ファミレスから追い出されたオッサンの話
とりあえずのところ、僕たちの日常はそこそこ平和で、しかもわりと豊かで快適だと思う。この普通の日常は失われてはならないし、誰かに脅かされることはとても困ることである。これに賛同して頂ける読者の方々はこのまま読み進めてほしい。以下に述べる話の始まりは、これもまた僕の日常的な生活の一部であり、他の誰かにとってもありえる日常の風景だと思う。
・ファミレスでの事件
この日も大学の授業を終えて家の近くにあるファミレスへ行き、いつも通り喫煙席に座ってリュックサックの中から文庫本を一冊取り出す。この日は確かヴォルテールの著作『カンディード』だった気がする。いつも通りにアイスコーヒーを注文して、煙草を一本取り出しながら、ヴォルテールの生涯と著作について書かれた巻末の解説を読む。iphoneのランダムな選曲がイヤホンを通して鼓膜に流れてくる。視覚と聴覚が外界から遮断され、しかも客である僕はファミレスの片隅で誰からも干渉を受けずに平穏な孤独に居座ることができる。そこでふと頭をよぎるのは、本の内容とは何の関係もない、明日の授業課題のこと、あるいは地方配属になった友達のこと、もしくはバイトの給料と今の財布の中身のこと、そして将来の進路のことなど、つまり人生において日常的で些細な、かといって決して小さくはない大事なことに考えを巡らしている、ちょうどその時だった。
最初は「気配」だった。不穏な空気、とでも言うべきなのだろうか。文字で埋まった紙面からハッと視線を挙げると、そこには市民の安全と安心を守ることが職務である青色の制服姿の男が二人と、その少し後方で困惑しながらも険しい表情の女性店員、そして両者の厳しい視線は一人の中年の男に注がれていた。
僕はその男を知っている。とは言っても、詳しく知ってるわけじゃない。ただその男が昼に夜に、ほとんど毎日のように、僕と同じようにこのファミレスに長時間入り浸っていて、ホットコーヒーしか飲まず、しかし煙草だけはやたらと吸い、大抵は新聞を読んでいて、明らかに挙動不審な態度や店員との言葉のやり取りから見て、おそらくは軽度の知的障害があり、また歩き方がパッと見てもおかしく、手が常時震えていることからも身体的にもなんらかの障害がある。そして接客する店員に対してはたまに嫌がらせのような態度を取ること、彼についてのそれらを僕は知っている。加えて彼の来店する時間帯(午前中から午後、深夜など)と長時間の居座りから、彼は普通に賃金を稼ぐ労働者ではなく、何らかの社会保障(例えば生活保護)を受けて生活しているのではないかと僕は考えた。
実はファミレスには、彼ほどではないにしても、一般に言う「社会人」ではない人たちが居座っていることがよくある。例えば、定年退職後と見えるオッサンは毎晩のように訪れてビールを飲んでから朝まで爆睡しているし、ヨボヨボのおじいさんはスナックのママ(二十代の僕から見れば「おばあちゃん」だ)を連れてお喋りに興じているが、向き合うのではなく隣り合って座るそれはまるで恋人同士のようである。
あるいは、40代後半ぐらいのオッサンも毎日のようにお替り無料のコーヒーを飲み、そして煙草を吸いながら目を閉じてずっとニヤニヤしている。よく見ると、その服装は下がだらしないスウェットなのに対して上だけは普通のシャツである。そしてたまに「タウンワーク」を読んでいるが、彼もまた仕事をしているようには見えない。
話を戻そう。どうやら最初の彼は店員に対して問題のある行為をしたらしく、それで警察を呼ばれたようだった。いわゆる「営業妨害」だ。ほどなくして、彼は警察の手によって店からつまみ出された。あとで店員に聞いてみたら、彼はこの店を「出入り禁止」にされたそうだ。ともかく、それから店内は数分もすると「いつも通りの平穏」を取り戻し、僕は再び視線を読みかけの本に戻した。
こうして僕らの平和で豊かで快適な日常は警察によって守られたのだ。
実際に起きた話はここまでだが、もちろん僕の話はこれで終わらない。この記事がここで終わるならば、そもそもこの記事を書こうとすら僕は思わなかっただろう。しかし読者の皆様はここまでを読んでどう思っただろうか。もし「これでいいじゃないか」と思うならばタブを閉じてもらって構わない。「社会にとって不快で迷惑な存在は警察によって排除されるべきである」という素晴らしく良心的な道徳観をお持ちのあなたは以下の文章を読んでもピンとこないだろうし、ここまでを「無駄な時間だった」と思っていただくしかない。ただし、この厭味ったらしい文章に付き合ってくれる物好きと暇人はここからも読み進めてほしい。
・「社会人」ではない人たち
話を続けよう。この一連の話における問題はさしあたって次のことである。
