年間100冊読んでみて思ったこと②

・はじめに

 とうとう師走になってしまった。しかし今年もなんとか年間100冊を読むことができた。とはいえ、「100冊読んだ」なんて虚仮脅しに過ぎないと自分でも思う。一週間に大体3~4冊のペースで読んでいれば自然と一年間に90~120冊にはなるのだから、土日の休日に一冊ずつと、平日に学校の行き帰りの電車で一冊読めばそれで100冊ぐらいになってしまうわけだ。つまり100冊という量は別にたいしたことじゃない。

 それに「100冊」の内訳だって、小説が100冊なのか、専門書が100冊なのかでも読書体験として質が違うだろう。もちろんそれは「良い/悪い」の違いではなく、「どんな100冊だったのか」という意味で違うだけである。もう少し具体的に言えば、知的好奇心を満たすための娯楽としての読書なのか、何かを研究するための読書なのかなどいった違いはあるだろうということだ。ちなみに僕の場合は「娯楽としての読書」である。だからこれも別にたいしたことじゃない。テクストを精読したり、読解ノートを作ったり、原文と翻訳を比較したりなど、そんな高等な読書術なんぞ僕はほとんどやったことがない。

 本を読むときの態度なんてのも、学問的で難しい内容ならば「へー、ふーん」とか「なるほど、なるほど」なんて具合にワケ知り顔で肯いておきながら、実のところ本の内容の30%も分かっているか怪しいところだし、小説に至っては僕が仏文の学生だからと言ってバルザックプルーストとかを読んでいるわけでもなく、一貫性も何もないまま手当たり次第に乱読している。しかも大抵は一冊で完結しているものしか読まない。

 というわけで、僕の読書はテキトーで中途半端なものなのだ。ただそうは言っても、日々の読書体験はいつも新鮮で、物語ならば新しい世界を、学問ならば新しい認識や知識を、むさぼり呑み尽くすようにして読んでいくことは本当に幸せである。

 大学五年目も終わりに近づいて、就職先は何も決まっておらず、六年目の卒論すら未だにマトモなことを考えてもいないのにも関わらず、ひたすらに無目的な読書を続けているというのは、おそらく一般にしてみればバカもいい加減にしろといったところだろう。まったくそうである。じつにそのとおりだと思う。

 ただそれでも「しかし・・・」と言いたくなるのが読書中毒者の性だ。これは色々な人が言っていることではあるけれど、文学なんてのはまさに「毒」なわけで、合法なくせに極めて破壊的な麻薬であることは違いないだろうと思う。

 前置きが長くなったが、今年の100冊の中から以下で紹介する何冊かの本は、そんな「毒」をたっぷりと含んだものばかりである。つまり、読んではいけない本ばかりである。(注:ネタバレ的なことはなるべく書かないようにする)

 

 

夏目漱石『それから』 岩波文庫

あらすじ(本書記載):三年まえ友人平岡への義侠心から自らの想いをたち切った代助は、いま愛するひと三千代をわが胸にとりもどそうと決意する。だが、「自然」にはかなっても人の掟にそむくこの愛に生きることは、二人が社会から追い放たれることを意味した。

 

解説:主人公の代助は、今風に言えば「三十路のニート」であり、しかも金持ちの家のボンボンで、高学歴でもある。要するに高等遊民なわけだ。作中の時代は1909年(明治42年)で、実際にこの小説が朝日新聞に連載されていたのも同時期である。作中では、代助が旧友の平岡に向かって当時の世相についての文明批評をしてみせる場面があり、その意見はリアルタイムで読んでいた読者にとってかなり衝撃的な印象をもたらしただろうと思う。そしてまた、代助の暮らしを取り巻く品々や出来事なども具体的に描写されており、当時の生活風俗も覗けるようになっている。

この物語は、代助・平岡・三千代の「遅すぎた」三角関係によって進行する。それに加えて、当時の日本社会では(今も同じかもしれないが)一人前とは認められない「口だけ男」の代助が、自分の過去に培ってきた思想と、将来への大きな転換を予期させる事件との狭間で悩み抜く姿が描かれている。他にも、代助の父親が持つ「富国強兵」や「儒教道徳」の価値観と、西欧から輸入した近代学問を身に着けてニヒリズムに浸っている知識人・代助の価値観とが対立していたりする。つまり、社会的・歴史的な条件によって様々な対立項が出来上がっていく最中で『それから』の物語は展開するのだ。

果たして、代助は三千代と結ばれるのか?

