春休みの読書感想文①

 春休みが終盤に入ったので、この期間に読んだ本のうち4冊について感想と考えたことを書こうと思う。ちなみに、この記事はただの自己満足でしかなく、思いつきの文章でしかない、一介の読書人による暇つぶしである。

 前回の『年間100冊読んでみて思ったこと』では、だいぶ大雑把に一言のコメントしか載せなかったが、今回は僕自身の関心に強く響いた4冊に絞って書こうと思う。リストは以下である。ちなみにこの記事は初回なので『地下室の手記』だ。

ドストエフスキー地下室の手記

・ミシェル ウエルベック素粒子

・秋山駿『舗石の思想』

芥川龍之介『河童』

 

 これらを選んだ理由は「印象に残っているから」ということでしかないが、並べてみると「精神-自意識」と「社会-時代」との関係をどれもが明確に描いていることに気付いた。たぶん、僕の問題意識はこのへんにあるのだろう。

 感想文を書く前に、この関係について少しだけ自分の見解を書いてみたい。これは僕がどんな視点で本を読んでいるのかという話でもあるかもしれない。まぁこんな話に興味がある人は相当な物好きだけだろうから、退屈ならば読み飛ばしてもらって構わない。

 

 以前に「人生を変えた本は何ですか?」という質問に答えたことがある。その時の僕の回答は、沢木耕太郎深夜特急』、カミュ『ペスト』、キルケゴール死に至る病』だった。

 この答えについて、ある人から「30、40年前の大学生みたいなセレクトだな」と言われた。読んでいる本、特に気に入っている本は、その人の内的な性格を端的に表すと思う。現に自分の本棚や読んでいる本は絶対に他人には見せないという人もいるぐらいだ。読書はそれだけプライベートな領域でもあると言える。もちろん本に対する考え方はそれだけではないし、僕は他の人の読んでいる本を知りたいと思い、知ってほしいとも思うタイプだ。

 

 ところで、この「生まれる時代を間違えた」ようなセレクトは、僕の内的な性格を表すだろうか? 少なくとも「内的」という意味においては核心を突くような気がする。

 これらの本は、精神の「暗部」もしくは「陰鬱」を、その情景描写や分析的な考察によって表象している。ともかく形式は何であれ、スクリーンとしてのこれらの本に自らの精神-自意識が投射されることによって、精神-自意識を自覚させられてしまったことによって、「人生が変わる」ほどの衝撃を受けたのである。

 しかし、この言い方だと一面的な紹介にしかならない。大事なことは、この「精神-自意識」と「社会-時代」との関係において、これらの三冊は書かれているということである。

 この三冊のジャンルは全く違う。ヒッピー系の旅小説、実存主義的な不条理小説、絶望の心理に関する哲学書と、確かにバラバラではある。ただやはり精神と社会との対峙という点において通底しているように僕は思う。

 というのも、『深夜特急』では旅人として通過する様々な地域や人間模様を、『ペスト』では日常に突如として現れた非常事態に巻き込まれる人間社会を、『死に至る病』ではキリスト教的な共同体の生活を、これらを意識した上で書かれているからだ。

 

 精神と時代、もしくは自意識と社会。この関連を堅苦しく遠回しな言い方で述べる必要はない。たんにそれぞれが社会や時代に対して抱き感じる疎外感や安心感、「流行に乗っている」ような感覚、他人やある出来事に対して賛否両論が自分のなかに渦巻くような気分、これらを思い起こしてもらえればよい。

 これでも分かりにくいなら、よし、言い換えよう。世間に対する自分の気持ち、とでも言えばいいだろうか。気持ち、それは厭世感、隔世感、そうした言葉で表せるかもしれないし、もしくは反対に心地よい同調や共感の気持ちかもしれない。僕の場合は前者の気持ちになることが多い。それは若いからだろうか。僕は知らない。

 ともかく、世-間にしても人-間にしても、それか「世間的人間」とでも言おうか、この「間」を鋭く切り取る文章に僕は惹かれるのである。世間と人間との心理的な共空間・共時間の、その様相や物語を、どのように作家が描いてみせるのかが僕の読書人としての視点である。

 

 そして今回の読書感想文は、この「間」というキーワードを基軸に書いてみようと思う。このキーワードは上記に挙げた4冊のどれにも適用できると思う。『地下室の手記』は、地下室に引き籠る男の個人的な信条と理性万能の世界。『素粒子』は、ある男とその関係者をめぐる性とフランス社会。そして『舗石の思想』は、作者自身の空虚な自己像と戦後の日本社会。最後に『河童』は、とある精神病者が妄想を独白するところから始まる河童の世界、しかしそれは人間文明に対する痛烈な批判でもある。

 

 さて、序文で2000字近くなってしまったが、まぁこんなものを読む人は相当な暇人に違いない。僕は暇人に遠慮はしない。僕も暇人だから知っているが、この有り余る時間の使い方ぐらい読者はよくわかっているはずである。

 便利で有益な情報だけを効率よくインプットしたいヤツらは、ここに辿り着く前にうんざりしてブラウザを閉じているはずであろう。彼らは目を血走らせながら「役に立つ」ような情報でもかき集めていればよいのだ。

 そして、今この部分を読んでいる読者はきっと「暇の愉しみ方」を知っていると思うからこそ、僕は本編へと書き続けるのである。

 

ドストエフスキー地下室の手記

 ドストエフスキーとはどんな人であるとか、作品に関してどんな研究がなされているだとか、そういったことには言及しない。あくまで僕がこの本を手に取った個人的な理由だけに留めておく。

 ここ最近の僕の読書は、実は父親の影響に因るところが大きい。僕はフランス文学が一応は中心だが、父の場合はロシア文学だったそうだ。そして学生時代にはドストエフスキー作品にかなり傾倒した時期があったらしい。それがドストエフスキーを読もうと思った理由である。

 しかしなぜ『地下室の手記』だったかというと、これまた大した理由ではないのだが、単純に分量が多過ぎず、ブックオフで250円だったからだ。僕は基本的に中古本でしか本を買わない。新刊や新品などを買える金がない。

 本を選ぶとき、僕はあまり躊躇しない。とんでもない長編や、まったくの専門外(例えば自然科学系とか)でない限り、面白そうだと思ったら買ってしまう。これが積読本を増やす原因でもあるわけだが、しかし古典にも抵抗が無くなったおかげで幅広く読書ができるようになったと思う。

 

 話を『地下室の手記』に戻そう。

 この本の内容を僕なりに紹介するなら、あらすじは次のような話になる。前半は「地下室」で貧しくて偏屈な男が自分の空想や信条をひたすら雄弁に独白し続ける。後半ではその男が外に出て学生時代の知り合いたち(しかし仲は良くない)と一緒に食事をするのだが、まったく相手にされず、バカにされもする。そしてなりゆきで娼館に行くことになり、そこで一人の哀れな娼婦に対して自分の人間観や倫理観を半ば説教のようにべらべらと喋ってしまう。最終的にはその娼婦に自分の貧相な生活を見られてしまい、沈鬱な悲劇のうちに「手記」は終わる。

 この本は作中でも「小説ならヒーローが必要だが、ここにはアンチ・ヒーローの全特徴がことさら寄せ集めてあるようじゃないか」と書いてあるように、ひどくカッコ悪い、悪役にすらなれない男の話である。だから「アンチ・ヒーロー」なのであって、ヒールではない。悪役は、それはそれで強い存在として描かれることが常だと思う。しかしこの地下室の男はハッキリ言って「口だけの雑魚」である。

 「口だけの雑魚」な男が、空想の中だけの雄弁さと、実存的な生活における貧弱さとの、その間で自意識を肥大させていき、どんどんと心が捻じれていく様子に、僕は強く共感を覚えた。なぜ1864年から現在に至るまで広く長く読み継がれてきたのか、それは確かに文学史的に重要な意味を持つからなのかもしれないが、一般読者にとってはそんなことよりも、この僕の自意識を介した共感の方が根拠としては強いのではないだろうかと思う。

 しかしこれは単なる惨めな男の話に留まらない。僕が最も共感し感激したのは次の諸部分である。少々長いが、引用する。

 

「だいたいが諸君は、ぼくの知るかぎり、人間の利益の賃借表を作るのに、統計表や経済学の公式から平均値をとってきたのではなかったか。諸君のいう利益とやらは、要するに、幸福とか、富とか、自由とか、平穏とか、まあ、そういったたぐいのもので」p34

 

「(上記に反して、人間は、)理性にも、名誉にも、平和にも、幸福にも ――― 一口でいえば、これらの美にして有益なるものすべてに逆らっても、なおかつ自分にとってもっとも貴重な、この本源的な、有利な利益を手に入れようとするのではないだろうか。(中略)大事なことは、この利益の注目すべき点が、これまでのあらゆる分類表(=幸福に関する諸々)をぶちこわし、人類の幸福のために人類愛の唱道者たちが作りあげた全システムをつねに叩きこわすものであることだ」p35-36

 

「にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときがきて、そうなれば古い悪癖(=野蛮さ)のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる」p38

 

「どうです、諸君、この理性万能の世界をひと思いに蹴とばして、粉微塵にしてしまったら。なに、それも目的があってのことじゃない。とにかくこの対数表とやらをおっぽりだして、もう一度、ぼくらのおろかな意志どおりの生き方をしてみたいんですよ!」p40

 

「もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ」p42-43

 

「ところで人間が、そんな突拍子もない夢想やら、あさましいばかりの愚劣さに必死でとりすがるのも、ただただ、人間がいまだに人間であって、ピアノの鍵盤ではないことを、自分で自分に納得させたい(まるでそれが絶対不可欠事ででもあるように)、そのためだけにほかならないのだ」p48

 

 引用は以上である。これを読んでどう思っただろうか。不快に感じただろうか、それとも嫌気が差しただろうか。しかし僕は嬉しかった。なぜなら、自分と同じ感情を持っている人間に、これを読んで初めて出会えたからだ。

 これらの引用を僕なりに解釈するならば、ここで今回のキーワードである「間」を使うわけだが、理性万能の世界と自意識との間に厭世感が生じているのである。この厭世感は屈折しているように見えるかもしれないが、約150年を経た今となっては、深刻な切実さを帯びつつあると思う。

 アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」を観た人は、p42-43の引用がまさにサイコパスの世界観そのままだということに気付いたかもしれない。しかしこれは現実にも起きつつあることで、例えばAmazonが検索履歴から自動的に推察して「あなたにお勧めの書籍」をメールしたり、Gunosy が自分の興味に合わせてニューストピックを選別してくれたり、就活生がウェブ上で職業診断テストを自ら進んで受けていたりする。そして様々なメディアに表れるCMや広告、消費欲求を喚起させることを意図したコンテンツなどは、それを見た個人が合理的な判断の下に商品を欲求するように作られている。

 『地下室の手記』では書かれた時代を考えれば、近代的な自然科学と啓蒙主義が隆盛した世界を意識して、それに自由意志や欲望を対置したのだろう。他方、現代はどうかというと、地下室の男が擁護したかった個人の自由意志や欲望自体が、既に合理的な、高度消費社会の資本主義経済にとって合理的な姿へと変容した状態であると言える。つまり人間の全ての欲望と行為が、もっとラディカルなことを言うならば「人間自身」が、「それいくらで売れるの?買えるの?」という目的にのみ収斂していくわけだ。

 結局のところ、地下室の男は「人間の不合理さ」を強く主張したのだと僕は思っている。この不合理な欲求、たとえ自分が社会一般的には不利と思われる選択をすることへの欲望、その自由を声高に叫ぶ姿に(しかしそれは他人からすれば惨めに映る)、僕は共感を超えて感動すらした。

 

 とりあえず、第一回目のドストエフスキー地下室の手記』はここまでにしようと思う。第二回目はミシェル・ウエルベック素粒子』の予定だ。

 

 

戦後70年、震災後4年、僕は人間22年目

「原点が存在する」 

 とても個人的な話からはじめたいと思う。

 僕はもうすぐ22歳になる。あの3.11に22歳となる。そのことについて僕個人だけが何か特別な運命のような観念を抱くのは、控えめに言っても妄執が過ぎるというものだろう。しかし事実は事実であり、その日に特殊な意味付けがなされた2011年以降、3.11の日はマスメディアやインターネットで死者の冥福を祈る言葉が溢れかえる、そしてそんな日が僕の誕生日となっている。

 あの時、僕は高校卒業を数日前に控えて友達と昼ごはんを外で食べていた。突如として大きな揺れが来ると、そのあまりの異常さに表現しえない困惑を感じたことを覚えている。すぐに友達の数人が携帯電話でテレビのニュースを見ると、事態がただならぬことを伝えるばかりで、その後は店員に促されて外へ出た。

 家族の安否を確認してからというもの、家でひたすらテレビを見続けていた。当時の自分の日記を読む限り、そこから察することができるのは、「この事態が一体何なのか分からないということの不安」と「自分自身の倫理観が問われていることの切実さ」である。

 結果として、3月の約2週間だけ仙台市若林区の役所が募集するボランティアに参加して、主に沿岸部のガレキ撤去作業をやったわけだが、思えばあれが初めての一人旅であり、今の僕の「原点」だったのかもしれない。活動内容に関しては言及しない。問題はそれではなく、あの震災直後の仙台から4年を経て考えたことである。

 まず衝撃的な風景よりもまして、記憶はあの場所の人へと吸い寄せられる。勤め先の会社が跡形もなくなった人、家族を亡くした人、多くのクラスメイトを亡くした同い年の女の子、自分の家が全壊してしまった人、僕は泥作業の現場で、喪失の深淵が開いたその場所で、幾度となくそうした人たちに出会った。

 灰色の空に覆われた混沌の陸地で、黙々と手を動かすあの姿を、忙しなく駆け回る姿を、淡々とした表情の下に底知れぬ何かを抱えるあの人たちを僕は忘れない。

 しかし僕は今でも、そしていつまで経っても、あの人たちの気持ちを理解することはできないだろう。共感も同情も代弁も、自らの想像力の貧しさを露呈するだけだ。この想像においてできることと言えば、震災という現象の多面性と変容を前提にすること、そして想像力の限界を意識しながらも、それでも様々な他者を捉えんとする想像の運動を止めないことだろう。

 

 

「特別な日」

 1年間という歳月のなかには、社会的に何らかの意味づけが施された日が様々に存在する。しかし戦後に定められたいくつかの祝日や祭日の無根拠さについて、福田恒存は『文化なき文化國家』の「紀元節について」で批判的な論考を展開した。というのは、各種の祝日に一貫した文化の有機的統合(たとえば農耕社会の生活サイクル、もしくは神話としての天皇を巡る歴史的な物語)が存在しないということだった。

 それではたんなる祝日ではなく、特別な意味合いを持つ日といえば、8月6日と9日の広島・長崎に原子爆弾が投下された日や、8月15日の終戦記念日などがある。3.11はこちらの文脈で意味付けられているように思われる。すなわち、福田が批判したところの「一日休みが増えるだけ」といった意味合いではないということだ。

 国民全体の感情を揺り動かす日、とでも言えばいいのだろうか。しかし93年生まれの僕にとって終戦記念日敗戦記念日と言った方がいいだろうか)は、正直に言ってリアリティの欠片もない。不謹慎なことを言うようだが、戦争の記憶がとっくに風化し切ったあとの時代に生まれた僕にとって、それは歴史の教科書のなかでしか見ることができない。

 他方で、震災の記憶は強烈なリアリティ、いやリアルであったのかすら不安になるほどの衝撃的な経験は、確かにその日が来れば嫌でも思い起こさざるをえない。一瞬にして日常の景色から色彩と音を消去したような、散々VTRやらドキュメンタリーを見たこの今でも“ハッキリしない”光景が、3.11のたびにフラッシュバックする。

 急いで付け加えねばならないが、これは「だから終戦記念日はどうでもいいんだ」といった類いの主張では断じてない。ただの実感として、しかし素直にそれを言葉にすることが憚られるようなこと、それを述べたまでのことである。

 特別な意味合いを持つ日付を巡る一連の話で何が言いたいのかというと、僕の内的な実感とは関係なく、世間もしくは社会では二つの日に関して同じような言説が大声で飛び交うであろうということだ。悲しい記憶、繰り返してはならない出来事、生命の尊重etc・・・。

 終戦と震災の日を同様に扱って追悼を重々しく語るたくさんの口に、個別の特殊な出来事を平板化してしまうような言説に、僕は不信感を覚える。さらに言えば、その日が来たからという理由で、突然思い出したかのように平和や戦争や政治を語り始める集団的な状態に、僕はある種の恐ろしさを感じる。

 これも急いで付け加えねばならないが、「だから黙れ」というわけではない。まったく無いよりは何かあった方が良いのだから。ただ僕が不信に思い、恐れを感じるのは「二つの日を同様に扱って」と、「突然思い出したかのように」という二つのことに対してである。

 この感情をハッキリと言葉で理由づけることはなかなかに難しいが、それに近いようなことを次項に続けたいと思う。

 

歴史認識と社会」

 8月15日と3月11日ついて順に書いていこう。

 まず前者からだが、僕の認識としては、敗戦記念日は全ての国民に反省を促す日であり、民主主義と平和主義を約束する日でもあったはずだ。一方で後者は、その民主主義や平和主義といった理念に対する国家と国民の怠惰が露わになった日であるように思う。

 何を根拠にそう考えるのか?それを一介の学生が述べるのは気が退けるが、端的に申し上げれば、時の政府が「なんとなく」戦争に突っ込んでいき、それに国民も流されてしまったのと同じように、原発を「なんとなく」政府と国民は使い続けたわけで、そのことを丸山真男は自立した個人なき「無責任の体系」と評した。

 一体なぜこのような状態が続くのか。それは丸山の議論では、当時の天皇を頂点とした上から下への権力関係が下位への「抑圧移譲」を生み、結果として誰もが主体として責任を負わない体制になってしまうという主張に拠っている。

 しかしこれは別に戦前・戦時だけに限った話ではない。読者の皆様も経験したことがないだろうか、仕切ってくれる人が現れた途端に誰もがその人任せにしたり、勝手に仕切られたら次第にやる気が無くなってくるような気分を。

 それが権力のタテ構造における弊害であり、現在にまでその構造は保存され続けているように思われる。こんなことは戦後ずっと言われ続けてきたことなのだろう。

 ただし、こうした構造が存在しているからこそ、「無責任の体系」を原因とした二つの出来事の違いは大きいと僕は思うのである。というのは、震災後のこの現状において、敗戦直後のようなアメリカ主導の直接的な社会変革はありえないし、国民の反省とやらも既に空虚なものとなっているわけだ。つまり「無責任な大人たちを責める」といった敗戦後のやり方だけでは全く足りなかったということが震災によって分かったのである。しかし、世間ではそれを繰り返す言説ばかりが横行しているように思える。

 遠回しに言うのが面倒くさいのでハッキリ言うが、この現在においては、「反省のポーズ」も「責任追及の叫び声」も、そのどちらもが僕にとっては虚しい所作のように見えてならない。べつに「反省なんてしなくていい」とか「責任を追及するなんて無駄だ」とか言いたいわけではない。ただ反省にしても責任追及にしても、主体としての自己がどこにあるのかさっぱり分からないということだ。現在という時間と、自己自身の立場が、あいまいに伏されたままである。

 ところで、そんな所在不明の状態を表す例として挙げたいのが「社会に出る」という使い古された日常的な言葉である。確かにこれは言葉遊びに過ぎないのかもしれない、しかしそこに僕はある集合的な無意識を感じる。

 というのも、社会に「出る」ということは、出る以前の時間と場所が存在することを示唆するものであるが、これは「嘘っぱち」に相違ないのである。なぜならば「社会に外はなく、我々は既に社会に居る」のだから。これはちょっと考えてみれば分かる話で、何の人間関係もなく生きている人がこの現代社会に一体何人いるだろうか?ほとんど皆無なはずである。

 では、一体この言葉は何を意味するのだろうか?まず対象の大半は学校に所属している子どもたちだろう。しかしそれにしてもおかしい、学校は社会ではないのだろうか?子どもたちは社会の一員ではないのだろうか?そして働いていない人たちは?老齢な人や生活保護受給者は社会の一員ではないのだろうか?

