ほどの問いを叫んだに違いない。

 この六年間は何だったのかという問いは、今の僕にとって「俺は誰なのか」という問いとほとんど同じ意味だ。もちろんそれは僕がまだ大学を卒業したところだからというのもある。しかし、それよりも知人や友人が言うように、僕が大学生活のあいだで「極端に変わった」ということにその主な理由はある。言いかえれば、高校時代までと大学入学以降のあいだに深い断層があるのだ。そして、大学入学から今にいたるまでにも色や性質の違った地層がいくつもあって、今の僕はその表面にあたる。そして、それらを一言でくくれるような言葉は見当たらない。

 しかし、だからといってそれを語ることを放棄することはできない。僕にとっては避けて通ることができない問いなのだ。今もまだ頭蓋骨の裏側から声がする。俺は誰なのか、俺は誰なのか、と。他方で、若者に特有の「何者かになりたい」という欲求がそういう声を発するのだと、そのように「大人」に慣れた人たちは言うかもしれない。けれども、僕は「何者」ということの答えをすでに出している。それは自称する名ではなく他称される名であって、自分に何者かであることを名乗る権利などない。そもそも「俺は誰なのか」という問いは、「何者かになりたい」という欲求とは別のところに発生するものだ。

 ともかく、この六年間を語り始めなければならない。出口の後で、入口を前にして、戸惑いながら立っている今の僕にしか語れない言葉があると信じて。

 

・屈折のはじまり 

 卒業論文を書き終えてから三か月が経つ。僕が書いた約13万字の論文は、およそ学術論文とは言いがたいものではあったものの、ともかく一生懸命な文章だった。その結果、教授から推薦をいただいて、1月の末に学部の卒論報告会で論文の発表をさせてもらった。そのスピーチは担当教授からすれば「たいしたもの」だったらしい。

 それは素直に嬉しかった。しかし、このとき僕はすでに停滞のど真ん中にいて、早く次に進まなければならないという焦りと何もやる気になれないという無気力な気分の両方から引っ張られていた。それというのも、この三年間ずっと続けてきた読書、そして文章を書くこと、この二つが卒論を終えたところでピタッと止まってしまったからだった。意欲が湧かず、集中力が保てず、苛立ちだけがジリジリとこめかみのあたりを刺激した。どうにかしたい、どうにかしたい、そう思っていたとき、ふとこんな問いが頭をよぎった。

「そもそもなぜ自分は本なんか読んでいるのだろう」

 そう、思考の出発点からしておかしいのだ。本が読めないことにとまどい、文章が書けないことに焦り、原因を突き止めようとして色々と考えている。そのことからしてどこか奇妙な感じがした。そもそも僕は「文化」や「教養」と名がつくものにはほとんど無縁の人間ではなかったか。これはべつに誇張した謙遜ではない。なにせ僕は小学1年生から4年生までは剣道、小学5年生から高校3年生まではサッカーと、ひたすら運動ばかりしてきたのだから。つまり、人格形成のおおかたを「体育会系」としてすごしてきた僕が、今ではこのような問題を抱えているということは、明らかに大学以降の変化がこの問題に深く関係しているに違いない。だからこの状態をたとえてみれば、自分を人間だと勘違いした野良猫が魚の骨をていねいに取り除こうとして、人間の使う箸を手の内で持て余しているような、そういう奇妙な様子だ。

 この「奇妙な様子」は、大学六年間の自分を振り返ってみると、そのどの時点にも見出すことができる。そこには自分の行動や思考によってそれまでの自分自身を否定しようとする姿があった。誤解を恐れずに言えば、高校生までの僕はもっと素直でわかりやすい人間だったと思うし、その人格を保ったまま成長することだってできたはずだった。少なくとも、これから書くようなめんどくさいことを考える人間になるなんてことは、大学に入学する前の自分には想像もできなかった。とりあえずのところ、このことを「生の混乱」と呼んでみよう。そして、この生の混乱の正体をつきとめることができれば「俺は誰なのか」という問いにも答えられるはずだ。

 まず生の混乱はいつから始まったのか。それは明確に言うことができる。サッカー部の引退と失恋がほぼ同時に重なった高校三年の夏。あの時点が決定的な切断線であったことは間違いない。あのとき「自分らしさ」というイメージを支えていた地盤そのものに亀裂が生じた。さらに言えば、「自分はこうなっていくだろう」というひとつの未来へのコースが突然に断線したというわけだ。そうして、ありあまった過剰なエネルギーは行き場を失って、それが行動として奇妙な逸脱に結びついた。