 

感想:なぜこの小説を最初に挙げたかというと、今年読んだ小説の中でもっとも共感した作品だからだ。しかし恋愛の三角関係にではなく、代助自身の実際の状況、あるいは少々子どもじみているとさえ言える厭世感に対してである。

というのも僕は、同年代に対して社会に出遅れていながら、読書の窓から世界を覗いて頭だけであれこれ考えたり、イライラしたり、うんざりしているという有様で、ほとんど代助と変わらぬのである。そういうわけで『それから』は、今の僕にとって痛いぐらいに切実な内容を含んでいる。(とはいえ、僕は別に代助ほど優秀ではない。代助よりよっぽど半端者である)

そんな事情もあって、代助がどのような思考を経て、どんな決断に至るのかを、本当に「手に汗握る」ような思いで読み進めていった。読み終わった時はファミレスに居たのだが、叫びだしたくなるのを必死に噛み殺さなければいけないぐらい、壮絶な終わり方だった。たぶん10年後、20年後、これを初めて読んだときを思い出しながら読み返していると思う。それほど思い入れのある小説だ。

 

 

横光利一『上海』 講談社文芸文庫

あらすじ(本書記載):1925年、中国・上海で起きた反日民族運動を背景に、そこに住み、浮遊し、彷徨する一人の日本人の苦悩を描く。死を想う日々、ダンスホールの踊子や湯女との接触。中国共産党の女性闘士 芳秋蘭との劇的な邂逅と別れ。

視覚・心理両面から作中人物を追う斬新な文体により、不穏な戦争前夜の国際都市上海の深い息づかいを伝える。昭和初期新感覚派文学を代表する、先駆的都会小説。

 

解説:欧米諸国のあらゆる勢力が出店を構えていた「魔都・上海」で、日本の紡績会社の社員である主人公の参木は、このモザイク状の植民地的な国際都市に様々な闘争と駆け引きが渦巻いているのを目にする。それは近代の国際社会における西洋と東洋との激しい軋轢であり、帝国主義的な資本主義と中国人民のマルクス主義とのぶつかり合いでもある。そしてまた参木はそれだけでなく、港で働く苦力(クーリー)や外国人たちを相手にする売春婦に出会い、他方ではダンスホールという社交場を出入りする貿易会社のアメリカ人やイギリス人やドイツ人にも出会う。このように混沌とした魔都・上海で参木は、「自らの身体は日本の領土であるという国権的な思考と、中国の民衆の貧しさに同情する民権的な感情の狭間」(本書解説)で揺れる。

この小説は新感覚派の代表作と言われるが、新感覚とは何かということを横光利一は次のように述べている。新感覚とは「自然の外相を剥奪し、物自体に踊り込む主観の直感的触発物」を小説として表現することらしい。この説明について、本書の解説者であり文学者の菅野昭正は「むずかしい鹿爪らしい用語をあれこれ繰り出してみせるものの、横光利一の<新感覚>とは、要するに、視覚、聴覚など感覚の知覚するがままにしたがって、外界の現実をとらえることにほかならなかった」と評言している。

このことについて少し自分なりの解釈を書いておくと、横光の言う「自然の外相」というのは自然科学が見せる客観的な認識であり、たとえ街の群衆と言えどもバラバラな個人の肉体の集合に過ぎないのであるが、これが「主観の直感」によれば、群衆は「膨張」したり「流れ」たり「割られ」たりするような、一つの流動体になる。つまり、世界を細切れの静止画あるいは点として写実するのではなく、蠢く動画あるいは線としてそのまま連続的に活写するのである。

 

感想:日本文学なんて夏目漱石森鴎外芥川龍之介太宰治の名前ぐらいしか知らなかった僕は、横光利一という作家を名前さえ知らなかった。だからこの小説『上海』もまったく知らなくて、ただブックオフの本棚でこれの背表紙と目が合ったから買ったという程度であった。本の内容も、よく知らない中国の、しかもマルクス主義運動とくる。あまり慣れない政治小説とも思えた。

しかし実際に読んでみると、まず新感覚派の文体によって描かれる上海のエキゾチックな情景へと一瞬で引き込まれる。そして物語の構成と人間関係の配置から来るスリリングな緊張感で読むのを止められなくなった。次は横光利一の『旅愁』を読みたいと思う。

 

 