 しかしそれでもまぁいいとして、では「社会に出た」としよう。会社勤めをしている人間が社会の一員であることに違いはない。しかしその会社だけが社会ではないだろう。他にも「社会」はあるのではないだろうか?例えば、行政区議会の選挙から総選挙までの各種投票に行かない人は民主主義社会に参加していると本当に言えるのだろうか?そして投票だけでなく、最終審議は国民の手によって行われなければならない諸問題、原発や死刑制度や安全保障や改憲など、これらについて各個人はどれだけの知識を有しているだろうか?

 話を戻そう。戦後の平和と繁栄という物語に内在していたのは、「大人たちの反省」と「大人たちに対する責任追及」という態度であったのだが、それがどんな帰結をもたらしたのだろうか?まさに前述した「社会に出る」という言葉に表れるところの、無意識的な疎外と怠惰である。

 白井聡は『永続敗戦論』で、そんな戦後の期限が切れたことをハッキリ次のように述べている。

 「この二十年の間に、民主主義の虚構は暴かれ、平和は軍事的危機へと向かいつつあり、経済的繁栄は失われた。もはやしがみつくべき「戦後」はどこにも見当たらず、満足すべき現状などどこにも存在しない。」

 すなわち「戦後」は終わったのである。あの3.11を境に崩壊したとも言える。

 それなのに「あのような出来事を二度と繰り返してはならない」と叫ぶ声は終戦記念日に加えて、3.11にまたしても繰り返される。マルクスは言う「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と。3.11以降に「戦後民主主義」や「平和主義」を叫ぶことは、もはや茶番なのかもしれない。

 

「國体護持と民主主義」

 インターネット内での政治的言説に関心が無い人は、ネトウヨとかリベサヨといった単語に馴染がないかもしれない。まぁ要はネットスラングだと思ってもらえばいい。この二つの単語は、政治的立場をざっくりと示している。僕の認識では、天皇=國体護持を国民の求心的中核に据えたい側をネトウヨ、民主主義や人権といった概念を社会の基盤としたい側をリベサヨだと思っている。

 ところで、國体とは何かと言えば、天皇を中心とした国家に対して個人が自ら進んで犠牲となるシステムのことである。こう言うと非常に偏っているので、もう少し説明すると、天災や戦争といった個人ではどうしようもない場合に、自分の利害を捨てて国家を護る、その動機として天皇がいわば神的な存在として顕現することである。

 この天皇=國体護持という仕組みに対して、たいていの人はある種の不気味さ、もしくは馴染めなさを感じるのではないだろうか。しかし一方で、これを熱心に復活させたいと願う人たちがいることも事実である。すなわち愛国的な日本人が普通であると、日本は戦争に負けたわけではなく、ましてやアジア諸国になど劣るはずもないと言いたい人たちのことである。しかしそれでは何故アメリカには対峙しようとしないのだろうか?と、愛国者を名乗る総理大臣をはじめとした親米保守の人々に僕は問いたい。

 そして「美しい国、日本」をスローガンに掲げる人々が愛国保守だと名乗るなら、僕はその保守論壇における大家にお話を伺ってみたいと思う。福田恒存『文化なき文化國家』の中にある「世代の斷絶といふ事」の177ページから以下に引用を記す。

 「近頃は、その反動(過去で負けた大人たちに対する否定)として、良く「愛國心」といふ言葉を耳にしますが、私達が自分の國に愛情を持つためには、自國が世界で最も美しく最も善い國であり、一度も間違ひを犯した事が無い國である必要が何處にあるか。自分の國だから愛する、それ以外に何の必要もありますまい。」

 以上のように仰っている。僕はこの部分に関しては何も言うところがない。そして、これこそ「普通の日本人」の感覚ではないだろうかと思う。ネトウヨは戦後のこうした保守論壇の文脈をおさえているのだろうか?少なくとも僕にはそうは見えない。「戦後」を飛び越えて戦時・戦前の、決して回復しえない亡霊のような共同幻想に恋焦がれているように思える。

 他方で、リベサヨとは何かといえば、これも僕の認識でしかないが、要は戦後の民主主義に依拠した政治的にリベラルな立場である。しかし「歴史認識と社会」の項でも述べたように、戦後民主主義は怠惰に、すでに虚構へと堕していた。それなのに、インターネット上でネトウヨが騒ぎ出せば「反知性主義だ」とか「感情の劣化だ」とか、ヒステリックもしくは冷笑的に糾弾する。

 タイムリーな話であるが、そもそもリベサヨが依拠する人権においても「表現の自由」をはじめとしての様々な問題が解決していない、社会的な合意に達していないわけで、僕個人に関してはヘイトスピーチに対して反対であるが、しかしそれを全て排撃していいものなのだろうか?法律として禁じていいものなのだろうか?

 自分たちと意見や立場を異にする一定数の他者を、ネトウヨもリベサヨも共に排除の論理によって片づけようとしているように僕は見える。それは最終的には反-政治的なナチズムに通じるような気がしてならない。政治とは、各々の国家観としての物語を説得的に訴える行為ではないのだろうか。

 加えて両者は、国の構造に対してもまったく別の構図を見ているのではないかと思われる。というのも、はじめの方で前述したように天皇を頂点とした家父長制に基づく道徳の共同体が国民をタテに統御するのに対して、立憲民主主義は人民主権による統治と憲法による人権条項とに基づくヨコの構造という、権力関係の広がりにおいて構図の相違があるのではないかと思っているわけだ。

 ともかく、以上のような両者の分裂的な状況を、僕は日本の戦後政治の状態として見ている。

 

「絶対なき時代、もしくはニヒリズムの時代に」

 この章では前項の政治的対立を離れて、より一般的な既成事実としての国民に近づきたいと思う。これは誰々へという名指しの文章ではなく、むしろただの大学生である僕自身へ向けた文章なのかもしれない。

 「人はそれぞれ正義があって」と謳うSEKAI NO OWARI「Dragon Night」という曲が世間でその人気と共に話題を呼んだ。野暮なことを言うようだが、非常に色濃く時代性を反映した歌詞だと思う。つまり極端なことを言えば、何事に関しても「人それぞれ」が通用している時代だということである。

 これを裏返せば「絶対」の何かを退ける風潮とも言えるし、前項に照らし合わせてみればより分かりやすく現状を把握することができる。すなわち、國体に代わる何を民主主義において守るのか、それが未だ分からない=「人それぞれ」になってしまっているということだ。もう少し言えば、国という単位を維持するために何を国民的求心力として据えるのかという問題でもある。

 例えば、最近のフランスを見てみよう。表現の自由、つまり法を守るという名目の下にあれだけの国民が右派や左派を超えて「Je suis Charlie」を名乗り自治意識を顕わにする。そのリアクション自体が良い事なのか、悪い事なのか、それは措いておくが、ともかく国家が法を基盤としていることについて国民がよく理解していることを示す一例として見ることはできるだろう。

 翻って日本はどうだろうか?国民が全員一致で「これを守るべき」もしくは「あれを目指すべき」という何かはあるだろうか。少なくとも僕にはそうした何かが分からない。そしてこの社会に遍在するのはたった一つ、シニカルなニヒリズムだけだと思う。

 ニーチェは次のように言う。「ニヒリズムとは何を意味するのか。―――――至高の諸価値が無価値になること。目標が欠けている『何のためか』への答えが欠けているのである」(『力への意志』第二番)と。つまり「答えなんて無いんだよ」という言説だけが社会的に保持されているのである。

 この社会における虚無の専制状態、すなわち非-政治の感覚が、市場至上主義(言い換えれば「今日食うメシが大事」)と相まって「模索としての戦後以後の政治」の可能性を押し潰しているように僕には見える。そしてそれこそが当然であるかのごとく現状を支配している。

 ところで、戦後左翼の代表者であった小田実は『義務としての旅』のなかで、社会的な主流勢力=エスタブリッシュメントからの切り離し(dissociate)と、少数派への荷担(commitment)という二つの意識操作を、人種平等と機会均等という民主主義の重要な要素にそくして行うことが、反戦平和運動の原理だと論じた。これはあくまでベトナム戦争が起きていた当時の主張である。

 この切り離しと荷担を現状に適用するならば、皮肉にも小田実の主張した戦後民主主義を超えて、すなわちニヒリズム(=無目的)としての民主主義から自己を切り離し、荷担するその先(=民主主義において絶対に守らなければならない何か)を探さなければならない。これは白井聡が『永続敗戦論』の最後の部分で主張していたことと重なる。

 

「リンゴとパイ生地」

 この章で「荷担するべき何か」を書こうと思ってから3日が経った。正直なところさっぱり思い浮かばない。いわゆる「近代の超克」について前章で問題提起を行ったわけだが、考えれば考えるほど虚無感の底に吸い込まれるようである。

 僕のような凡人がこのようなことを考える事自体が間違っているのかもしれない。江戸的道徳観からすれば「身のほどを知れ」というところだろうか。しかし世間に対する「どうにもならなさ」に諦観を認めてしまうことこそ、無責任の体系に繋がるとも思えるわけである。

 しかし前項で説明したようなニヒリズムの状態をどれだけ分析的に記述したところで、どこまでいっても答えは出てこないのである。すなわち「リンゴ」をいくら分かり易く分解してみせたところで、いつまで経ってもそこから「アップルパイ」は出てくるわけがないということだ。

 だからこそ「パイ生地」を用意しなくてはならない。例えば、リンゴの欠片が僕であり、読者のあなたでもあるとする。そして僕らがそれぞれ別の個体のままならば、それは無秩序な状態である。すなわち、真っ白なお皿の上で四方八方へ転がっているだけで、放っておけばどんどん酸化していく生の素材である。

 それを避けるために、リンゴの欠片をパイ生地に包んで、周りにカスタードクリームでも塗ってオーブンへ突っ込まなければならないわけだ。(本当のアップルパイの作り方は知らない)

 この「アップルパイ」の喩えは、なにも関係ない事を言っているわけではなくて、現状を理解するために考えてみた一つの例である。

 戦後の日本社会は、戦時中の天皇中心主義国家に対する反動として様々なレベルで自由化・個人化が推し進められてきたのではないかと思う。先に申し上げておくと、僕はここでリバタリアニズムだの新自由主義だのという話に立ち入る気はない。この章では、あくまで一市民としての目線で政治を見ていきたいからだ。

