卒論について

やっと卒論が終わった。

魂の全体重を乗せて書いたつもりだ。

たかが学位論文に対して「魂」だなんて大袈裟すぎると思われるかもしれないが、これからもたくさんの文章を書いていくうえで、この卒論を「原点」にしたかった。それと同時に、いささか長引いてしまった大学生活六年間の「総決算」という意味合いもあった。

だから、ありきたりなテーマで、答えの分かりきった問いを立てて、生真面目な方法で素っ気ない答えを出す、なんてことはしたくなかった。あるいは、偉い学者の二次創作みたいな真似もしたくはなかった。要するに、僕にとっては、はじめからアカデミズムの価値基準は問題にならなかったのだった。まぁそもそも理論を体系的に学んだり、語学をきっちり勉強したり、あるいは学術論文の訓練をしなかった不勉強な僕にとって、そういうことをやれるわけもなかった。つまり、あえて「やらなかった」のではなく「できなかった」の方が正しい。

ともあれ、では、この拙い論文を通して僕には何かができただろうか。言い換えれば、何か新しいことが言えただろうか。もしくは効果的な批判を提出することができただろうか。正直なところ、あまり自信がない。というのも、敵に回したモノがあまりにも巨大すぎたからだ。タイトルは「社会空間の思想史-近代としての郊外-」としたが、この文章に一貫してある問題意識は、都市と郊外における資本主義の諸問題であり、近年のグローバリズムと消費社会の問題であって、要するに一介の学部生が取り組めるようなサイズの問題ではない。学部生によくありがちな失敗である。しかし、それでもこの膨大な問題に食い下がりたかった。

この話を分かりやすく喩えてみると、ポケモンで言ってみれば、Lv.100のミュウツーに対して、こちらはLv.5のコラッタで挑むようなものであり、あるいはナルトで言えば、穢土転生を使う相手に対して、こちらはクナイ一本で戦うようなものだ。僕のちっぽけな頭で真っ向勝負を仕掛ければ秒殺されるだけである。

だから「手札」を揃える必要があった。ポケモンならより強いモンスターをゲットする。もしくはナルトならより優れた忍術を習得しなければならなかった。そこで読書が必要になった。ドラゴンボールで言えば、「精神と時の部屋」で修業を積むというわけである。結局、三年かかった。そのあいだに約三百冊の本を読んだ。でも、それだけではない。一人で本を読むだけだと味気ないので、僕はツイッターで自分と似たような人たちを探した。

そう、いるところにはいるものである。いわゆる「意識高い系」の人間関係から、匿名の教養主義者たちが集まるところへと移ってみたところ、そこでは四六時中ずっと難解な議論(という名の「容赦なき殴り合い」)をしているではないか。もう気分は千と千尋の神隠し、昭和のお化け、教養の怪物、オタクの魑魅魍魎が、そこらじゅうにウジャウジャと跋扈していてカオスである。一九六〇年代の思想的な問題、例えば吉本隆明埴谷雄高江藤淳谷川雁が出てきたと思えば、次の瞬間には「シン・ゴジラ」や「君の名は。」などの最近の話題がTLを埋め尽くしていく。ツイキャスでは批評言語が飛び交い、あるいは下劣な罵詈雑言が叩きつけられ、まさにバーリトゥード範馬刃牙もびっくりである。

「半年ROMってろ」とは、昔の2ちゃん用語だけれども、実際のところ僕も半年ぐらいこの界隈のやり取りをROMってた。なぜなら、あまりにも広範囲かつ難解な話題についていけなかったからだ。TLで重要視されている書籍や人物はまずメモって、それから大学図書館ブックオフや古本屋で探しまくる。ちゃんとは分からなくても、とにかく読む。それから解説本を探してまた読む。すると、TLで流れている話題が少しずつ分かってきて、自分もツイートしてみたくなる。そこで「こんなの読んだ」とか「この主張は違うでしょ」みたいなツイートする。すると、何らかのレスポンスが返ってくる。現実の人間関係ではありえないような会話が可能になる瞬間。「異界」に引っ越しできたような気がして、嬉しかった。

そこから二年半の間、議論とも口喧嘩とも判別のつかない、ツイッターというリング上における無差別級ルール無制限のバーリトゥードに身を沈めた。そこでは、本当に醜い罵り合いをたくさん見かけた。美しいほどに論理的・学術的な議論もあった。あるいはプロレス的な丁々発止も少なくなかった。そして僕も、たまにはリングに上がってみたりしたけれど、やっぱりこわかったし、たいしたことは言えなかった。

それでも、この「異界」に沈潜したことの収穫は大きかった。第一に、読書の幅が広がったこと。これは何かを考えるときの地図そのものの拡大を意味した。第二に、自分が「井の中の蛙」であることを意識するようになった。実際、僕より三歳も下の人とのスカイプ読書会で、思想史をはじめとして僕はたくさんのことを教わった。第三に、何かを読んだり書いたりするモチベーションになった。一回だけではあるけど、文学フリマに参加するサークル誌に評論めいた文章を寄稿することができた。

そんなこんなで、僕は丸々三年間を読書に費やした。二十代前半の三年間のほとんどの時間をファミレスと古本屋で過ごしてしまったことは、他の人からすれば「もったいない」と思うかもしれないが、僕にとっては何にも代え難く貴重な時間だったように思う。もちろん、一人でいる時間が長かった分だけ失ったものも色々あった。でも、それはこれから何とかしていけばいい。

そうして、卒論に取り掛かろうとなったとき、三年間の読書経験も含めた大学生活六年分の、いや自分の人生すべての体験と記憶が一気にフラッシュバックしてきた。地元のロードサイド、被災地の荒野、アジアやアフリカのバラック街、東京の高層ビル、ネット空間のTL、そして出会ってきた人びとの表情や言葉が頭蓋骨の内側を駆け巡って、書きたいことがバンバン出てきた。パソコンのキーボードを叩く手が止まることはほとんどなかった。自分の持っている手札を全て出し尽くしてこの世界と勝負すること。それは読んできた本だけではなく、体験した出来事、感じてきた情念、見てきた風景、その全てをこの世界にぶつけるつもりで書いた。だから「魂の全体重」というのも冗談ではない。「賭けるものがないんです。人生でいいですか」と叫ぶZone the darknessに震えた18歳の時から僕はブレてない。

きっと学位論文の評価としてはC判定だろう。

たとえそうだとしても、この手で叩き込んだ12万字は僕の人生である。