埴谷雄高『死霊』 講談社

あらすじ:昭和10年代の東京市と思われる街を舞台とするこの小説に於いて、議論の中心となるのは、「虚體」の思想を持ち「自同律」に懐疑を抱く主人公・三輪與志、結核に罹患し瀕死の床に伏す元党地下活動家の三輪高志、「首ったけ」こと自称革命家の首猛夫、「黙狂」と呼ばれる思索者・矢場徹吾ら4人の異母兄弟である。こうした群像が存在の秘密や宇宙や無限をめぐって異様な観念的議論をたたかわせる。

何十ページにもわたる独白を中心とした饒舌な文体によって進められる非常に緩慢な時間進行の中での対話劇に、永久運動の時計台、《死者の電話箱》・《存在の電話箱》の実験、《窮極の秘密を打ち明ける夢魔》との対話、《愁いの王》の悲劇、「暗黒速」「念速」などの概念、人間そのもの・イエス・キリスト・釈迦・さらに上位的存在への弾劾、ある種象徴的な黒服・青服による「虚体」「虚在」「ない」の三者の観念的峻別についての示唆なども挿入され、一種神秘的・超常的な雰囲気さえただよう。日本文学大賞受賞。

 (引用元Wikipedia「死霊」)

 

解説:むり。

 

感想:あらすじを読んだ人は「なんだこりゃ」と思うかもしれない。この本の帯には「二十世紀の闇に光芒を放つわが国初の形而上小説」と書いてある。これでもよく分からないと思う。要するに小説の格好をした哲学書なんだと思ってくれればいい。全部で九章あるうち、僕は定本に記載されている五章まで読んでみた。ちなみに埴谷雄高を若者たちが読んでいた時代はとうに昔のことである。この本が雑誌「近代文学」に連載され始めたのは1946年、僕の父は予備校で大学浪人していた1970年代に読んだという。この時代からも分かるとおり、マルクス主義と学生運動の盛んな時期に書かれた本であり、埴谷雄高自身も元共産党員であるから、作品の中にもそのことが描かれている。とはいえ、20世紀の末で平成生まれの僕はそんな事情も風潮も知らない。でも「そういう時代だったんだ」ぐらいに知っておけば、たいして詳しく知らなくてもあまり差し障りはないと思う。

それでもこの本を理解できたのかと言えば、おそらく10%ぐらいしか分かっていないと思う。僕が分かったのは、というか共感したのは、「自同律」に対する懐疑だった。このことについて文学者・本多秋五は次のように言う。「埴谷が「自同律の不快」というものは、じつは「俺は」といって、つぎに「俺である」と断定するのにたじろぐ、そこに大きな抵抗を感じるということ」だった。

読者のなかには全く共感できない人も多いかもしれない。しかし僕は少しばかり共感するところがある。今においてもあらゆる種類の「僕」がいて、しかも過去と今を比べると「僕」は時期ごとに全然違っている。それに仮に過去から現在までの全ての「僕」を紙に書き連ねたとして、「この全てが僕だ」と言っても、次の瞬間には「僕」で埋め尽くされたその紙面を突発的な怒りと共に破り捨ててしまう「僕」が白紙の向こうから現れる。この「白紙」が怒りを生むとしたら、この「白紙」はどこから来るのだろうか、一体何なのだろうか、分からない。だから埴谷が『死霊』の中で「不快が、俺の原理だ」と主人公・三輪に言わせるとき、「怒りだろう、それは」と僕は言いたくなる。ちなみに批評家・秋山駿は『舗石の思想』の中で同じことを「苦痛」と言っていた。まぁそのへんはどう感じるかの違いに過ぎないかもしれない。ともかく、六章から九章までの続編を僕は早く読もうと思う。

 

 

セリーヌ『夜の果てへの旅』 中公文庫

あらすじ(本書記載):全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた<呪われた作家>セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。下巻では、遍歴を重ねた主人公バルダミュは、パリの場末に住み着き医者となるが―。人生嫌悪の果てしない旅を続ける主人公の痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の傑作巨編。

 

解説:人生へのとてつもない嫌悪と、全人類へのはげしい罵倒と、世界をこっぱ微塵にするような言葉が詰め込まれた、破天荒すぎる長篇小説『夜の果てへの旅』は、アンドレ・ジッドが言うように「セリーヌが描き出すのは現実ではない、現実が生み出す幻覚」であり、過敏症的な感覚によって描かれているようにも読める。