 その最初の行動は大学受験だった。それを「逸脱」と呼ぶことは、社会学的に言って正しくない。むしろそれは社会のルールに則った行動だ。しかし、僕にとっての「受験」は、自分のまわりで決まっているルールとそこからの逸脱、あるいは正誤の両極が真逆に転倒した最初のできごとだった。僕の高校の雰囲気は、いわゆる「受験戦争」からはほど遠く、本気で受験勉強をする人はごく少数だった。それに僕自身も進級を危ぶまれるぐらいには勉強が苦手だった。しかしだからこそ、あのころの僕は、いや「僕たち」は、フザケ半分で「受験ゲーム」を始めたのではなかったか。つまり、予備校や高校の教師や受験システムを嘲笑しながらも「あえて勉強する」というアイロニカルな態度こそが、当時の僕たちのスタイルだったのではないだろうか。それは、ある意味では「自由でありたい」という心情の屈折した表現であったかもしれない。とはいえ、口では色々なことを言いながらも勉強それ自体は真剣にやっていたと思う。

 受験ゲームをそれなりの戦果で終えた僕たちは、それぞれの大学に進学した。そして、僕たちのほとんどが入学の時点であることに気づいた。とても自由度が高かった高校時代に比べて、大学はどれほどヌルい場所であるか。酒を飲んで騒ぐことで得意げになっている大学生たちは、たんにつまらないものとしか当時の僕の目には映らなかった。それにくわえて、スタンダールやゾラやバルザックプルーストボードレールマラルメアポリネールといった、基本的な人物名を誰ひとりとして知らなかった僕にとって、それらを知っている人文学部の同級生たちはあまりにも無縁な存在に思えた。僕に居場所はなかった。

 だから、そのころ僕たちのあいだでは「大学やめるわ」が流行りの口癖だった。そして実際に一人は入学早々に退学した。みんながたいして変わらない大学生活を送っているなかで逆張りをするにはそれぐらいしか道がなかった。けれど、僕を含めたほかの数人はそうすることができず、焦燥感と倦怠感がつのるばかりだった。退学のせいで家を勘当された友達が住んでいるボロアパートの一室で、安いウイスキーをコーラで割って飲み、そして煙草のケムリがせまい部屋に充満した。退廃という言葉を当時の僕は知らなかったが、当時の僕たちの間に漂っていたのは退廃の空気だった。

 

・旅という混乱

 僕たちのほとんどは、大学には居場所がなく、そしてボロアパートの一室で白くよどんだ空気を吸っていた。「最近なにしてんの?」「え、息してる」というのが挨拶代りなっていたぐらい、僕たちは途方に暮れていた。

 しかし、そんな状態を抜け出す方法があった。旅だ。その先陣を切ったのは僕だったか、それとも仲間の一人であるKだったか。いずれにせよ、大学一年の夏、僕は香港・マカオ、Kはインドと、それぞれが一人旅をした。Kはデリーで10万円のぼったくりツアーに見事ひっかかった。僕はマカオでギャンブルをして一時はあり金のほとんどを失い、全身に冷や汗をかいた。けれど、僕とKが「旅という自由への抜け道」を発見したことはたしかだった。

 一年生の後期が始まったとき、僕は大学に通うのをやめて学習塾とガソリンスタンドでアルバイトのかけ持ちを始めていた。というのも、僕とKは「退学」ではなく「休学」という方法を発見していたからだった。実はこのとき初めて読書らしい読書をしたのだが、それが沢木耕太郎の『深夜特急』だった。この小説に描かれているような旅をしたくなった。だが読書それ自体に熱中することはなかった。ともあれ、この時点ですでに自由への行動は「アイロニカルな受験」から「逸脱的な休学へ」という形で、二つ目の屈折へと折り返し始めていた。

 ところで、僕の場合は受験と休学のあいだにひとつの挿話が要る。3・11の震災だ。そして偶然ではあるが僕の誕生日は3月11日で、あれは高校の卒業式の2日前だったと思う。僕は震災が起きてから2週間後ぐらいに、母親の知り合いのツテを頼って被災地の仙台に行った。のちに再訪したことも含め、そのことについてはすでに「記憶の跡地への旅 - 或る蛮人の書誌」で書いた。

