休学とこの時代

・はじめに

 「世界が慌ただしい」

 そう感じるようになったのは、僕自身が少しばかりモノを知るようになったからかもしれない。どの時代も様々な変化があり、年がら年中“激動の時代”と言われてきたのだろう。しかしそれにしても、この時代は今日の大学生にとってかなり変化の大きい時期なのではないか。そんな素朴な思いがあってこれを書こうと思った。

 例えば世界の世界化がその姿を全面化させつつあり、さらにはダイナミック産業としてのITが経済活動全般にとって無くてはならない覇権を握り、学校社会の内部に生きる若者たちに強い影響を及ぼしている。そんな状況の中で、ある種特異な選択肢として存在していた「休学」の意味も変貌を遂げつつある。そこから見る日本社会とはどのようなものだろうか。

 以下に始まる文章は決して客観的な妥当性を有するとは言えないが、とにかく休学という現象が世間一般にある程度の固定された共通理解を得る前に、休学についての現状分析と、今後の予測をして先駆的に問題提起を企むものである。もちろんあくまで学部生の立場から考えうる範囲の話題を取り扱う事となり、しかしそれこそが重要なのだと信じる。

 概観としては、大学生を取り巻く時代、大学生が所属する大学機関、社会現象としての休学、そしてそれら三つを踏まえた自論を述べる。

 

1章 大学生とこの時代

 月並みな話題から始めると、グローバリゼーションの影響力は大学生の様々な事情にも波及しているのだろう。まず事実として、大学生の生活をある程度規定する大学機関や文部科学省は「トビタテ留学JAPAN」や「スーパーグローバル大学創成」など、様々な形でこの世界的な時流に対応しようとしている。

 この大学事情を取り巻く大きな文脈として、アメリカ的な市場自由主義の世界化による資本の流動的な状況がその根底にありそうだ。つまり人・モノ・金が国境を越えて移動する、という原理が日本国内の様々な場面に浸透しているということである。

 上記のような状況にあるこの時代において、国内の反応はやや慌ただしく、そして様々な困惑を引き起こしているように思える。ここで大学生自身について考えてみるなら、ざっくりと二つの反応に切り分けてみることができる。つまりこの状況に対して「乗るか反るか」というような「海外に出るか、国内に留まるか」の二つだ。もちろんその状況をどの程度のレベルで認識&問題視しているのかにもよるが、全く知らないということはさすがにあるまい。

 これについての各人の問題意識の強弱は、かなりの部分でキャリア意識に依存・関係するだろう。なぜならほとんどの学生にとって共通の関心事であるはずの「シューカツ」は、直接的にグローバリズムの影響を受けるからだ。ビジネスや教育関連のニュースでは“グローバル人材”という中身がまったく空洞な概念をひっきりなしに称揚しているわけで、その喧騒は学生の耳に届かないはずがない。大学生自身もTOEICで高得点を取得するために勉強するなどといったリアクションを起こしている。そしてこういったことをはじめとしたグローバル化の影響力をどの程度で問題視するのかについては、もちろん様々な判断基準があるだろうが、その根底には価値観の対立が存在するのではないだろうか。

 学生の価値観、特にキャリアに関する価値観には時代の変遷が大きく関わってくると考えられる。これは中根千枝の概念を借りるなら、「場」におけるタテの関係を基盤とした共同体主義-学歴主義的なキャリア観と、「資格」におけるヨコの関係-大学区分を超えたある種の個人主義的なキャリア観という二分が可能だ。しかしこれでは分かりにくいので言い換えると、「所属からキャリアプランを考える」という価値観と、「行動した事からキャリアプランを考える」という価値観だとひとまず定義しよう。

 言わずもがな、前者は旧来的かつ保守的な立場にあるのに対して、後者を現代的とは決めつけないまでも、市場自由主義的な労働観によく合致した考え方であるように見える。この二つが個人の中でどのような比重になるのかによって、大学生活の過ごし方というのもある程度変わってくるのではないだろうか。これがこの時代に「乗るか反るか」という問題に大きく関わってくると思われる。

 