しかしその他方で見逃してはいけないのが、セリーヌの冷徹な分析眼である。第一次世界大戦におけるフランスでは戦時体制下のナショナリズムを呪い、小コンゴでは帝国植民地の最底辺で貧困の惨めさを叫び、アメリカでは大量生産大量消費の資本主義を見て人間疎外を呟く。つまり、セリーヌはこの本で自らの人生を感情のままに謳いながら、その饒舌な言葉は時代や文明をも鋭く批評している。

 

感想:この本を読むにあたって、奇妙な読み方かとは思うが、政治哲学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を下敷きに読んでみるといいかもしれない。というのも、アーレントが言うところの「モッブ」こそがセリーヌであり、セリーヌの描く社会の背景をアーレントは分析しているからだ。すなわち戦争と大衆の世紀をアーレントが写実的にスケッチしたとしたら、セリーヌはそれを悲惨な色合いで情念たっぷりに彩ったと言えるだろう。

僕はこれを読んだとき、言葉がこれほどまでに破壊力を持つものなのかと震えた。この本の書き出しからしてもう鳥肌モノである。

「旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ」

想像の旅、それが分かるだろうか。僕には分かる。目を閉じることで、目を開いている時よりも明瞭に世界を見ることができることもある。大江健三郎が言うように、想像とは認識に限りなく近い。セリーヌの想像する現実の世界は情念の色で真っ黒に熱く輝いている。

 

・そのほか印象に残った本

J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)

旅をしていたとき、トルコで出会った日本人の旅人が「一番好きな本」として教えてくれた小説。ずっと読もう読もうと思っていたけど、やっと最近になって読めた。「君」に語り聞かせる形式で描かれる、あてのないまま都市を彷徨う旅をする少年のうらぶれた姿や感情には、なんとも言えないほど親近感を覚えた。

 

島崎藤村『破戒』

日本の自然主義文学として代表的な作品。信濃千曲川周辺を舞台にして、新平民であり穢多の出身である若い教師が、自分のアイデンティティと世間一般の差別心との間で悩む。「戒め」を「破る」ことを希求せざるえなかった青年の肖像が描かれており、また藤村の有名な詩「初恋」を思い出すような描写もあり、読み手の感情を大きく揺さぶってくる。

 

筒井康隆モナドの領域』

筒井康隆の最後の作品と呼ばれ、最近とても話題になった小説。実は僕は筒井康隆を読むのはこれが初めてだった。考え方は違っていてもヴォルテールの『カンディード』を思わせるような哲学的な内容になっていて、ライプニッツ的世界観を基にして現代の日本社会にGODが降臨する。筒井ファンにとっては総決算の一作に読めたかもしれない。作中の後半でGODがメタ発言をぶちかます場面では、文章の向こうからGODがこちらを本当に見ている気がした。

 

E・Y・ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』

約650ページにもわたってアーレントの一生を綴ったこの伝記は、読者にまったく飽きさせない。間違いなく20世紀の世界のド真ん中を駆け抜けたアーレントの足跡を辿る文章は、タイプライターを前に、あるいは友人や学生たちを前にして、あらゆることを雄弁に語る彼女の姿を本当にハッキリと浮かび上がらせる。今年読んだなかでもっとも勇気をもらった本。

 

J・オースティン『高慢と偏見

夏目漱石が「則天去私」の思想を見たイギリス近代文学の代表作。片田舎の家族の娘たちが社交界の男性たちとの恋愛や結婚をめぐってドタバタ騒ぎを繰り広げ一喜一憂する話。主人公エリザベス・ベネットの知性と観察眼の鋭さは読者を驚かせて惹きつける。映画化もされており、世界的に高い評価を受けている一作。

 

 

・まとめ

今回は小説中心で書いた。というのも、今年は「物語」というものに深く耽溺した一年だったような気がするからだ。この一年、現実の思い出はあまりないが、読んだものや観たものについての思い出は数多い。たぶんそれって現実逃避だとか非リア充だとか言われるんだろうけど、僕は僕なりにけっこう楽しかったし充実していたと思う。小説、漫画、アニメの中で無限に広がる物語にひたすらのめり込んでみる、人生の中にそんな時期があったっていいじゃないかと、やっぱり思う。

自分の生きている世界ってのは、日本の東京にある家と学校の往復だけじゃない。読書によって、現在も現実も飛び越して幾重にもなる物語の世界を旅することができる。

想像の翼は、それを可能にする。

そんな当たり前のことに気付いた一年だった。

楽しかった。そして、来年も楽しみだ。