 被災地という壊滅した場所にはむなしい無の風景がひろがっていた。他方で、香港・マカオには猥雑な生の光が街のネオンとともに明滅していた。つまり、僕は背中合わせになった世界の両極をたった半年のあいだに経験したことになる。このことは、きれいでのっぺりとした東京の郊外しか知らなかった当時の僕にとって「大事件」であり、それは「自明性の解体」を意味した。言いかえれば、自分の「当たり前」がガラガラと音を立てて崩れていく経験だった。たった一撃の偶然で自分たちの人生というまぼろしは簡単にブチこわされてしまうのだという理不尽な真理を喉元に突きつけられ、そしてまた、それでも人びとは何かを欲望しながら世界中で蠢いているという狂気じみた現実を脳みそに叩き込まれ、僕はすっかり「自分の日常」を失くしてしまった。

 こうして2011年の3月から8月までの約半年のあいだに、僕は自分の生の混乱を一気に膨らませてしまった。それまではサッカーと恋愛のことしか頭になかった18歳の青年にとって、この混乱を処理することは不可能だった。

 ここでひとつの疑念が生まれる。それはつまり、僕は自分の混乱と世界の混沌を地続きにしてしまったのではないか、ということだ。安定した自分の世界像が壊れてしまったからには、それを再び作り直さなければならないが、その方法として僕は「旅」を選んでしまった。しかし結果から言えば、旅は「自分の世界を作り直すこと」には向かない方法だった。

 ともかく香港・マカオから半年後、僕は大学二年次を休学して世界一周の旅をすることになるわけだが、それから今にいたるまで「放浪癖」のようなものが身についてしまった。つまり、世界中から「風景の収集」をすることで、自分の世界を作り直そうとしたのだ。そして、その延長線上にあらゆる学問からの「知識の収集」として読書があった。しかし、これらは原理的に言って不可能な試みだった。まず世界のすべての風景を見ることはできないし、世界のすべての知識を知ることもまたできるわけがなかった。

 世界には色々なものがある。当たり前だ。そして、その「色々」をどれだけ集めてみても、安定した自分の世界を取り戻せることにはならない。むしろ自分のなかに異質なものがたまっていくだけだった。しかも旅や読書で得てきたたくさんの異質なものを自分のものとして血肉化するには、僕の知性はあまりにも貧弱で未発達だった。たとえてみれば、それは小鍋のなかに冷蔵庫いっぱいの材料を突っ込んで料理しようとするようなもので、要するに僕は自分の混乱をさらに混乱させる方向で行動してしまったのだ。

 ともあれ、独学としての旅/旅としての独学(本当の近況 旅としての独学 - 或る蛮人の書誌)という、この二つの行動は僕にとって生の混乱を収束させるための方法だった(しかしこの方法は混乱をむしろ拡大させた)。香港・マカオから1年間の世界一周、そしていくつかの小旅行。それから読書という抽象的な旅が三年間。この日々を合算すると1516日間になる。六年間はだいたい2190日間だ。だから、僕はその約七割を二つの旅ですごしたことになる。大学生活の七割が旅的な日々ということは、日常の七割が非日常ということだが、しかしこれはおかしな話だとわかる。そう、この六年のあいだで徐々に日常と非日常が転倒していったのだ。僕にとって日常は非日常的であり、非日常こそが日常的であった。すなわち、旅によって生の混乱は拡大し、そうして時間の性質さえもがいつのまにか混乱してしまっていた。

 

・執拗低音としての劣等感

 生の混乱によって自分の日常と非日常がひっくり返ってしまうということ。それをオセロにたとえてみれば、今の今まで盤面を埋めていた白がみるみるうちに黒へと変わっていくような様子だ。しかし何の仕掛けもなく白が黒になるはずがない。白い石の外側にひとつ、またひとつと、黒の布石が打たれていたのではないか。それも「生の混乱」以前、はるかに昔から、ゲームが始まった直後から、僕自身に気づかれないように素知らぬ顔で黒い石をひとつずつこっそりと置いていった犯人がいる。