2章 大学機関の様相

 ここまでで述べた学生事情、特に個人主義的な学生が増えつつある昨今において、大学機関はその時間性と空間性の中で4つの役割を担っているように僕には見える。学問研究機関、就職予備校、ディズニーランド的な遊び場、若年層の失業者予備軍収容所、という区分だ。もちろん俗に言う「偏差値」の高低によってこの4つの役割の比重は変動する。

 本来、専門的な学問研究が行われる場であることは言うまでもないが、現実は就職率の高さをアピールしている大学が数多く存在し、特に受験生集めに必死な中堅以下のレベルの大学は就職予備校的な役割を強化していることは言い訳のできない事実だろう。本当に一部の大学を除けば、教育市場において売り手は大学であり、買い手は学生よりも親だ。もちろん子どもが100%親の言いなりに従うということはあまり無いだろうが、親の影響下にあることは確かであり、学費を出すのもほとんどの場合は親であるのだから、子どもの将来を思えば評判の良い大学(=就職率の高い大学)に進学させたいというのが普通だろう。こういった役割が強い大学ほど「グローバル」や「人材育成」という言葉を多用する傾向にあると思われる。

 3番目にディズニーランド的な遊び場と書いたが、これは昭和時代に盛んに揶揄されたようにモラトリアムな時間を過ごせるという事を指している。この現代でも世間の大学に対する一般的なイメージとその内実は、細かなところに変化はあるかもしれないが、性質としてはあまり変わっていないように思う。

 露骨な言い方をした4番目は、内部では「動物園」と言われてしまうことが多々あるほど学問的教育が難しい状況にある。しかし、もしそういった大学が無くなったら労働市場が供給過多になってしまい、失業者が続出するだろう。こうした大学では傾向として、一般的に知られている「仕事の役に立つ」ような分野を実学と呼び、受験生集めのキャッチフレーズにしている。だからかなり2番目に近いような状況にあると言えるだろう。ただし偏差値的に低い上に定員割れになってしまうことがあるようなので、少子化の流れを考えると今後淘汰される可能性が高い役割だと考えられる。

 以上で考察した四つの役割はどれも大学ごとに明確に棲み分けがなされているわけではなく、ただそれらの役割が比率を変えながら存在しているという話である。感覚としては、1番目の役割が主軸の大学は一部であり、2番目(+4番目)の役割が急速に拡大していて、その全体に3番目が根強くかかってくるというような様相だろう。

 

3章 社会現象としての休学

 「社会現象」だなんて大袈裟だと思うかもしれない。そもそもゼロ年代以前の休学というのはまず個人的なものであり、そして本来ネガティブな理由で取得する時間として社会一般には認識されてきた。そして現在でも依然としてそういったことに関係する理由で休学する人が休学者の大半だろう。しかしそういった印象や比率が徐々に変わっていく過程こそ、この今であると言いたい。

 はじめに、休学の定義とは学校を休み自分の時間を確保することである。とにかくこれが休学とその他の選択肢との決定的な違いだ。その時間を確保する事によって学校社会から束縛される事がなくなる。そしてどんなやり方・どんな発想であれ、その休学期間をどう使うかについて考え出した時、それはベルトコンベア式の人生選択から離れて、これからの人生を“自覚的に選択していく”ということを既に始めているのと同じ事である。ここで言う休学は、以前よりも活動的になる事を選択するということに限らない。実際にネガティブな理由での休学者の数は圧倒的に多い。病気による入院や、精神的な問題によるひきこもりを行っている人にとって休学は無くてはならない選択肢である。外界のストレスを遮断して、まずは休む時間を確保し、ゆっくり自分と向き合う必要があるのだ。

 一方で、能動的な休学がポジティブな意味の市民権を得つつある、つまり理由がポジティブであったとしても、しかし分散していた内密で個人的なものとしての休学から、集団的なひとつの流れを作りつつある理由として二つの根拠が挙げられる。前章で述べた価値観の時代的変遷と、そしてITの普及に基づく情報化社会である。

 まず、グローバリゼーションによる労働市場の国際化を察して、「乗るか反るか」という話題を初めにしたが、2番目の大学の役割である「就職予備校」に影響を受けている学生にとっては、これがかなり重要な問題である。つまり「シューカツ」でいかに成功するかを重視している学生にとっては、学問研究の価値は低く見ており、極端に言えば一般教養や学問として専門的な分野の授業のほとんどの時間を無駄だと感じている。