 戦後社会の特徴、すなわち「生活の個人化」、それがどんな思想的背景を持つものであったとしても、これはある程度広範囲に渡って妥当するのではないだろうか。具体的に言えば、家には一人一部屋が与えられ、人生設計は自由競争の枠組みを前提に考え、そして一人一台以上は持っている携帯電話には、個人アカウントのSNSに接続できるアプリをいくつもインストールしている、ということだ。

 こうした具体例の根底に広がるのは、これまた「人それぞれ」である。しかし別に僕は生活の個人化すべてが悪だとは言わない。僕だってそうした環境のなかで育ってきたわけで、その良い部分をたくさん享けてここまできた。

 ただし個人化が「過ぎる」と思うこともあるわけで、それは何かと言えば、個人が何らかの社会に拠らなければならない場合である。集団的な行動を採る必要に迫られた状態とも言える。この場合に問題となってくるのは、この集団に内包される人々(=リンゴの欠片)を、どのようなルールや物語(=パイ生地)に乗せるのかという問題である。個人化が「過ぎる」と、この「パイ生地」の底が割れた状態になるわけだ。底が割れた状態、これこそが戦後日本の到達点であって3.11で明白になったわけだ。

 ところで、第二次安倍政権が成立して以降、国民は動揺しているように僕は感じる。動揺とは、より根本的な意味で言うならば、パイ生地の底(=戦後民主主義)が割れて散り散りになってしまった自分たちに対して、安倍総理(と、親米保守層)が提供する特定の歴史観としての物語(=別のパイ生地)を、自分たちが共有できるかどうかの以前に、その判断基準自体を喪失していることに薄々気づいているということである。

 しかしこの別のパイ生地ではどうも古びて馴染みがない、かといって底が割れたパイ生地では不安と虚無感に苛まれる。その両者の間でリンゴの欠片はコロコロと右往左往しているように見える。知識層の人々は、この底が割れたパイ生地の修復方法を考える方に注力しているようで、それはそれで一つの具体的な方法だろう。

 

「人間22年目の見解」

 ここまでの文章は民主主義の政治における諸問題に対して何ひとつ答えを与えるものではない。事実として、僕は現時点で何らかの答えを出せる経路を見つけてはいない。

 ただ言えることは、ここまでに提示してきた問題はビジネスで解決しえないということだ。そしてビジネスの視点だけでは問題の核心を捉えることができないことでもある。

 「政治は全ての社会の代表者である」と述べたのは、アルジェリア独立戦争の際にフランスの帝国主義的資本主義を批判して、独自のアルジェリア独立論を展開した政治学者のレイモン・アロンであるが、まさにこのことである。

 学問としての専門知やビジネスの合理性は確かに重要であるし、それを無しにして何かを論じることは難しいだろう。しかし、それらは素材もしくは手段に過ぎない。この民主主義社会においては、目的は国民一人一人の政治的判断にある。

 政治的判断とは何か。僕が思うに、それは何かの出来事や現象を、想像しうる限りの社会全体(すなわち、自分とは異なる他者の混在状態)のなかで捉えたうえで下す価値判断のことである。価値判断とは、具体的な状況において何が最も善い価値なのかを判断することである。

 排除としての反-政治ではなく、虚無としての非-政治でもなく、懐古的な政治の季節でさえない、ポスト戦後の政治を個々人の現実内に創り出すことが「時代から」求められている。

 

「参考文献」

白井聡『永続敗戦論』

杉田敦 編『丸山真男セレクション』

福田恒存 『文化なき文化國家』

小田実 『義務としての旅』

東京郊外を旅する(光が丘-高島平-多摩ニュータウン)

・概観

1.旅の前の予備知識

2.漫喫の夜

3.光が丘団地

4.ロードサイドで考える

5.高島平団地

6.多摩ニュータウン

7.角田光代空中庭園』について

 

1.旅の前の予備知識

 都市社会論や郊外論をいくつか読んでいて徐々に分かってきたことがある。というのは、郊外を取り上げる各著者が実例として挙げる地域やデータ、そしてその主張のなかで主軸となるテーマごとに語られる<郊外>は、それぞれが微妙に違った顔をしているということである。

 社会学者の若林幹夫は『郊外の社会学』で、郊外をめぐる様々な言説のなかに現れる「同質性」という神話と、その他方で郊外の現実が「多層化」していることについて言及しているが、まさにそのことを僕は感じ取っていたというわけだ。

 より具体的に説明するならば、明治から昭和初期にかけての郊外は「山の手」であり、磯田光一が言うところの標準語的東京に憧れて地方の田舎者たちが移り住んだ辺りである。ちなみに江戸時代に至っては、新宿は「江戸の町」ではなかったのだから、こうして考えてみると時代が進んでいくごとに人がたくさん訪れるという意味での「都心」は西へとズレていったことがわかる。

 アメリカ航空部隊によって東京大空襲が行われ、様々な場所が焼け野原になった後で、都市計画が行われると本格的に現代の郊外が形成され始めた。そして世田谷・杉並・西東京・武蔵野あたりに公営の集合住宅、いわゆる「団地」が計画的に建設されていく。朝鮮特需によって経済が上向いてきた1950年代を契機に東京は西へと分厚く膨らんでいくのである。

 そして1970年代に入ると郊外は北にも広がり、人口を量的に補うための住居として、練馬の光が丘団地が建設され始め、そして戦後最大級の団地群であった高島平団地は1973年に入居が開始した。

 そのころから住宅戸数が世帯数を上回るが、しかしバブル景気によって都心の不動産価格が上がると人口はさらに西へと流出し、その結果1970年代から1990年代にかけて稲城・八王子・多摩・町田にまたがって「多摩ニュータウン」が建設されていく。有名な場所で言えば南大沢や多摩センターなど、アウトレットや大型のショッピングモールが集積されている商業地区だろう。

 この地域の特徴は建造物自体の外観がそれまでの無機質な箱型団地とは違って、ポストモダンな形式をとっているということだ。建物の構造が機能性だけでなく表現性を伴っており、見ただけで分かる奇抜な形をしている。例えば場所は違うが新宿のコクーンタワーなどはその象徴的な例である。

 さて、ここまでが20世紀における東京の郊外化に伴う住宅の変化についての概略である。すでに述べてきた通り、概念としての<郊外>は単一の抽象的なイメージを持ちながらも、その実態は多様であることがなんとなく分かってもらえたと思う。

 この冬休みも僕は例のごとく放浪癖を発揮して東京の各所をフラついていた。しかし今回は今までのような漂流ではなく探索のための旅であった。以下に綴る文章は、なんらの客観的根拠を持たない、学術調査でもなんでもない、ただの印象論、ただの戯言として読んでもらえればと思う。

 

2.漫喫の夜

 周囲で寝息が聞こえはじめたと気づき、スマホで時間を確認すると既に深夜3時を回っていた。ケバケバしいネオンが輝く新宿歌舞伎町のど真ん中、そのビルディングのなかに入っている漫画喫茶で、積み上げた漫画を貪るように読みふけっていたせいで時間のことなどとうに忘れていた。

 僕がいる喫煙シートの薄暗い一角は空調の換気機能すら間に合わないようで、ケムいほどではないが明らかに空気がよどんでいた。しかしこの重たくどろりとした空気が全て煙草の煙のせいだとは思えない。むしろここらにいる人間たちが醸し出す気だるさのせいではないだろうか。もちろん僕もそんな人間たちのうちの一人である。

 頽廃的な空気を吸い込み続けたせいか、頭に鈍い痛みが広がっていく。体も心なしかだるく感じた。こんなところで一体何をやっているのだろうか、と自嘲を禁じ得ない気分であることは確かで、大学4年生の年末にしてはいささかテキトーが過ぎるようである。

 ふと、自分がここに来た理由を思い出す。そうであった、書物のうえで語られる様々な郊外にイマイチ実感が持てず、実際にそれらの土地に赴こうと思いたって、夜中に家を抜け出してきたのだった。そして新宿を起点に早朝から行動を開始して光が丘や高島平や多摩ニュータウンを見て来ようと考えたのである。

 しかしその肝心な予定を具体的にはさっぱり考えていない。現地で何をどのように見るのか、どんな資料をどのような観点で調べ上げるのか、まったく考えていない。そもそも都内を見てまわるなら深夜に新宿など来なくてもよかったのだ。突発的なある種の躁状態に衝き動かされてしまうのは、たぶん僕の最もよくないクセだろう。ただしかし僕にはこれまでの読書を踏まえて一つの疑問があったため、とにかくなんであれ現地に行って何かを見なければならなかった。

 一つの疑問、それは現実の物事や現象を抽象的な概念へと還元する際に、もしくは現実に流れる時間を説得的な論理によって一つの物語へと構成する際に、その整合性の作用や統合化の力によって、何らかの対象が実際の混沌とした現実からどこまで乖離し虚構化しているのかが分からないという事である。

 磯田光一『思想としての東京』、原武史『団地の空間政治学』、小田光雄『<郊外>の誕生と死』、若林幹夫『郊外の社会学』。これらはそれぞれが郊外をなんらかの形で語っているわけだが、そのなかで扱われる地域や時代や観点はそれぞれ違っており、しかし僕にはそのどれもが真っ当な主張・・・・すなわち<郊外>を捉えているように思えた。だからこそ、これら四冊の都市論を踏まえて実際に訪れてみようと思ったわけである。

 

3.光が丘団地

 「寒すぎる」

 それが都営大江戸線の地下から地上へと昇って最初に思ったことだった。それはともかく目の前にショッピングセンターがあって、その周辺を団地群が取り囲んでいる風景は、まさに僕が求めていたものである。

 上着を着ながら視線を周囲へと動かす。道行く人々の年齢と世代、駅とショッピングセンターと団地の距離、駅の近くにあるファミレスやファストフードをはじめとしたチェーン店の数々。郊外の特徴的な要素がどれだけ適合するのかについて考えをめぐらしながら、とりあえず図書館に向かって歩く。

 光が丘団地は、光が丘公園を囲むようにして形成されており、その近くには小中高の学校施設もある。そして団地の敷地内に入ってみると分かるが、一階が保育園になっているところも多く、「光が丘第9保育園」まであることは確認した。団地に多くの家族が入居した当時にまず必要とされたモノのなかでも重要視されていたのは保育園と学校だ。ここから察することができるのは、入居が始まった当時に保育園をたくさん用意しなければならなくなるほどの世帯数で若い家族がここの団地に住んでいたということだ。 