 その犯人は誰か。そいつが落とす影はずっと遠くまで伸びている。思い出して、さかのぼって、その影の持ち主の足元に辿りつくまで追いかけてみると、そこには子どものころの自分がいた。部屋の隅にしゃがみこんで、すねた態度で泣いていた自分だ。そうだ、僕はよくすねて泣く子どもだった。その理由はもう覚えていない、ということにしておく。ただ、悔しさと悲しさと怒りで熱くなった全身を震わせていたことだけははっきり覚えている。

 あの微弱な震えが、過去の影をつたって今の自分にまで届いていたのかもしれない。では、子どものときの自分は何を感じていたのか。羞恥心、情けなさ、そして何よりも強烈な劣等感だ。あの劣等感が「生の執拗低音」となって、つまり成長という複雑なリズムの底で基調を成して、この六年間の「自己否定」や「生の混乱」どころか、それ以前のことまでも準備していたとしたらどうだろうか。困ったことに、すべてのことに辻褄が合ってしまう。

 身体能力にも才能にも恵まれなかったのに、なぜ8年間もサッカーをがむしゃらに続けたのか。たった半年の期間ではどう考えても無茶だったのに、なぜ早稲田大学を目指して受験勉強をしたのか。英語なんてまるでできないうえに人一倍気が弱いのに、なぜ世界をひとりで旅したのか。技術も経験もないくせに、なぜウェブメディアの立ち上げに関わったのか。いつもフラれることが分かっていたのに、なぜ一人の女の子を10年間も好きでいつづけたのか。頭も良くなければ教養の素地もないのに、なぜ本を読んだり文章を書いたりしているのか、ましてやなぜ出版社なんかに勤めているのか。

 全部わかっている。おまえ、みっともないほどに弱い自分が嫌いだったんだろう。どうしようもなく情けない自分のことが大嫌いだったんだろう。そして、そんな自分を跡形もなく消してやりたかったんだろう。僕は知っている。おまえが自分の行動に対してどれだけ前向きな動機を口にしたとしても、その裏側ではつねに劣等感という執拗低音が鳴っていたことを。

 そうして「行動力」とかいう実体のない何かを他人から褒められ、おめでたくも有頂天になっていたときの僕は、この音の存在をすっかり忘れていたのだ。成長という名の自己否定、その伴奏はつねに劣等感だった。ならば、アカペラで歌えるだろうか。しかし、今の僕の焦りや無気力は、無伴奏の不気味な沈黙によるものではないのか。劣等感なしでは肯定しうる自分を見出せないからではないのか。

 高校三年の夏が決定的な臨界点となって、執拗低音の劣等感が僕の生のリズムそのものになってしまったのだとしたら、この六年間における過剰な行動や激しい変化にも納得がいく。おまえは弱い自分をどこまでも嫌うことによって、あらゆる障害を蹴り飛ばして前へ前へと自分を駆り立てることができた。それが僕の混乱の真実だ。

 

・救済としての日常

 しかし、そのように言い切っていいものだろうか。劣等感が僕の核心であったと言って、安直に「暗い裏側」を暴露してみせれば、それですべてが済んだことになるのだろうか。もちろんそうはならない。人生がそんなに簡単であるはずはない。そもそも良かれ悪かれ簡単に生きることができていたら、こんなに饒舌になる必要があるだろうか。

 僕の大学生活は、七割が非日常で、残りの三割が日常だった。実はこの三割の日常は絶対に無視できないほど重要だった。ここで言う「日常」とは、大学のキャンパス内で普通に授業を受けて友達と遊ぶという意味である。なぜこの日常が重要なのか。それについてはあとで書くことにしよう。

 はじめの方で「僕に居場所はなかった」と書いた。そして大学内に居場所がなかったからこそ、僕は旅に活路を見出したはずだった。しかし、世界一周から帰国すれば自分を待っているのはまた大学だ。

 旅の途上のイスタンブールで、僕はその憂鬱をとある学生バックパッカーに話した。彼は僕よりも一歳上で「話の分かる先輩」だった。そして、彼は僕を諭すように言った。周りの環境に自分から働きかけることで楽しく生きることもできるんだぞ、と。これはたぶん誰にでも言えることだろう。だけど、当時の僕にとってはそれを誰が言うのかが大事だった。まず彼は大学や大学生のつまらなさをよく知っていたし、なにより僕と同じ学生バックパッカーであった。しかし、僕と彼が決定的に違っていたのは、僕が学内では何もせずただつまらないと不満をたれていただけなのに対して、彼の方は大学がつまらないからこそ自分で学内を盛り上げる活動をやっていたということだ。