 ここで持ち上がる選択肢こそ「休学」である。その中でも留学はまず常套手段だと言えるし、もしくはシューカツに対して有効だと考えられているインターンは国内外関係なく今後より一層広がっていくだろう。そして旅やボランティアなどのソフトな選択肢も「学外での経験」という意味で学生には好まれやすい。学内での勉強よりも学外での経験を優先したいというわけだ。

 しかし本当の事情はそんなに単純な構造ではない。というのも、休学という時間は、シューカツそしてキャリアに対する意識を再帰的に強化するのだ。つまり休学前のキャリアに対する意識がどのような状態であっても、休学して学校社会を離れ、別の社会や人間関係や新しい機会に投げ込まれることによって、学校内にとどまっていた自分の人生を相対化する視点が生まれるために、それまでとは別の考え方でキャリアについて関心を持って考えるようになる傾向があるということである。

 こういった一連の流れが全ての休学者にあてはまるとは決して言えないが、しかしこのような流れに合流する学生が増える理由に、ITの普及に基づく情報化社会の影響が挙げられる。この時代を学生として過ごしている人たちは90年代生まれがほとんどであり、デジタル・ネイティブな世代である。TwitterFacebookなどの個人発信系のSNSの利用は「当たり前」なのだ。

 これが何を意味するのかというと、アメリカの法学者キャス・サンスティーンが提唱した「集団極性化」(サイバーカスケード)に近い現象が、学生の利用するSNS上では特にその効果を発揮しやすいということである。

 ポジティブな理由での休学者たちは、存在としてはマイノリティであるが、しかしある種「胸を張って」休学をしているのだから、インターネット上で自分の経験などを自発的に発信する傾向にある。そうすると、たとえば休学者が同じ学科で1/100の状況であったとしても、10万人の学生のアカウントがあるSNSならば1000人の集団になる。このことにより同質性の高いコミュニティが生まれる。事実として、ポジティブな休学者は大体が留学か旅かインターンかボランティアなどであり、それらの界隈ではだいたいの人が誰かしらと繋がっている。学外の広い世界に出て行ったはずなのに、皮肉なことに休学界隈という言葉に表せるぐらいには狭い人間関係が形成される。

 ただしこれは分断された個別者がマイノリティと呼ばれる程度には集団化したからこその状況である。ベルトコンベア式の教育システムと労働市場の競争の激化が今後も続く限り、休学をバイパス的に利用する学生は増えていくだろうから、将来的にはこの選択が一般化し、集団がより拡大していく日が来る可能性も十分にあると言える。

 

4章 休学に自由を求めて(自論)

 まずここまでの考察は実際のところの統計データが皆無の、見聞きした経験から来る考察であったことを再度確認として述べなくてはならない。しかし妥当性を全く欠いているわけでもないはずだ。

ここからは前章で述べた「ポジティブな理由の休学」という部分的かつ分かりやすい現象を切り出し、さらに詳細に説明してから、それついての問題提起を行いたいと思う。便宜上、以下に続く休学の意味はポジティブな時間としたい。

 休学はしばしば次のように解釈される。「学校社会や不自由な教育システムに対するアンチテーゼだ」と。だから学校社会とは違う世界として真っ先に思いつく「海外」・「会社社会」や、時間的な不自由の対立関係にある「自由」といった観念が休学には強く関係してくる傾向にある。

 こうしたイメージを背景に、学生の休学を前提としたビジネスが最近になって急激に増えてきた。ボランティアやインターンや私費留学プログラムの斡旋などはその最たる例である。こうした個別の事例はそれぞれまったく別の内容に見えるが、しかし時代的価値観に照らし合わせてみるとそれらは以下に説明するように、とても合目的的な手段だと言えよう。

 上記の手段を象徴的に表していると思われる「戦略的休学」というフレーズは、インターンプログラムを企画・斡旋している某会社の宣伝文句だ。そう、戦略的なのだ。つまり何が言いたいのかというと、休学は学校社会に対するアンチテーゼであり、様々な道に開けた選択肢であるはずだが、しかしこのフレーズはその本来の意味を変質させている。否、矮小化させつつあるとハッキリ言おう。