「そもそも彼(彼ら)はなぜ、ファミレスに居座っているのか?」
まず彼(あるいは前述の彼ら)は、今最も深刻であるいくつかの社会問題の現実的な存在だと言える。つまり、それは高齢化社会と生活保護だ。すでに書いたように、ファミレスに居座る常連は、暇な学生の僕よりも暇そうに見える。そのタイプを「時間」に即して分けると二つだ。サラリーマン人生を駆け抜けた後の空虚な「残り時間」か、働かなくても生活保護の受給で煙草が吸える程度には生活ができてしまう「怠惰な時間」かである。この二つの「時間」は、国民が支払う税で賄われる社会保障によって支えられている。
この両者は最近よく非難される対象として話題になる。「蓄財している老人三人分の生活費を、蓄えもない一人の若者が支えている」、「生活保護受給者は愚かで怠惰だ」などなど。ともかく有象無象の人々は悪者(に見える何か)を見つけてきては盛大に叩いて叩いて叩く。例えば生活保護の、その認識の裏には、純粋無垢な社会的弱者が想定されているからだろう。すなわち「お前は弱者のくせに生意気でふざけている」と言いたいのだ。今回の彼についてだって、知的障害、あるいは身体障害、もしくは失業や貧困と言ったワードだけを並べれば、良心的な道徳観をお持ちの方はすぐに寛容で同情心に満ちた言葉を述べるだろう。ただし「自分に迷惑をかけない限り」でのことだ。この認識・態度は、何か問題があれば即座に「フリーライダー叩き」、もしくは「老害叩き」へと転化することが予想できる。
「「純粋な弱者」を想定しながらの「相対的強者」による代理論争は、「良き社会」を構想する上では確かに重要な議論である。しかし、一方では、「純粋な弱者」を求め、あらゆる弱者を「純粋な弱者」の中に押し込んで「支配する眼差し」と表裏一体の関係にあることに、自覚的であり続ける必要がある」
「生活保護を含めた社会福祉のあり方は、今後も様々な形で社会問題化するだろう。「生活保護制度を引き締めればいい」と威勢のいいことを言っても、あるいは「弱者を守るために弱者批判をするな」と「正論」を振りかざしたとしても、それはむしろ、バーチャルな「純粋な弱者」の枠に入りきらない「グレーな弱者」を不可視な存在へ追いやり、社会の中で潜在化させていく。そして、公的な弱者包摂の制度から零れ落ちた人々は、代替可能な機能を有する自生的かつ非公式的な「弱者包摂の制度」へと吸収され、貧困のループの中で生き続けるようになる」
開沼博『漂白される社会』、第四章「ヤミ金が救済する「グレー」な生活保護受給者」p142-p144
・都市空間の形成
次に、彼(彼ら)の「時間」から、今度は「空間」へと視点を変えてみたい。これがこの記事の中心的な話題、そして「なぜファミレスに居座るのか?」という問題に対する直接的な議論になる。
まず、彼らはファミレスに居た。そしてファミレスは都市のロードサイドに位置する。だからまず「都市」の社会について考えなくてはならない。とはいえ、ここで言う「都市」とは、新宿や渋谷のようなメトロポリスではなく、そこから農村を飲み込んで同心円状に派生した亜‐都市である。一般的には「郊外」とか「住宅街」とか、要するに無個性な普通の町のことである。ここでは便宜的に「郊外」とする。
実は、郊外こそが、この日本社会を生きる人々にとって「日常的」であると僕は思っている。というのも、現代においては、独立した都市は想定できず、戦後の開発主義的な都市計画・国土改造によって、町と町は道路で結びつけられ、農村と都市は二項対立的な構図を失っていく、確かに中心的な商業都市はあっても、そこから溢れ出た人口を補完するためにさらに郊外が広がり、そして郊外と郊外が曖昧に接続され、「完全な農村ではなく、かと言って大都市でもない」ような風景、半-汎都市的な空間である「郊外」が現出し、そこに人口が流入したのがこの現代社会である。だから「郊外」と日常は多くの人にとって不可分なのだと思う。
こうした都市郊外社会において、人々は何によって居場所を形成するのだろうか。昔の農村・漁村ならば生産手段と家族や親類が直接的に結合した共同体であっただろうし、純粋な商業都市ならば商人同士、もしくは手工業者の連帯がありえたのかもしれない。ただ特に戦後社会はよく知られているように、そうした共同体が解体され、いわゆる「核家族家庭」にまで縮小化し、仕事は都心部で、それ以外の暮らしは郊外という、ドーナツ化現象が起きた。つまり職住分離の社会である。
・社会的排除