 帰国してから僕は彼が言ったことを実行に移した。まず大学で友達をつくろうと思った。それから学内で何かしようと思った。自分に興味を持ってくれる人に会って、企画をあれこれ考えて、そして有志をつのって学祭でカフェを出店することになった。はじめは二人で始めたこの企画も、友達がさらにまた別の友達を誘ってという形で、最終的には当日のみの参加を含めて8人のメンバーが集まった。夏休みあたりから本格的に準備を始めて、メンバーのOが住むマンションの一室で色々な作業をする日々が11月まで続いた。

 祭りは、準備をしているときが実は一番面白かったりする。そして、その慌ただしい日々の最中で、メンバーのそれぞれに生の転形期とでも呼べるようなドラマがあった。というのも、あの大学三年の夏から秋にかけては、それぞれが何らかの葛藤や迷いや不安を抱えていたのだ。青年に特有の困難。右手のペンで紙に何かを書きながらも左手でそれを次々と破り捨ててしまうような、もしくは、四本の手足をバラバラに動かして四つ同時に別のことをしようとするような、あるいは、眼をとじて耳に栓をして鼻をつまんでも重力だけはどうにもならなくて宇宙にでも逃げ出したいような、そういう日々でもあった。

 このことについてここで詳しく書く余裕はない。ただ僕に関してひとつだけ書くとすれば、それは、学祭の準備の日々を通して、大学や大学生に対する偏見を捨てて心から大事だと思える友達ができたということだ。高校まで友達に困ったことがなかった僕は、このときはじめてその「ありがたさ」を噛みしめた。これは退屈な三文芝居のように思えるかもしれない。しかし、この「ありがたさ」は、先ほど書いた「日常」に深く関わっているのだ。

 このころ僕はすでに転倒した時間感覚のなかで生きていた。読書も本格的に始めていた。それにゆえに、いつの間にか混乱のど真ん中に立たされている感じがどんどん強くなっていき、混沌とした世界と宇宙のように広がる知識とに囲まれて、夜中には謎の発熱に襲われるようになった。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜと、その疑問符を世界と自分に対して叩きつけているうちに朝が来てしまう夜も少なくなかった。何もかもが分からなくて不安になった。

 身体の着地点、すなわち居場所というものが、どれだけ心に強く影響するのかということを僕はこのとき実感した。家の自室と大学の教室とファミレスの片隅、三角形になったそのレールをぐるぐると周るだけの日々はルーティンであるのにもかかわらず、落ち着いた気がしなくて、そのどれもが居場所にはなりえなかった。このときの僕の感覚というのは、地面から足の裏が3センチほど浮き上がり、眼は自分の内面に陥没したような感じで、両手は何かをつかめるような気がまるでしなかった。だからどうしても当時の僕にとって「人の世界」は遠く、ひとりきりでいる気がした。でも、学祭のメンバーと一緒にいるときだけはなぜか安心できたし、その証拠にOの家に泊まる日だけは熟睡することができた。

 Oをはじめとした学祭のメンバーは、その後の僕がどんどん内向的になっていっても近くにいてくれて、色々なことを言ってくれた。たとえば、どこかに遊びに行こうとか、お昼ごはんを一緒に食べようとか、ちゃんと授業に出ろとか、ヒゲを剃れとか、新しい服を買えとか、運動でもしてみろとかいうようなことを。もしあのとき彼ら彼女らがいなかったとしたら、僕はたぶん大学をやめていただろうし、その後の人生もロクなことにはならなかったと思う。生の混乱のど真ん中で、何をどうしたらいいのかも分からず、渦巻く世界の動きに目をまわし、文字の洪水で溺れかかっていた僕に、彼ら彼女らは「ここだけは確かだ」と思える場所を与えてくれた。友達とともに過ごす日々のことを世間では「日常」と呼ぶらしいけれども、僕にとってそれは「救済」にほかならなかった。

 