 もし休学が戦略だとするなら、その戦場はどこだろうか。それはもちろんこの資本主義世界だ。そしてその戦略の根本原理はたった一つ、学生のうちから労働市場での自分の価値を高めておくことである。休学の選択や休学における経験が、労働市場の需要(グローバル人材やリーダーシップなどという偶像)に合わせてその姿を意識的に変えつつあるのだ。

 この文章の意図が明確になってきたので改めて書くが、休学は個人主義的な価値観の下で旧来の消極的な意味から離れて再構築された選択肢である。つまり同質化された学歴単位の価値観や人生観を自由に変化させることが可能になる広場的な時間であるべきなのだ。          

 学校社会の文脈にある自分を一旦客体化し、様々にある別の文脈に対して選択的もしくは複線的に主体化する一連の路線変更の流れの中で、今まで考えもしなかったこと考えるということ。つまり不安になるほどの「自由」な場所から、他者によって恣意的に固定化された思考形式に囚われずに、自分や世の中について考えて悩めることこそ休学の真価と言えよう。休学の選択における態度までもが「お客様」に留まるのであるならば、それは果たして「やらされる」ことばかりの学校社会と何が違うのだろうか?

  だから「戦略的休学」などというイメージ化は批判されるべきなのである。企業や市場の論理は学生の人生を真に捉えているわけではない。あくまで学生は顧客であり、休学を新たな市場としたいのであろう。この宣伝文句は休学の社会的記号を市場主義的価値観へと画一的にして組み込むことと同義である。

 休学は自由という概念と同様に、その実態は空虚であって、そこにどのような意味を与えるのかは、学生自身の傾向性における比較と選択に基づかなくてはならないのだ。(注:インターンプログラムが悪いというわけではなく、広告による恣意的なイメージ操作に対する批判である)

 そもそもの大きな現実の問題として、日本経済全体がより市場自由主義的になりつつある昨今では、上記に述べたような市場主義的価値観への一元化とそれによるコンフリクトが大学を含めて様々な場面で起こっているはずだ。このことについて対象を学生に限定して言うならば、発想の引き出しや行動原理がビジネスライクなものに偏向し、会社社会やグローバルな世界だけではない本当に多様で複雑な世界を見渡す視野を得る機会を失い、さらには本来の大学生として学ぶべき専門知識は何一つ手に残らず卒業していく、などといった可能性を大いに孕む。

 この帰結が少なからぬ可能性として存在してしまう理由はいくつかあり、たとえば平成時代の停滞した世俗の風潮、つまり90年代生まれの学生たちがある程度の自我と判断力を持ってこの世界を生き始めた頃というのは、05年までの深刻な就職氷河期に始まり、08年のリーマンショックによる経済混乱や、10年に長年の与党であった自民党を破って誕生した民主党政権が11年の東日本大震災によって無様に崩壊したこと、12年頃から強く問題視されるようになったブラック企業問題など、若者の実存的な生活環境に対して直接的に働きかけるネガティブな出来事が毎年のように起きていた。

 こうした時代というのは、各個人がどんな思想や信条であれ、生きることにおける幸福を漠然とした不安と徹底したニヒリズムの下で各々が考えているように思える。言い換えれば、自分の生活領域における不安要素をいかに排除して安全地帯を確保するかということである。つまり「大体の不幸はお金があれば防げる」という価値観がまるで絶対かのように見えてくるということだ。そのような文脈の上に浮かび上がったのが「戦略的休学」だと考えられる。

 しかしこの時代における市場自由主義とは個人主義と本当に合致するのだろうか。市場自由主義的なイデオロギーが、個人の自由を不自由なモノに改ざんしているのではないだろうか。つまり市場自由主義はあくまで市場の自由でしかないのだが、しかし大勢の個人を自発的に「市場至上主義」へと扇動しているように思えるというわけだ。

 こうした「なにがどうであれ市場の需要を優先する」という考え方を内面化する個人が増えていく世の中は、ある部分では多様性を失っていく方向にあると考えられる。このような画一化を防ぐための一つの手段として、休学は個人の自由を啓く“新たな可能性”を持つ社会的装置だと「改めて」定義したい。