 なぜそれがそこにあるのか?ということを、日常の空間において問うことはほとんどない。林立する集合団地は僕にとっても日常の風景だ。しかし、その日常を相対化し既知の内容を一旦カッコに入れることによって、団地が新鮮で奇妙に見えてくる。自明の世界を書物のうえで分解し、それを踏まえて身体的な感覚のなかで再構成するという試みは、旅の一か所目ですでに成功し始めていた。

 光が丘では主に図書館での作業が中心となった。司書の方からの協力を得て、1970年代から1980年代の自治会誌を集めた雑誌や、郷土史の研究資料などをお借りし、ななめ読みをしながら必要な部分はコピーをとらせてもらった。

 僕は練馬区にある高校に通っていたし、幼いころは住んでいたこともあるし、親類は練馬区に今も住んでいる。光が丘に関しては友達がたくさん住んでいる地域だが、高校生のときにサッカーの試合で一回来たことがある程度である。だからと言うのも難だが、光が丘団地や光が丘公園が戦時中は日本軍の成増飛行場で、終戦直後はグラント・ハイツという名の「練馬のなかのアメリカ」として米軍の住居区域だったことなど全く知らなかった。

 周囲からはフェンスで仕切られ、その中だけは通貨を含めアメリカンな暮らしが営まれていたという話のなかで目に留まったのは、日本人がその地区で従業員やメイドとして雇われていたという記述だった。まず練馬にアメリカ軍が駐屯していたことでさえも衝撃だったのに、日本人がそこで雇われていたという事実はなおさらに衝撃的であった。

 その記述を指でなぞるようにして読みながら脳裏に思い浮かべていたのは、村上龍限りなく透明に近いブルー』と『69』である。つまりあの話は遠くの他人事でもなんでもなく、歴史の彼方にあるわけでもない。練馬区という、僕にとっての心理的な近隣地域にも地続きの物語であったということを知り、そしてそのリアリティに対してヒリヒリとした戦慄を、昼時の和やかな雰囲気に包まれている図書館で感じていたわけである。

 必要なページをいくつかコピーさせてもらってから図書館を出ると、年末の休日だからか、何組かの親子が公園で遊んでいた。5歳ぐらいの男の子は落ち葉を踏んだ時の乾いた音に興味津々のようだった。冬の晴れ空から降り注ぐ透明な光が、そびえたつ団地群を超えて、落ち葉の山のうえで飛び跳ねる彼の背中を照らしている。彼のご家族は微笑みながらそれを見守っているようだった。

 僕は考える。この土地、この空間は、果たして殺伐としたファスト風土だろうか。僕の目の前で遊んでいた男の子の中からは、三浦展が言うところの「リアルな生活」は「喪失」されてしまったのだろうか。確かに三浦の主張するその「リアルな生活」とやらが、現在の郊外における大量消費社会に対置される「唯一のかけがえのないものという感覚」だということは理解できる。

 「ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そういえば、この異常さがわかるだろうか」(三浦『ファスト風土化する日本』p209)

 しかしこの文言はハッキリ言って三浦の妄言でしかない。消費中心の郊外社会=バーチャルな空間に生きる子どもたちをまとめて「異常である」と決めつけてしまうのは、たんに三浦がこの時代をその空間で育ったことがないからだろう。自分の頭では理解できないことをとりあえず「異常だ」と人は言いたがるものである。

ファスト風土の過剰なバーチャル空間のなかにあふれるおびただしい物を毎日見ていれば(中略)それどころか、命さえもがハンバーガーのような大量生産と同じで(中略)余れば捨てられる物として感じられてしまうかもしれない」(同書p209)

 僕自身は90年代末期に建設されたマンションの育ちだが周囲は50~60年代に造られたと思われる団地だらけで、そこを使って「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」はよくやったし、サッカーの自主練をしていた公園は団地の目の前にあった。部活の友達とは一緒に大通り沿いのマックやコンビニに行ったし、中学生の時に流行っていたエミネムの映画『8mile』はツタヤで借りた、哲学や文学の本はたいていブックオフで買っている。

 この暮らしがバーチャルだろうがなんだろうが、人の命はハンバーガーとは違うし、人を殴れば相手は痛いし自分の拳も後で腫れる。それぐらい普通に分かる。たぶん三浦の目には現代の子どもたちが宇宙人か狂人か何かのように映っているのだろう。とてもかわいそうな人である。

 たとえ人間を取り巻く諸装置が画一的なのだとしても、その空間に内在する含意的な記憶は多様である。だから人間の生活が社会の表層に明示されている物質によってのみ規定されていると考えるのは明らかに間違いである。それに三浦自身が「人は記憶のなかにある街を愛するのであり」と述べている。すなわちこれを裏返せば、三浦はファスト風土の街が愛するに値しないということを言明しているに等しい。まぁ要は「昔は良かった論」でしかないということだ。

 さて、そんなことを考えながらドトールに入ってミラノサンドを注文して、そして食べ物を受け取り、席に座ってからとても眠い事に気付いた。徹夜で漫画を読んだことを若干後悔した。

 

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4.ロードサイドで考える

 光が丘団地のなかを抜けて田柄高校の校庭の裏側に出ると、小さな立札が並んでいた。「空きのペットボトル、缶、吸殻をここに捨てないでください」と書いてある。校庭の裏で煙草を吸う生徒がいるのだろう。初めて訪れた場所ではあるが、話では聞いていたのでなんとなく納得した。

 ここから高島平団地に向かって6kmほど北上する。電車を使うと池袋まで回らなければならないし、バスは路線がよくわからないので、せっかくだし歩くことにした。どうせ暇人の散歩である。億劫になることもない。

 外出時は常に音楽を聴いているのだが、今日に限ってはイヤホンをポケットにしまった。ちゃんと自分の五感を使って街を“観て”おきたいと思ったためだ。歩くのも普段はわりと早いほうなので、今回は一定のリズムでゆっくり歩くことにした。

 まずは川越街道につきあたるまで歩く。左手に広がる光が丘公園が途切れた辺りで道路標識に「板橋区」と書かれているのを見つけた。並木道が続き、道路の両側は住宅街がある。道沿いに店を構える八百屋から店内のBGMが外にまで流れてくる。「もー いーくつねーるーと おっしょうがつー♪」という懐かしい歌であった。ついつい僕も口ずさんでしまったのだが、歌詞をあまり覚えていないことに気づきちょっとがっかりした。羽子板や凧揚げなんて、もう十年近くやっていない気がする。最後にやった記憶は学童クラブでのことである。

 古くからある文化的な遊びを子どもたちがしなくなったという嘆きの声は、たぶん今だけでなくもう数十年前から言われていたことだろうと思う。ただ今の時代ではパソコンやスマホやゲームが子どもたちにとって最も身近なツールであるために、羽子板や凧や独楽などはもはや非日常的な道具になってしまったように思われる。それが再び多くの子どもたちの手に取られる日はもう来ない気がする。

 見方を変えれば、社会や暮らしが豊かになったからシンプルなモノで遊ばなくてもよくなったと考えることもできる。シンプルなモノによる遊びというのは、たとえばサッカーがその典型だろう。たとえ貧しくとも、かき集めたボロキレを丸めて縫い合わせればボールはできるし、ボールさえあればサッカーはできるのだ。しかしサッカーの場合は遊びの範疇を超えて大きなビジネス市場を生み出し続けているから先進国でも多くの人々がプレイするのだが。

 さて、そんなことを考えながら歩くと、眠気が徐々に薄れて視界が鮮明になっていく。そうして川越街道にぶつかった。さすが大通りだけあって、カー用品店、ファミレス、ガソリンスタンドなどロードサイドビジネスと呼ばれる業種が道に並んでいる。

 乗用車、トラック、バス、バイクなどが整列して走っていく風景は、僕の住んでいる場所の風景とほとんど変わらない。街路樹だけがちょっと違っていて、名前は分からないが真っ白でつるつるした肌の木が葉も枝もほとんど失くした状態で路肩に並んでいた。それを見たときシュールなイメージが思い浮かんだ。というのは、雲一つない綺麗な晴れ空を背景に、働き蟻のごとく車が隊列を組んで走り続ける横で、脱け殻のようになった白骨体たちが等間隔に立ちすくんでいる風景である。

 ふと視線をずらすと道路標識のポールに一枚の紙が貼られているのに気付いた。それには「人類が平和でありますように」と書かれていて、何かこう居心地が悪い気がした。どこかの宗教団体の宣伝文句か何かだろうとは思ったが、モノの体制によって計画的に構築された町で見る「人類」という単語はどこか空虚な響きがあるように思えた。このロードサイドで平和を訴えるならば、人類よりも地域住民を想うべきだろう。

 川越街道を外れて、ひたすら北を目指す。「北を目指す」と言えばかっこよく聞こえるが、たんに住宅街のなかにある二車線の狭い道路を淡々と歩くだけである。それにしても、なぜ僕の旅はいつもこうなってしまうのだろうか。というのも、観光名所に足が向かないのである。それは世界一周の旅でも同じであった。たぶん他の長期旅行者に比べて訪れた世界遺産はかなり少ない方だと思う。

 町を歩いてしまうのである。気が付いたら日常の生活空間に潜り込んでいて、それが格別の刺激を僕に与えないとしても、そこをウロウロしてしまうクセがあるのだ。これは受け売り文句だが「自分が旅する非日常は、誰かの日常である」という言葉は、まさにその通りで首肯するしかない。この言葉は本来、旅人の粗相や傲慢を諌めるという意味だった気がするが、これを僕なりに解釈するならば、自分の住んでいる地域と大して変わらないように見える「日常の生活空間」でさえも僕にとっては非日常であり、すなわち「別の日常」がそこには根を張っていると考える事もできる。だから多くの人々が訪れる格別な場所としての観光名所だけが非日常的な空間なのではなく、むしろ別の日常こそが、誰かの日常を垣間見ることができるという意味で非日常なのである。