・就活から卒論へ

 2013年11月の学祭を終えてから2016年12月の卒論提出にいたるまで、約3年のあいだ僕はずっと抽象的な旅をしていた。あるいは生活なき生存の日々と言ってもいい。身体をファミレスか友達のところに預けて、頭だけは再び旅をはじめた。つまり、読書と書き物以外のことはほとんど何もしなくなったのである。いや実際には授業に出たりもしていたが、今ではほぼ何も覚えていない。

 ファミレスの片隅で完結するこの生存に必要なものは、おかわり自由のコーヒー、煙草、文庫本、ノートパソコン、それから小銭が300~500円ぐらい。一日の5~10時間をファミレスで過ごし、あとは家に帰って寝るだけの簡単な日々をつづけていると、しだいに身の回りの色々なものごとがどうでもよくなってきた。まず髪や髭や服装や靴に気を使わなくなった。そして大学の友達をのぞくほとんどの人間関係から遠のいた。生活リズムもひどく狂った。深夜から午前中まで本を読み、昼前に寝て夕方に起きるようになった。バイトもほぼしなかった。たんなる親のスネかじりだった。そのくせにマルクスなんか読んで得意気になっていたのだから、何も分かっちゃいないことは言うまでもない。

 ともあれ、世界一周の旅に出たときと同じように、読書の旅もまったくの一人で始めた。つまり、動機は自分のなかにしかありえず、その動機はやはり「生の混乱」にあった。自分の自己像と世界像が同時に破綻してバラバラになってしまっていたために、このとき問題となったのは「認識」についてだった。人間、世界、政治、経済、社会、歴史、文学、あらゆる対象についての色々な捉え方を知ろうとした。それでとうてい分かりもしない本を片っ端から読んでいったのだった。

 カントからアーレントへ、他方でヘーゲルからコジェーヴ。さらにマルクスからアンリ・ルフェーヴルへ、そこからボードリヤールとデイヴィッド・ライアン、この流れは卒論の主線になった。日本の知識人で言えば、丸山真男から小田実埴谷雄高から谷川雁、そして津村喬平岡正明、ここまでの流れも卒論のなかで重要なキーパーソンだった。それでスガ秀実から花田清輝に戻る。他方で小林秀雄から秋山駿、磯田光一から小林信彦橋川文三から松本健一など、いわゆる「保守派」もその文章の巧みさに惹かれて好きになった。

 とはいえ、人というのは手段を目的化してしまうことが多々ある。僕もそうだった。分からないことを考えるために本を読んでいたのに、いつの間にか本を読むこと自体が楽しくなってしまい、それにのめりこんでいった。結局のところ、いざ卒論の準備をしようとなったとき、自分の問題意識がどこにあったのかすらよくわからなくなってしまっていた。というよりも、世界のすべてが問題に思えてきて、何から考えたいのかを考える自分自身がその問題群のなかに埋没してしまっていた。つまり、旅とおなじく読書によって自分の混乱をさらに混乱させてしまったのだ。

 その混乱が不眠や吐き気や憂鬱という形で心身に表れていた2016年5月。何度目かの失恋と公務員試験の放棄を経て宙ぶらりんになっていた僕は、ただの趣味でしかなかったことを仕事にするために、いや正直に言えば、身の振り方に窮したために、ほとんどヤケっぱちで出版業界を目指して就職活動を始めた。と言っても、求人サイトはほぼ見なかったし、新卒がやるような一般的な就活ではなかった。まずウィキペディアで「出版社」を検索し、そこから自分の関心に合いそうな出版社のHPを見ていき、求人募集がかかっているか調べた。それで三つの出版社をリストアップして、最初に普通の履歴書と課題作文を書き、そして3000字ぐらいの志望動機をつづり、さらにダメ押しで自分のブログ記事を何枚か印刷して同封した。

 これでどこにも引っかからなければ、もうそのあとのことは何も考えていなかった。そして、自分の一挙一動があれほど不安でおっくうに感じたのは初めてだった。だから、自分でひそかに「ゲリラ的就活」と呼んでいたそれは、その言葉に反してまったく軽快ではなく、脂汗をたらたらと流してやっと一歩踏み出すというようなものであった。