  もちろん休学とはあくまで休学であり、有限の時間でありながらも、しかし内面の変化に予定された帰結はない。だからこそベルトコンベア的教育によって思考停止的な状態にある狭窄な視野や停滞した心的成長に対してなんらかの変化が期待できるのではないだろうか。

 そう、僕ら学生は工場で造られる商品じゃない。合理的な行動しかしないロボットでもない。ひとつの人格があり、感情を持ち、各々の内面には独自の時間の流れがある。休学というものは学校社会の隅に咲いた徒花でしかないかもしれない。しかしだからこそこれからの時代を創っていく多様な生き方を育む土壌となるのだと僕は主張したい。

 

 

サルトルの論争、丸山眞男、そして有川浩『明日の子供たち』

 「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」

 この有名な一節は、1964年にジャンポール・サルトルがLe Mondeのインタビューで「言葉」について発言したことであり、文学界をはじめとして論争を呼んだ話題だ。このことについて解釈を加えるなら、サルトルは文学を単なる経済問題の次元に引き戻そうとしたわけではなく、それよりもより鋭い問いかけ、つまり飢えた子どもたちがいる世界における文学の政治的・経済的な闘争を見据えていたのだろう。

 これについて大江健三郎は、同時代の作家イブ・ベルジェの主張であるところの「文学がなにものかに奉仕するためのものでなく、人生そのものでもなく現実でもないことを認めている。(・・・)人生において人間が幸福だとか不幸だとかのために、人は小説を書くのではない。そうではなくて、死が人間を不幸にするからこそ、人は小説を書くのだ。(・・・)(書く行為によって)自分が不幸であり(・・・)そして、飢えた子どもたちのことを忘れる。(・・・)文学とはあいかわらず、個人的な救済の試みである」(大江『書く行為』p9)を紹介する。そして大江自身の立場は、サルトルの立場とベルジェの立場を「つねにフリコ運動している」のだと言明している。

 確かに言葉は言葉でしかなく、また文学という虚構の構築は個人的な救済の方法になりえる。しかし一方では言葉によって政治や経済や歴史ひいては世界が構築されているという事実にも直面するわけである。では改めて文学とは、他者と対峙するような現実的な行為においては二次的なモノに過ぎず、その価値は飢えた子どもの前では皆無であるだろうか?

 

 現実とイメージ -丸山眞男『日本の思想 』

 以上の文章から、文学における「現実性と虚構性」の対立が浮かび上がってくる。だがしかしそもそも文学は本当にその内面で対立しているのだろうか、という拭いきれない素朴な疑問を抱くのである。

 『日本の思想』の第三章「思想のあり方」で丸山眞男は、現実と虚構(=イメージ)をかなり分かりやすい言葉で説明している。だから以下に続ける少し長い引用は前述した文学の問題を考える上で補助線の役割を果たすであろう。

 「現代のようにコミュニケーションが非常に発達しますと(・・・)いつの間にか拡がっていったイメージが本物から離れて一人歩きをするわけであります。(・・・)われわれを取り巻く環境が(・・・)ますます世界的な拡がりをもってくるということになると、イメージと現実がどこまでくい違っているか、どこまで合っているかということを、われわれが自分で感覚的に確かめることはできない。つまり自分で原物と比較することのできないようなイメージを頼りにして、われわれは毎日毎日行動しあるいは発言せざるえなくなる(・・・)いいかえれば(・・・)われわれと現実の環境との間には介在するイメージの層が厚くなってくる」(丸山『日本の思想』p124-126)

 「こうしてイメージというものはだんだん層が暑くなるに従って、もとの現実と離れて独自の存在に化するわけでありまして(・・・)実際はそのイメージがどんなに幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実を作り出していく―― イリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。」(丸山『日本の思想』p126-128)

 この説明を端的に要約するなら、人間の一般的な認識において現実とイメージ(=虚構)は必ずしもハッキリと二分できるものではなく、そしてそこから始まる行為は以前の現実ではない新たな現実を生み出してしまうというわけだ。

 