 淡々と歩くことに退屈を覚える人は多いように思う。それは多分「歩き方」を知らないからだろう。散歩にもテクニックがあるのだ。『地球の歩き方』が海外旅行をする方法を教えるものならば、こちらはさしずめ『郊外の歩き方』と言ったところだろう。しかしこちらの「歩き方」は少々の知識とちょっとした想像力が必要である。というのも、あれを観て、これを食べて、そこに泊まる、などという表面的な内容ではないからだ。

 実際に僕が目にした例だが、てくてくと歩いていると前方に二人の男の子を見つける。たぶん中学2年生ぐらいだろう。片方は自転車、もう片方は歩きのようである。歩いている方は周囲をキョロキョロしていて、どうも何かを警戒している。それからパッと自転車の荷台に飛び乗り、二人はサーッと行ってしまった。なるほど、警察がいないか確認していたのかと気づく。

 しかしすぐ近くの信号で彼らは足止めを食ってしまい、僕に追いつかれてしまった。もちろん追いつこうと思っていたわけではないが。後ろに乗っていた彼をよく見てみると、どうもハーフっぽい顔立ちでフィリピン系の浅黒い肌である。下は灰色のスウェットを腰パンしていて、上は大きめの黒のパーカー、髪の毛は短めの茶髪だ。

 ここでふと頭をよぎるのは現在の日本の労働人口の問題である。唐突なようだが、しかし彼から連想できることである。というのも、日本政府はこの国をアメリカ的なグローバル経済圏の枠組みのなかに組み込もうと必死であり、2020年には東京オリンピックが控えている。

 一方で、日本の生産年齢人口は32年ぶりに8000万人を下回ったという。しかし今後の少子化を考えれば、日本人労働者が増えていくことは難しいのだから、必然的に外国人の労働者が必要となり、実際に現政権はタイなどをはじめとしたアジア諸国に対するビザの規制を緩めていく方向にある。

 何が言いたいかというと、これからは移民についての議論が様々な次元で盛んになるだろうということだ。べつに国家政策レベルの難しい話ではなく、より庶民的で生活的な話題でも移民外国人の問題は顕在化するだろう。たとえば東京オリンピックに向けて様々なインフラ整備を行うためにブルーカラーの職業は労働人口を必要とし、アジアや中東圏から数多くの若い外国人が安い人件費で雇われたとしよう。彼らはただ働くロボットではない。どこかの住居で暮らしを営んで、場合によっては誰かと結婚し子供を育てることも想定しなければならない。

 その時に起きる可能性がある法的な問題や異文化間による問題は、一体「どこで」起きるだろうか。それは国会議事堂ではなく、まさしくこの「郊外」で起きるのである。「グローバリゼーション」なんてカタカナ語には馴染がない人たちの目の前で郊外がグローバル化するのだ。

 訪れる外国人側の立場について考えるならば、僕が先ほど通り過ぎた都立田柄高校には外国人募集枠が存在し、毎年一定数の外国人が入学している。彼らは日本語を自由に使える人ばかりではないだろうし、むしろ日本語が上手くない人は多いだろう。僕自身がたまたま教科書販売のバイトをしていたから分かることだが、田柄高校の彼らのなかには自分の名前すらマトモに書けない人だっている。そんな人が自ら働いて暮らしていくのに必要な申請書類や契約書類を一人で捌けるとは思えない。

 かと言って、地縁共同体が崩壊した匿名性の高い郊外で手助けをしてくれる人が簡単に現れるとも思えない。頼りになるのは同じ出身国の繋がりや血縁者の人々しかない。となると、異文化間の溝が郊外の中で深まっていくばかりで、その両者の間に起きる生活的な問題は解消されない。たとえば早朝に隣の家からコーランが爆音で響いてきたら日本人はどう思うだろうか。

 と、まぁそんなことをぐるぐる考えながら歩いてみるわけである。つまり『郊外の歩き方』のポイントはたった一つ。目の前の景色から何かを連想し、それについて何かを考え、自分なりの意見やコメントを頭のなかで呟きながら歩くのである。

 

4.高島平団地

 恥ずかしながら、僕は高島平団地を知らなかった。高島平自体は一度だけ訪れたことがあるがハッキリとした記憶はない。だからその場所に関する知識は書物によるものである。ところで、1973年に入居が始まったこの団地は現代的な問題を多く抱えることになった。例えば飛び降り自殺の名所と呼ばれ、外部からも「死にに来る人」も現れ、その数は1977年から80年までに133人に達したという。ちなみ現在はあまり起きていない。

 『家族の現在』という本のなかで評論家・芹沢俊介は人口の移動に関する増減の統計データを引き合いに出しながら、1970~80年代は「移動の時代から定着の時代へ」とシフトした時期であったことを指摘し、そして定着してしまった密閉感のなかで溜まったエネルギーは死のタナトスへと向けられたのだと説明した。

 へぇ、そうですかぁ、ぐらいにしか読んだときは思わなかったのだが、実際に高島平団地を訪れてみて、「死のタナトス」ではないにしても、人々がここに定着=膠着することの不安と焦燥とを感じたとすれば、それは本当かもしれないと感じた。その理由はいくつかある。

 光が丘団地と違う点から考えれば、団地ごとの距離が近くて圧迫感がある。そして14階という高さに対して建物の奥行の幅が非常に薄い。まるで横長のドミノの中に穴を空けたような感じがする。中に入ってみると、配管が通路にむき出しで取り付けられており、外廊下は自殺防止のためか柵状の鉄格子で埋めてあって密閉感がひどい。また光が丘団地は隣に緑豊かな大きい公園があるのに対して、高島平団地は中に小さな公園はあるにせよ、周囲は大きな道路と線路で囲まれている。人口を量的に受け入れるために効率を最優先して造られた、人間が住むという身体性が省略された、そのような建造物だと感じた。

 ただしかし、ここには1万5千人以上もの人々が暮らしているのであって、外部の人間がその場所を一方的に非難してはならないだろう。それに今必要なことは高島平団地に対して自殺の名所なんていう野次馬じみた視線をぶつけることではなく、住民の40%が65歳以上であり、15歳未満の子どもは5.0%程度であるということに問題意識を持つことである。国民の生活に関する社会問題は新聞やテレビの中で起きているのではなく、この郊外この団地で起きている。

 高島平団地のすぐ隣にある図書館で『高島平30年の歩み』という郷土資料を読んでいて気付いたことだが、1970~80年の当時に入居した人々にとって「ふるさと」の観念はどうやら非常に重要であったようだ。地方から東京郊外へと人口が流入し、異なる出身の人々が隣り合わせで暮らすことが集団的に起きたことを示す材料がその資料の中にはあった。

 高島平三丁目自治会ニュースのなかにある「私のふるさと」というタイトルのコラムは、高島平の住民がそれぞれの故郷を紹介するという形式のものである。なんでわざわざ自分の実家がある場所を不特定多数に紹介したいと思うのか、その感情が現在の若者である僕には分からない。ただしかし、他の記事には自治会主催の祭りに関して「子どもたちにはここをふるさととして」というような文言が見られるため、やはり故郷の喪失、俗に言う「根無し草」の自覚が当時の住民にはあったようだ。

 ふるさと、故郷、根といった概念は、血縁と土地とを磁場とした一つの強固な共同幻想であったが、プライバシー重視の高層型団地では匿名性が高く、当時の地方出身者にとってはとても冷たい場所に感じられたのかもしれない。だからこそ自治会の運営やニュースレターの発行、町内会のお祭りなどが自発的に行われ、そして自分たちの生活における共通の利害に関心が持てたのかもしれない。『高島平30年の歩み』には、そうした事情が窺える内容がところどころに見られる。

 

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 しかし高島平団地に住む現在の子どもたちにとって、そうした根無しの不安を感じることはあるのだろうか。たまたま写真に写ってしまった後姿の男の子は、団地のなかにある公園で遊んでいた10代の子どもたちのうちの一人だが、彼にとって高島平団地は当たり前の日常なはずである。そしてこの城壁のような団地群の中からいずれは彼も出ていくことになるかもしれない。その時の彼にとって自分の故郷はこの高島平団地であるはずだ。(もし彼がここの住人ならば)

 僕は考える。根無し草だとか地方の田舎者だとか、そんな話はとうに昔のことである。僕らは<郊外>に育ち、集合住宅が生家であり、それが人生の原点、リアルなのだ。だからそのことに対して他人から無遠慮に何らかの価値判断を押し付けられても困る話でしかなく、ふるさとのノスタルジーになんて浸れっこないのだ。

 団地の公園にある遊具が小さく感じられた時、時間が流れたことを感じて、団地の一室を狭く感じた時、団地の外に出ることを考え始めるのである。それは決して歴史の喪失などではなく、本当の意味で昭和が終わり、平成の世代が動き出したという事ではないだろうか。

5.多摩ニュータウン

 東京旅も二日目。この日は多摩ニュータウンである。

 ここは稲城・多摩・八王子・町田にまたがる多摩丘陵を計画的に建設した都市で、一番初めに入居が始まったのは1971年の諏訪・永山団地である。次いで多摩センター、そして南大沢など西へ向かって団地・マンション群は広がっていった。

 今回見てきたのは1970年代に入居が始まった永山・愛宕などの団地群と、1980~90年代以降に開発・建設された南大沢のマンション群だが、街中を歩いてみてまず率直に思ったのは「敷地の広さ」である。というのも、光が丘や高島平のように街の一角を開発したのではなく、ここは森林の生い茂る丘陵を拓いて街を造ったのだから、当然と言えば当然だ。団地周辺には小さな雑木林のようなスペースが散見でき、その外側を大きな自動車道がどーんと通っている。

 商業地区は多摩センター駅周辺や南大沢アウトレットなどに集中しており、もちろんかなり大きな駐車場も併設されていて、車社会として考えるならばとても合理的にできている。買い物ならば都心に出る必要はないだろうし、この街で大体の生活は完結できるように見えた。

 一方で、街全体のサイズが大きい分だけ移動にコストがかかる。東京と言えど車社会は存在するし、その典型的な例がここ多摩ニュータウンである。どうやら街中をかなりの数の路線バスが運行しており、あとはモノレールや電車が公共交通手段になっているが、バス以外はあくまで要所を押さえているだけであって自分の家のすぐ近くまで行ける人ばかりではないだろう。他方で、バスとなると複数の路線図をきちんと理解してなければならず、毎日の通学や通勤以外では使いづらいかもしれない。