 このとき身にしみて感じたのは「ひとりであることの弱さ」だった。世界一周の旅は、どんな状況でも自分は一人でなんとかできるという「無根拠な自信」を僕に与えたが、それがどれだけひどい勘違いであるかを思い知った。ほとんどの旅はどこまでいっても個人の消費でしかなく、生産の場で働く場合その自信は妄想にすぎなかった。仕事において、僕はひとりでは何も生み出すことができず、まだ技術も経験もない、ただの学生でしかない。そのことを痛いほどに自覚したとき、やっと「はじめの一歩」を踏み出すことができた。そして、その一歩目は運良く「その先」に続くものとなった。この当時のことは(複線的な文脈の終わり - 或る蛮人の書誌)で書いている。

 ともあれ、就活が約3週間という短期間で終わってくれたおかげで卒論の方に集中できるようになった。このとき、頭のなかを占めていたのは「日常生活」についてであり、そこにおける「消費」だった。そして、この二つを立体的に捉える舞台として「郊外」という空間があった。さらに卒論を執筆していく過程で、この都市空間がきわめて近代的かつ資本主義的な環境であることを知り、それで「旅」という観点から「日常生活」と「グローバリズム」を接続して、都市を媒介とした「世界空間」の全体性を見出そうとした。そして、そこでいかに人びとが分断=疎外されずに生きていくことができるかを模索した。

 というのは、表向きの建前だ。『社会空間の思想史――近代としての郊外――』と題した、この卒論の本当のタイトルは、身も蓋もない露骨な言い方をすれば『ひとりになってしまった僕が、ふたたび誰かとともに生きていくための方法』である。もっと言えば、23歳の時点での僕の人生論だ。こういう試みが浅はかであることも、学術的に見てそれが無価値であることも、はじめから百も承知だった。

 しかし、僕にとって卒論は、23年間の総決算であると同時に未来の自分に向けての手紙であり、新たな原点であるべきだと思っていた。そして「生の混乱」と「世界の混沌」とが重なり合ってしまった自分の状態を、この卒論に色濃く反映させて、それをひとつの思想という形にまで昇華したかった。

 だから、自信がなくてもやるしかなかった。執筆には約半年かかった。参考文献は50冊をこえ、そのほかにアニメや歌謡曲日本語ラップも引用した。総文字数は約13万字。まったくまとまりがなく論理も穴だらけの文章になってしまったが、それでも現時点の自分の全力投球であることだけは胸を張れる。だから僕は今やっと自分と世界を取り戻しつつあると感じているのだ。(卒論について - 或る蛮人の書誌

 それで、僕の卒論に対する客観的な評価はどうだったのか。すでに書いたように、卒論報告会でこの論文を発表させてもらった。それからこの文章を書いている途中で人文学部の優秀卒業論文賞に受賞が決まったとの通知が来た。今その受賞をどう受け止めるべきか考えているが、おそらくは「これからも頑張りましょう」ということだろう。僕は大学院には進まないが、在野で文章を書いていくことは決めているので、これを励みにしたいと思う。

 

2190日間の混乱、その正体

 しかし「めでたしめでたし」で終わらせることはできない。もう一度はじめの問題に立ち戻ろう。この六年間は何だったのか。そして、僕は誰なのか。ひとつずつ考えていこう。

 この六年間の大学生活は「自己解体の日々」であったと、とりあえずのところで言うことができる。つまり、高校三年生の夏を始点に、劣等感をエンジンにして、震災と旅と読書と恋愛を通過しながら自分の自己像と世界像をバラバラにしていくような日々だった。けれども他方で、学祭をはじめとした日常や卒論の執筆を通して、その解体された自己像や世界像を再構築しようとする日々でもあった。

 だから、解体と構築、あるいは分裂と統合、もしくは切断と接続、そうした二つの力が対立する磁場の中心に自分を置いた、この混乱の2190日間は、それ以前とは比べものにならないほどの「自分自身との闘争の日々」であったと言うことができるだろう。

 その内的な闘争の結果として今の僕がいることは確かだ。では、その僕はどのような人間だろうか。それはもしかしたら内的な闘争をむしろ生きることの原理にしてしまった人間なのかもしれない。すなわち、実体としての自分はより混乱する方向で動いていきながら、しかしその自分を思想的に綜合しようとする、そうした矛盾を人生の根底に据えた人間。

  それが今の僕であったとしたら、そうだ、なにも臆することはないだろう。なぜなら、たとえ今の僕が粉微塵に粉砕されたとしても、さらに多くの混乱を巻き込んで何度でも生き返ってやるのだから。