 有川浩『明日の子供たち』

 サルトルから有川浩まで持っていくのはいささか強引に見えるかもしれない。しかしこの作品は、現実とイメージ、社会問題とその支援の在り方、個人内の倫理観などの様々な側面において示唆に富んでおり、もちろんここまでの引用文にも十分に合致した内容であることをまずは述べなくてはならない。

 そして以下に始める文章は単なる読書感想というよりも、ある種の切実さを核とした説得であると言わなければならないだろう。当然だがこの作品も他者に対峙する現実的な行為であり、さらにはもちろん虚構なのだ。しかし丸山的な認識論的解釈によって、この問題はある種の止揚に至ったと考えられる。そこでこの二段階を踏まえて、とりあえずこの作品の紹介文だけを引用しておこう。

「想いがつらなり響く時、昨日と違う明日が待っている!児童養護施設を舞台に繰り広げられるドラマティック長篇。諦める前に、踏み出せ。思い込みの壁を打ち砕け!児童養護施設に転職した元営業マンの三田村慎平はやる気は人一倍ある新任職員。愛想はないが涙もろい三年目の和泉和恵や、理論派の熱血ベテラン猪俣吉行、“問題のない子供"谷村奏子、大人より大人びている17歳の平田久志に囲まれて繰り広げられるドラマティック長篇。」(Amazonから) 

 この短い紹介文だけを読んでどう思うだろうか。もしかしたら道徳の教科書代わりに中学生が読む美談小説ぐらいにしか思えないかもしれない。つまり「この子達はかわいそうだ。優しくしてあげなければならない。親切にしてあげなければならない・・・云々」というように。しかしこの数行の中には既にこれまで書いてきた文章にとって重要で切実なキーワードが含まれている。
 それは「思い込み(=かわいそうな子供たち)」という言葉である。そして「社会一般のイメージ(=現実化してしまった虚構)」としても置き換えられるそれを、現実の身の回りではあまり知ることのない、つまり思い込みが現前化しやすい児童養護施設を舞台にして物語を描いている。だからこの作品(=虚構)は、虚構(=イメージ、思い込み)を描くことによって虚構が二重化した世界だと言えよう。

  ではあえて問うならば、この作品は現実から乖離した「お涙ちょうだい」的な物語であろうか。感傷に浸るための単なる消費物にしか過ぎない、取るに足らぬ作品だろうか。しかしすでに書いたように、お察しかもしれないが、この現実においても児童養護施設という単語だけで一般的に連想されるのは「かわいそうな子供たち」だろう。なんせ普段の日常でこのような子供たちの原物と出会う機会はほとんどない。つまり何が言いたいのかというと、これは丸山的な認識をそのまま物語化した問題提起の作品なのだ。

  そしてこの作中には「かわいそう」の一言で片づけられるような短絡さでは語りえない何人かの登場人物たちの事情と心情とが描かれており、さらには実存的な問題であるところの経済的な不平等が物語を「現実よりも現実的」たらしめている。

 急いで付け加えなければならないが、「現実よりも」というのは僕の認識による現実であり、有川は様々な参考文献を参照し、実際に取材も行っている。だから物語の結末としては予定調和的であったとしても、しかしその過程や中身においては現実由来のものだと考えられる。

 ところで、この作品での有川の本当の狙いはなんだったのか。それを端的に言うならば、虚構(=小説)のなかでの虚構(=「かわいそうな子供たち」という認識)を書き換えながら、それと同時に一気に逆戻ってこの現実の社会における虚構(この問題に対する一般認識)をも書き換えようとする試みではないだろうか。

 以上の文脈から、現実世界は即物的な何かによってのみ変わるのではなく、そもそも現実と虚構は互いに連関しながら構築し合っているものであって、だからこそ文学は虚構をはみ出して現実に作用しうるのではないだろうか。

 

 

 

 

このブログを始めるにあたって

新しく始めよう

 このブログを始めるにあたって、その趣旨や方向性などをいくつか述べておきたい。まずは僕の関心が変わっていく度に記事のテーマも変化していくということだ。なぜなら、僕は現時点では学部生であって様々なことに興味を持っているのだから、今後もどんどん興味の対象が変わっていくことが予想できる。

