内部生活者の手記

読書記録と雑文集

サルトルの論争、丸山眞男、そして有川浩『明日の子供たち』

 「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」

 この有名な一節は、1964年にジャンポール・サルトルがLe Mondeのインタビューで「言葉」について発言したことであり、文学界をはじめとして論争を呼んだ話題だ。このことについて解釈を加えるなら、サルトルは文学を単なる経済問題の次元に引き戻そうとしたわけではなく、それよりもより鋭い問いかけ、つまり飢えた子どもたちがいる世界における文学の政治的・経済的な闘争を見据えていたのだろう。

 これについて大江健三郎は、同時代の作家イブ・ベルジェの主張であるところの「文学がなにものかに奉仕するためのものでなく、人生そのものでもなく現実でもないことを認めている。(・・・)人生において人間が幸福だとか不幸だとかのために、人は小説を書くのではない。そうではなくて、死が人間を不幸にするからこそ、人は小説を書くのだ。(・・・)(書く行為によって)自分が不幸であり(・・・)そして、飢えた子どもたちのことを忘れる。(・・・)文学とはあいかわらず、個人的な救済の試みである」(大江『書く行為』p9)を紹介する。そして大江自身の立場は、サルトルの立場とベルジェの立場を「つねにフリコ運動している」のだと言明している。

 確かに言葉は言葉でしかなく、また文学という虚構の構築は個人的な救済の方法になりえる。しかし一方では言葉によって政治や経済や歴史ひいては世界が構築されているという事実にも直面するわけである。では改めて文学とは、他者と対峙するような現実的な行為においては二次的なモノに過ぎず、その価値は飢えた子どもの前では皆無であるだろうか?

 

 現実とイメージ -丸山眞男『日本の思想 』

 以上の文章から、文学における「現実性と虚構性」の対立が浮かび上がってくる。だがしかしそもそも文学は本当にその内面で対立しているのだろうか、という拭いきれない素朴な疑問を抱くのである。

 『日本の思想』の第三章「思想のあり方」で丸山眞男は、現実と虚構(=イメージ)をかなり分かりやすい言葉で説明している。だから以下に続ける少し長い引用は前述した文学の問題を考える上で補助線の役割を果たすであろう。

 「現代のようにコミュニケーションが非常に発達しますと(・・・)いつの間にか拡がっていったイメージが本物から離れて一人歩きをするわけであります。(・・・)われわれを取り巻く環境が(・・・)ますます世界的な拡がりをもってくるということになると、イメージと現実がどこまでくい違っているか、どこまで合っているかということを、われわれが自分で感覚的に確かめることはできない。つまり自分で原物と比較することのできないようなイメージを頼りにして、われわれは毎日毎日行動しあるいは発言せざるえなくなる(・・・)いいかえれば(・・・)われわれと現実の環境との間には介在するイメージの層が厚くなってくる」(丸山『日本の思想』p124-126)

 「こうしてイメージというものはだんだん層が暑くなるに従って、もとの現実と離れて独自の存在に化するわけでありまして(・・・)実際はそのイメージがどんなに幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実を作り出していく―― イリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。」(丸山『日本の思想』p126-128)

 この説明を端的に要約するなら、人間の一般的な認識において現実とイメージ(=虚構)は必ずしもハッキリと二分できるものではなく、そしてそこから始まる行為は以前の現実ではない新たな現実を生み出してしまうというわけだ。

 

 有川浩『明日の子供たち』

 サルトルから有川浩まで持っていくのはいささか強引に見えるかもしれない。しかしこの作品は、現実とイメージ、社会問題とその支援の在り方、個人内の倫理観などの様々な側面において示唆に富んでおり、もちろんここまでの引用文にも十分に合致した内容であることをまずは述べなくてはならない。

 そして以下に始める文章は単なる読書感想というよりも、ある種の切実さを核とした説得であると言わなければならないだろう。当然だがこの作品も他者に対峙する現実的な行為であり、さらにはもちろん虚構なのだ。しかし丸山的な認識論的解釈によって、この問題はある種の止揚に至ったと考えられる。そこでこの二段階を踏まえて、とりあえずこの作品の紹介文だけを引用しておこう。

「想いがつらなり響く時、昨日と違う明日が待っている!児童養護施設を舞台に繰り広げられるドラマティック長篇。諦める前に、踏み出せ。思い込みの壁を打ち砕け!児童養護施設に転職した元営業マンの三田村慎平はやる気は人一倍ある新任職員。愛想はないが涙もろい三年目の和泉和恵や、理論派の熱血ベテラン猪俣吉行、“問題のない子供"谷村奏子、大人より大人びている17歳の平田久志に囲まれて繰り広げられるドラマティック長篇。」(Amazonから) 

 この短い紹介文だけを読んでどう思うだろうか。もしかしたら道徳の教科書代わりに中学生が読む美談小説ぐらいにしか思えないかもしれない。つまり「この子達はかわいそうだ。優しくしてあげなければならない。親切にしてあげなければならない・・・云々」というように。しかしこの数行の中には既にこれまで書いてきた文章にとって重要で切実なキーワードが含まれている。
 それは「思い込み(=かわいそうな子供たち)」という言葉である。そして「社会一般のイメージ(=現実化してしまった虚構)」としても置き換えられるそれを、現実の身の回りではあまり知ることのない、つまり思い込みが現前化しやすい児童養護施設を舞台にして物語を描いている。だからこの作品(=虚構)は、虚構(=イメージ、思い込み)を描くことによって虚構が二重化した世界だと言えよう。

  ではあえて問うならば、この作品は現実から乖離した「お涙ちょうだい」的な物語であろうか。感傷に浸るための単なる消費物にしか過ぎない、取るに足らぬ作品だろうか。しかしすでに書いたように、お察しかもしれないが、この現実においても児童養護施設という単語だけで一般的に連想されるのは「かわいそうな子供たち」だろう。なんせ普段の日常でこのような子供たちの原物と出会う機会はほとんどない。つまり何が言いたいのかというと、これは丸山的な認識をそのまま物語化した問題提起の作品なのだ。

  そしてこの作中には「かわいそう」の一言で片づけられるような短絡さでは語りえない何人かの登場人物たちの事情と心情とが描かれており、さらには実存的な問題であるところの経済的な不平等が物語を「現実よりも現実的」たらしめている。

 急いで付け加えなければならないが、「現実よりも」というのは僕の認識による現実であり、有川は様々な参考文献を参照し、実際に取材も行っている。だから物語の結末としては予定調和的であったとしても、しかしその過程や中身においては現実由来のものだと考えられる。

 ところで、この作品での有川の本当の狙いはなんだったのか。それを端的に言うならば、虚構(=小説)のなかでの虚構(=「かわいそうな子供たち」という認識)を書き換えながら、それと同時に一気に逆戻ってこの現実の社会における虚構(この問題に対する一般認識)をも書き換えようとする試みではないだろうか。

 以上の文脈から、現実世界は即物的な何かによってのみ変わるのではなく、そもそも現実と虚構は互いに連関しながら構築し合っているものであって、だからこそ文学は虚構をはみ出して現実に作用しうるのではないだろうか。