それでも戦後しばらくの間は、職=仕事では会社共同体、住=家庭では核家族が、経済社会の安定を担保にして維持されていたようである。が、しかし、それはバブル期までの話で、ロスジェネと呼ばれる世代を契機に就職氷河期を経て、失業者やフリーターやニートなど、「アンダークラス」と呼ばれる階層が大量に出てきた。これが何を意味するのかというと、「結婚相手としてふさわしくない」と価値づけられる男達(あるいは女性もそうかもしれない)が、社会の見えない場所(しかし本当は見えている場所)で孤独になっていく。
その理由について、経済学をマトモに学んだことのない僕が論じるのは気が引けるが、おおまかな話で言えば、知的労働以外の労働、つまり単純作業や肉体労働を、安価な人材(出稼ぎ外国人や低賃金労働者)にアウトソースし、もしくは作業工程をオートメーション化することによって、コストを減らして利益を最大化し、企業の人口自体がスリム化を図ったからだとされているらしい。要するに経済構造的に生まれてしまった「孤独」と「貧困」があるのだ。
こうした労働市場からの構造的な排除と、件の彼(彼ら)は全く無関係というわけにはいかない。例えば、無職である理由が、就職の失敗にせよ、失業にせよ、ともかく知的労働が能力主義であるからには、正規職の再雇用への間口はとても狭く激戦である。加えて日本は新卒採用制度を未だになんとか保っていて、他方で中途採用にはそれなりのキャリアが必要である。こう考えてみると、いったんドロップアウトあるいはロックアウトされた人々は、多少は雇用景気が良くなっている現在でさえ、リスタートの糸口がなかなか見つからないのかもしれない。そうして求人誌に載っているのは、大抵が前述したような「アウトソースされた労働」である。
・排除のメカニズム
さて、彼(彼ら)の立ち位置が社会の大きな構図のなかで徐々に見えてきた気がする。となると、次は、彼(彼ら)が「郊外のファミレス」という場所に居座り、そして排除されたことについて考えるべきだろう。この事件が起きた後、僕はすぐに二冊の本を手に取った。それは前出の開沼博『漂白される社会』と、ジョック・ヤング『排除型社会-後期近代における犯罪・雇用・差異』である。この二冊には、僕が見た出来事と類似する事件を分析する記述があった。
「「周縁的な存在」は、多くの人にとって不快な「あってはならぬもの」となり、まずは彼らの日常の中で視野の外に置かれ、一方では衰え、他方では不可視化された代替的なシステムで補完される。そして、前者は隔離・固定化され、社会に包摂されないまま放置される。しかし空間的に外に置くことができないものもある。例えばその特徴は、ホームレスの排除が進む大都市に生まれ出た「ホームレスギャル」に顕著に現れる。彼女たちは、「マクドナルドへの排除」という一見わかりにくい排除をされると同時に、消費社会で生まれたシステムへの包摂もされている」
開沼博『漂白される社会』「一二の旅で見えてきたもの」p390
「(経済社会的に)排除された者たちは、他者を攻撃したり追放したりするなど、排他的かつ排除的なやり方で自己のアイデンティティを作り上げる。その結果、今度は自分たちが他者から、すなわち、学校の管理者、ショッピングモールのガードマン、「善良な」市民、巡回中の警察官などから排除され、追放されることになる。そこにあるのは、逸脱者がますます逸脱の度合いを高め、周縁化されていく排除の弁証法とも呼ぶべき過程である。」
ジョック・ヤング『排除型社会』「包摂型社会から排除型社会へ」p45
僕が見た彼の事件と照らし合わせながら、この二つの文章を読んでいくと、それは次のようになる。
彼は何らかの理由で労働市場に参入できず、家庭をはじめとしたあらゆる共同体からも排除されている、それと同時に消費社会の産物であるファミレスに包摂された(彼は一杯のコーヒーと引き換えに居場所を手に入れた)。
が、しかしファミレスというのは「ファミリー・レストラン」である。店内はファミリーとフレンドとカップルで一杯になり、そうした人々は大いに消費する。彼は自分の持たざる二つの豊かさを目にする。人間関係と金だ。無意識下であれ、彼のストレスは高まる。
でも24時間いつでも雨風をしのげて煙草が吸えてコーヒーを自由にお替りできる「快適な」場所はファミレス以外にはほとんどない。彼は豊かな日常の中で苛立ち、それを文句の言いやすい女性店員にぶつける。その結果、彼は警察によってファミレスからも排除された(排除の弁証法)。
経済構造によって「貧困」が生み出され、それによって家庭を持つ契機である結婚からも遠ざかり「孤独」が生まれる、そうした二重の疎外状態において、さらに消費空間からも排除される人がいる。
そのことに僕らは気付かない、見えているが、見ない。
異質な他者を排除することによって、この素晴らしい日常は成り立っている。
だから、この日常は、平和で豊かで快適だ。日本は最高に美しい国である。
隣の席でマルチ商法の勧誘が行われているファミレス店内にて。