 しかし今後ずっと書き続けていこうと思っている題材もある。それは哲学や思想を中心とした人文学と社会問題についてだ。確かにこの二つは次元としても学問分野としてもだいぶ違うように見える。しかし僕にとって興味のある哲学は、社会や人間一般における多種多様かつ日常的な問題意識を抽象化したテーマを扱うので、そこにはなんらの不規則性も無く、むしろ抽象と具体や理論と実践を結びつける、テクスト上での意識的な実験としてこのブログを位置付けている。

 だからこのブログの基本的なスタンスとしては、哲学などの書物の読書メモと意見や疑問、そして社会問題に関する本の読書メモ、さらにはそういった問題の解決にあたる団体に対する取材活動とそれを通しての考察を書いていきたい。だから個人的な内容は書かないし、まずはテクストの客観性を大事にしたいと思う。しかし現場を歩いた経験については別だろう。つまり自分自身の「社会を見る目」を養うためにも主観的な認識を無下に扱うわけにはいかないということだ。まずはとにかく「読みっぱなし」や「やりっぱなし」を避けるべきであって、読書にしても経験にしても血肉化の作業を怠ってはならないのである。

 こうした事情からブログの名前をどうしたらいいものかとても迷っていた。僕の内面においてはある程度きちんと整合性があるのにも関わらず、それをタイトルとして提示するには僕の語彙が足りないせいで、ここ1週間ぐらいずっと考えていた。そうして考えたのが、将来のことも決まらずあいまいな状態にある僕自身の状況すらをも表す名として『複線的な文脈の上で』とした。

 

このブログの目的

 内容はすでに書いた通りだが、そもそも「何のために書くのか?」という問題が残っている。これについてはある程度個人的な事を書かねばならないだろう。いきなり前言撤回とはテキトーなヤツである。もちろん今後は書かないけども。

 さて目的についてだが、実は2012年に世界を旅していた時以降、個人的な日記から本の内容や思索についてまで様々なことを書き散らかしていたブログがある。これはこれで別に続けていく予定なのだけども、一方できちんとしたレポートのような文章を書く機会が足りていなかった。つまり既存のブログは自分のための文章に終始していたわけである。

 しかしそうした内容は、僕個人の知り合いしか読まないだろうし、しかも興味を持って読んでくれる人はさらに少ない。だが僕自身の今後の方針で唯一ハッキリしている事として「文章を書いていく」ことを決めたので、不特定多数の人たちに読んでもらえるモノを書かなければならない。というより、むしろもっと色んな人に読んでもらえるモノを書きたいという欲求から、このように別のブログを作ったわけだ。

 そして僕はとても欲張りなので、たくさんの人に対して僕にとって知ってほしいことを書きたい。つまり哲学をはじめとした学問と教養の面白さや、多種多様な社会問題について、僕の言葉で伝えたいわけである。

 「多種多様な社会問題」と書いたが、実は僕もこの日本社会についてよく知らない。なんせ浅学無知で能天気な大学生だから、という言い訳もできないほどに僕は何も知らない。というわけで僕自身が自ら学び知りながら、同時にそれを発信したいと思う。つまり「社会に出る」という言葉に反して、すでに「社会に居る」ということの自覚の下に動きながら考えたい。周囲10mが平穏ならそれでいいとは、僕は決して思えないのだ。

 

言葉の可能性

 最後に、このブログの究極的な目的について、というよりも理念的な部分について書いておこう。まず今の僕は「言葉」に強い執着がある。ある種の信仰めいた感覚さえある。こう言うと何か怪しげな雰囲気があるが、しかし問うならば根源的な自分の根拠とは何だろうか。自分が唯一無二の自分たりえる条件とは何だろうか。言い換えるのならば、他者との差異とはどこにあるのだろうか。たぶんその答えはいくらでもあるだろう。僕の場合はその答えに言葉を見い出す。僕が編み出す言葉にこそ僕が在ると思う。

 さらに言うのならば、他者との間にある絶望的なほどの断絶さえも言葉は、否、言葉こそが飛び越えていくのだと感じている。そうして人は世界を繋ぎ止めていく、紡いでいく、織り成していくのだと僕は信じている。だからこのブログはその実践の場である。

 僕は書く。誰かのために。そして僕自身のために。