 またサイズの大きさだけでなく、前述したように街全体の構造がとても合理的であるからこそ、昼は商業地区、夜は住居地区といった具合に人の流れがあり、まるで「小トーキョー」のような様相が想像できた。僕が訪れた時期が年末という理由もあるかもしれないが、昼間に歩いた団地エリアはどこもガランとしていて、駅前の人通りの多さとはとても対照的だった。

 集合住宅そのものについては、愛宕団地と南大沢で大きく違いが見られた。その違いは建設された時期に大きく影響を受けているモノと思われる。というのも多摩ニュータウンの歴史は都市計画決定から数えれば1965年~現在に至るまでとかなり長い。その間に集合住宅の形もかなり変わったことが見れば分かるぐらいにハッキリと示されている。

 愛宕団地の入居が始まったのは1972年で、これは高島平団地の入居時期とほぼ同時であり、すなわち人口を量的に受け入れるために造られた「近代的」な建物である。だからいわゆる「団地」の普通形で、背の低い箱型の建物が並んでいる風景が愛宕団地周辺では見られた。

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↑↓丘の上に林立する「近代的」な団地群

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 他方の南大沢だが、住宅のなかで一番古いものでも1981年で、主に1990年代に建設された建物が多い。そして南大沢駅が開通したのは1988年、首都大学東京(当時は都立大学)が誘致されたのは1991年、またアウトレットモールができたのは2000年に入ってからのことである。すなわち南大沢の街は非常に新しいということが分かる。

 こうした新しい街に建てられた集合住宅のなかにはポストモダン建築と称される建物が見られる。高島平や愛宕団地などの「近代的」と呼んできた団地群は機能的で合理的な構造を目指して造られてきたのに対して、こちらの南大沢に見られるポストモダン建築はモダニズムによって否定されてきた装飾性や象徴性を回復する意図で造られた建物である。

 

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↑↓南大沢周辺の「ポストモダン」な住宅群

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6.角田光代空中庭園』について

 ところで、僕が多摩ニュータウンに訪れた理由は建物の建築様式を見るためでもあるが、小説『空中庭園』(角田光代 著)を読んだからでもある。物語の舞台は多摩ニュータウンと思われ、主な登場人物たちの住居は「ダンチ」と呼ばれる集合住宅の一角だ。それについて批評めいたことを書いたので、そのことを以下に続ける。

 

・概略

 角田光代空中庭園』は2003年に発刊され婦人公論文芸賞を受賞し、2005年には小泉京子を主演に据えて映画化された。この作品のテーマは「家族愛」や「孤独」や「現代的家庭」であると映画サイトや書評レビューなどには書かれている。

 実際に原作を読んでみると、この小説は主人公を含む家族が母親の提案である「何ごともつつみかくさず」というモットーの下に暮らしながらも、しかしそれぞれが後ろめたい秘密や重大な隠し事を持っていて、それらを京橋一家の娘・父・母・息子の視点から描き、さらに外部者である祖母と父の浮気相手の視点が加わり、6人の視点から<家族の様相>が浮き彫りになっていく、という多角的な景色を読者に見せる。内容は非常にシニカルであり、巻末の解説者である石田衣良は「乾いた絶望」と評している。

 現代的な核家族の不気味な健全さとその裏に潜むドロドロとした内情、この小説では浮気以外の事件は発生しないが、実際の現実においてDVや非行や自殺などの露見によってそうした構図は世間で話題となっている。

 さてしかし本稿では、この小説のテーマである「家族観」や「心情」の問題よりも、この物語の舞台となっている「郊外」にスポットを当てる。なぜかというと、この物語は家族物語でありながら郊外物語でもあると言えるのであり、つまり内面的心理と郊外風景は「対立ての鏡」になっているからである。

 

・もうニュータウンは“New”ではない

 京橋一家が「ダンチ」と呼ばれるニュータウンのマンションに移り住んだのはバブル絶頂期だと物語のなかでは説明されている。これは第二次郊外化の「バブル経済によって都心の不動産価格が高騰したために、ふたたび郊外への人口流出が始まる」という1985年以後の社会状況に関する若林の分析に符合する。(若林幹夫『郊外の社会学』p158~159)

 この「ダンチ」-「グランドアーバンメゾン」に対して、マナ(娘)は「(ダンチは)まるで書き割りみたい」で、「A棟からE棟まであって、敷地内には、しょぼいけれど商店も公園もある」と説明し、そして「のっぺりとしていて、外壁がずいぶん汚れている。巨大なのに、どことなくみずぼらしい。このダンチの十七年の疲れと汚れは、あたしのなかにも蓄積されているものということになる」と、「十五歳という、非常に多感な年齢である」という自意識に従って、自分自身に重ねながら「ダンチ」を若干シニカルに評している。ちなみに第二次郊外化の80年代後半から17年経ったということは、この物語のなかでの時代は2000年代のどこかということになる。

 一方で、絵里子(母)は「ここいらへんで、画期的だったもの、このマンション群。ダンチなんて呼ばれてるけど当時は最先端だったんだから」と言い、そして「じつにクールな集合住宅」であり、「あのとき(入居当時)と寸分かわらず、かがやく光につつまれている」というように「新天地」が未だに効力を持っていると肯定的に考えている。

 まず注目したいのは「グランドアーバンメゾン」という建物の名前と、「商店も公園もある」という建物の構造という二つの特徴的性格である。1950年代から60年代までの間、増えていく人口に対して量的に住居を供給することを目的としていた公営団地がその役目を終えて、「住宅の絶対的戸数不足が解消され、住宅戸数が世帯数を上回るのは一九七三年度の事であった」という状況により、70年代以降徐々に量から質へと住宅需要の性質が移った。原武史『団地の空間政治学』p253)

 そして前述したように第二次郊外化が始まるわけだが、量的には飽和した状態の市場をさらに欲望させなければならない住宅メーカーは、「八十年代ごろからデザインやイメージによって商品価値を高める動きが顕在化する」)ことに転じる。(若林『郊外の社会学』p170)

 すなわち、住宅という商品が住むことの実質に関する機能的な側面よりも、住まいの外観や象徴という記号的な側面で他社の商品と差別化を図ろうとしたのである。

 この結果として、80年代半ばから住民の共有スペースなどを併設した「プラスワン住宅」が発案され、そして「“ソラティーオの丘”とか“ブランズガーデン”とか“ルアジーランド”とか、名前を聞いただけではマンションかと思われるようなカタカナ名前が増えて」と若林が述べるように、ネーミングにその顕著な特徴が表れるようになる。(『郊外の社会学』p173)

 ここで再び小説の内容へと戻ってみよう。「グランドアーバン」までは英語なのに、なぜだか「メゾン」だけがフランス語であるこの奇妙なマンション名や、公園や商店が敷地内に敷設されている構造は、まさに第二次郊外化に伴って現れた住宅の質的変化を具体的に内包している。

 ところで、この建物に対して、マナは「ダンチ」と呼び、「みずぼらしい」と言う。他方では絵里子は「マンション」と呼んで、「クール」と評する。同じものに対する両者の認識がこのように違うのはなぜだろうか。その理由は「生きている時間」の違いである。マナは自分の年齢と共に建物が老朽化していくのを自覚的に語っている。この認識は一般的であり、大抵はそう感じるのが普通だろうと思われる。

 しかし絵里子は「グランドアーバンメゾンに引っ越したとき、たしかに私は、光りかがやく新しい未来にやってきたと思った。(中略)私は今でも、光かがやく明るい未来だと、あのとき感じた同じ場所に居続けている。」という、時間と空間の認知がズレた発言をしている。本来、未来は来たるべき時間であり、それが訪れた途端に現在になり、その次の瞬間には過去へと過ぎ去っていくのだから、すでに訪れた空間が未来に在り続けることは原理的にありえない。

 こうした当たり前の認識が、なぜ絵里子においては半ば歪んだように変わってしまうのか。それは彼女の現在における態度が過去の記憶から抜け出せず、過去が現在を強く規定しているからに他ならない。彼女の過去の記憶とは、中学生で不登校だった当時の「あの家は、陽が射さずに暗く、じめじめして、奇妙に居心地がよかった」ということに始まり、しかし自分の不登校に対する母親の安易な態度を見て強烈な嫌悪感を覚えると、「大嫌いな家をそのまま反面教師にして私はあたらしい家庭をつく」るために「私の完全なる計画」を高校三年間で作り上げたことである。

 つまり彼女の現在とは、なによりも切望した未来であり、そのことを自覚し執着し続けることによって自己肯定感を得るのである。だからこそ、過去に住んでいた暗くじめじめした「生家」の対極に位置する光りかがやく「グランドアーバンメゾン」は、彼女の時間のなかでは計画した未来に立ち止まり続け、みずぼらしくなっていく現在になってはならない。皮肉にも計画した未来を手に入れた彼女に現実の未来はないのだ。

 「ニュータウン」という名称は残り続けるのに対して、マナが言うようにそれが「New」であったのはもはや十数年も前のことである。もしも「グランドアーバンメゾン」が多摩ニュータウンのどこかにある集合住宅だとしたら、それは計画された都市の一部だろう。まるで絵里子の「完全なる計画」による「理想の家族」のシニカルな隠喩のように見えてくる。都市にせよ、家族にせよ、計画できる部分とできない部分があり、時間とともに変化し衰えていく、決して思い通りにはならない「生き物」なのである。

 

・終わりに

 年が明けた。2015年である。

 2014年10月ぐらいから始めた郊外論の勉強はまだ終わりではない。というか、正直言ってこれはメモ程度だ。ほとんど小学生の「調べ学習」レベルでしかなく、自分の文章力のなさや独学スキルの低さに呆れている。

 さてしかし、なんとかそれっぽい形にしたい。そのためにも実際に郊外を見ておくことは大事な気がした。そうして実行したのが、この「東京郊外を旅する」である。なんかもう薄っぺらさ満載で自画自賛のしようもないが、ここから始めなければならない。次の「まとめ」に向けてがんばろう。

 

郊外について、序

 まるで水彩画のように滲んだマリンブルーの空が、幾何学的な鉄筋コンクリートの塊によって切り取られている。両側にそびえたつ団地に挟まれた坂道を歩きながら、この町のことについて考えてみる。青梅街道に突き当たって、あらためて目の前の風景をじっくりゆっくりと眺める。

  1950~80年代の人口増加に伴い、山の手から同心円状にスプロールした郊外化の波がここにもやってきて、そしてこの風景がある。物流と交通のネットワークを形成する街道、それに沿って燃料供給の要となるガソリンスタンドと東京ガスのガスタンクが二つ、ロードサイドビジネスの中心となっている外食産業とコンビニ、今この文章を書いている場所はデニーズである。

 この町、郊外を意識して見てみると、普段の日常性というオブラートは簡単に剥がれ落ちて、ある種の超現実、シュールレアルな表情が浮かび上がってくるように思える。団地は城壁であり、ガスタンクは太った鉄製の巨人であり、街道をひた走る車たちは働きアリの群れである。では、ここに住む人間たちはなんだろうか。人間たちとは、モノの体制によって成り立つこの町にとって一体どんな存在だろうか。もちろんこの町は本来、人間のために人間たちが作ったのであるが、しかし人間臭さもしくは生活感と言えるそれがこの町では極端に薄れているような気がしなくもない。

  ここに住む人間たちは、こういった町を必要としていたにも関わらず、いつの間にかこの町に必要とされる1つの機能として還元されているのではないだろうか。電車が次から次へとやってきてはその腹いっぱいに人を詰め込んで都市の各所へと送り込む様は、まるで栄養分や酸素を含んだ血脈のように見える。そしてこの町に林立するマンションと団地は、この地域に張り巡らされた街道をせかせかと走る働きアリの巣のように、しかし地下ではなく地上の空間に地層を作っては穴を空けるという奇妙な巣である。

 外観も内部の構造もキッチリと整理整頓された奇妙な巣もとい住宅は、共同性なき集合体の表象とも言うべき形相をしている。そう、喩えるならば各種の部品やツールを収納する道具箱のような、設計に基づいた通りでなければ結びつきえないパーツのように、合理的な理由がない限り住人たちは分断されている。

 同じような街並みだが、急行が止まる隣町はすこしばかり栄えている。そしてその様相も機能的で、計画性がありありと見て取れる。駅前にマンション付きの大きなショッピングセンターが、それも周りの建物より幾分か高くて、それこそが町の象徴であるかのように仁王立ちを決め込んでいる。そしてその周囲には郊外的な諸要素としてのマクドナルド、サンマルク、ゲーセン、学習塾、薬局、銀行、パチンコ屋、居酒屋、ツタヤとブックオフが、中心的な存在であるショッピングセンターに従えられるようにして集まっている。反対側には市庁舎と図書館があるけれども、とてもこじんまりとしていて影が薄い。こうして対比してみると、商業経済が公共的な政治や文化に対して優越していることを視覚的に訴えかけられるようである。

 

 再び住宅街に、それも学校周辺に視線を移してみよう。とても個人的な話題で恐縮だが、僕は小学生から中学生になる時に越境進学をしている。越境進学とは、行政によって決められた学区域を越えて本来の進学先とは別の学校にいくことである。この経験は僕にとってとても大きな意味があったのだが、それは今関係ない話なので立ち入らない。ただしかし子どもにとっての郊外を考える上で重要なイメージを与えてくれたことは書いておきたい。

 とても不思議なことだということに中学生当時の僕は気づかなかったのだが、道や線路によって線引きされた区画によって進学先が決められ、そこでひとたび学校的な共同体が形成されると、それまでは意識しなかった<ウチ>と<ソト>が町の中に領域として現れるのである。実際に、僕は進学しなかった方の中学校の前を通って登下校を繰り返していたのだが、そこを通る度に何かこう居心地が悪い気分だった。その中学校に進学した小学校の時の友人関係にはべつに何も問題が無いのにも関わらずだ。

 そしてまた、極端な例ではあるが、中学校別で領域化された地区にはヤンキーのたまり場的な場所が必ずあり、それは大体の場合に広めの公園であったり市のスポーツグラウンド場の片隅であったりした。縄張り意識なんて言葉に言い換えていいのか少し戸惑うが、僕は小学生の時に行政区をまたいだ四つの小学校から成るサッカーチームに所属していたり、前述のように越境進学したせいで、そういった縄張り的な領域には敏感だった。

 たったの道一本分、それが大きな街道ならまだしも、大した事のない住宅街の一角を縁取るだけの道が人に領域を意識させる。ただし駅前の商業区域だけは共有エリアだった気がする。となると、<ウチ>-<マチ>-<ソト>のような郊外の様相が見えてくる。

 ところで、学区域の境界線という意味を持つ「道」以外にもこうした社会的領域が分かれる理由がもう一つある。当たり前の話だが、それは人である。とは言っても、全ての人ではなくて各中学校の「制服」を着た生徒たちのことだ。これが「道」を流通して初めてその領域は実質化するのだ。制服だけでなく学校指定のジャージでも構わない。つまり人物がどこの学校に帰属するのかが明示されていればよいのだ。学区域の境界線としての道、共同体の明示性としての制服、これらが郊外の内部をウチとソトに領域化するコード(=規範)として機能するわけである。

 以上に示した領域は、物理的強制的に区画化されているわけではなく、情報によって自発的に意識し管理ー維持される区画だ。すなわち、学校的な意識が学校という建物をはみ出て、そしてまたその意識の実質としての学区域と制服が、郊外の内部に社会的な領域を作り出すのではないだろうか。

 

年間100冊読んでみて思ったこと

 大晦日まで約1か月を残して年間読書量が100冊を突破した。ということで、今年の読書経験を振り返ってみようと思うが、その前に読書そのものについて少し書いてからにしよう。

 僕は基本的にどんな形式のものでも読む。大衆小説、純文学、詩、ラノベ、新書、学術書など、なるべく色々と読んできたつもりだ。

 今の僕にとって本は食べ物と近い感覚である。食べ物はその食感によって区別されることがあるが、それと同じだということだ。軽いもの、重いもの、やわらかいもの、かたいもの、ツルツルしたもの、ザラザラしたもの・・・etc

 様々な本の種類は、こうした食感的な区別によって僕のなかでカテゴライズされている。だから、例えば「重たくてかたい」ような哲学書をゴリゴリ読みまくる日が続くと、脳みそが「軽くてやわらかい」ような大衆小説を欲するのである。そこで有川浩三上延あたりの小説を読んでみると、凝り固まった頭が解きほぐされていくような気分になるわけだ。しかし食生活を営む上で焼き肉とお菓子しか食べないなんてことがないのと同じように、様々な食感=読感を求めて色々な種類の本を読むのである。

 ただ知的好奇心と上記のようなバランス感覚に従って読書をするのが、とても読書家的な態度だと僕は思っている。では、僕はそういった意味で読書家だろうか。そうは思わない。なぜなら僕は読書が好きであるのと同時に、一応ではあるが専攻分野を持つ学生なので、自分の勉強範囲に従って本を選別することも必要だからだ。

 すなわち一定期間は何らかのテーマに沿って文献資料を集め、それらをただ消費するのではなく生産のための材料として捉えて読む必要がある。例えば、僕のはてなブログに記載してある『郊外の共同体、マルクス的解釈』の延長線上、修正版として『郊外の人間たち』を今も書き続けているが、そのために歴史的な資料、郊外を扱った文学作品、社会学的な統計データ、社会哲学的な理論書などを集めて、必要とあれば本の中に線を引いたり付箋を貼ったりしていつでも引用できるようにしてある。

 そういうわけで、僕の読書はたんなる消費に留まらない。たとえそれが小説だとしても、そこから引き出せる問題や見いだせる社会背景などはたくさんあるし、この現実世界や身近な人間模様など具体的な場面を考えるための一つの基準としてそれらを用いることはできるのだ。その用い方は書くことである場合もあれば、人から相談を持ちかけられて何かを答えねばならない場合でもあったりする。そうした生産的な読書の汎用性は実に高い。

 読書はどこまでいっても個人的な営みであるという主張を知らないわけではないが、ハッキリ言ってそれは誤りである。たとえそれが消費であろうが趣味であろうが救済であろうが、読書の営み自体は他者や世界に対する認識のマトリクスを拡大し変化させ細分化する効力を持つ。つまり読書は自分の目を変えるがゆえに目の前の世界を以前とは違ったものとして現前させるのである。

 後期ウィトゲンシュタインが『哲学探究』の第二部で知覚アスペクトという概念を用いて知覚論を述べたが、それに従うなら人間は目の前の全ての事象に対して、自分の持つ知識や経験に照らし合わせながら「~として」見る・感じる・理解するわけだから、その「~」の部分はまさに読書が提供するところの最たるものだろう。

 要は、読書は個人の内的な構造に対して何らかの影響力を及ぼし、そして他者に対する全ての行為は個人の内部から始まるがゆえに、結果的にその影響力は他者へと向かってしまうものなのだ。

 ところで、目に見えるものが能力や技術として重視される昨今においては、能力向上としての読書は非常に効率が悪く標準化することもできないので、一般的にあまり重要視されていないように感じる。べつに政府や企業に読書を奨励してほしいなんてことを言いたいわけではないし、そもそも商売道具としての知識はとても限定的なものだろう。

 たんなる仮定としてだが、僕が言いたいのは、商売道具としての知識と生活周りの情報だけしか有しない頭脳というのが、全生涯的な観点で考えた時に一体どれほど貧弱なのかということだ。言い換えれば、自分の思考する範囲が会社と実生活の域に留まり、自己や他者といった根源的な問題、社会や国家といった大規模な問題には全く無関心になってしまうのである。この両者の間に労働や暮らしは成り立っているのだから、五里霧中で足元もマトモに見えない状態を良しとしていることになる。

 読書ひいては学んで考え続けない人は、自分と世界のなかで迷子になってしまう可能性が高いように思う。迷子というのは、すなわち自分自身の価値基準や自律的な理性や道徳観といったものが曖昧なままで、人生のうちに起る様々な出来事に振り回され続けてしまうことだ。

 まぁそんな必要性を力説をする前に、そもそも読書は楽しいのだ。何にしても夢中になれる時間というのは人生の醍醐味だと思う。読書が夢中になれる事の1つになれば、それだけ人生が豊かになったと考えられるだろう。

 

 さて、それでは今年の読書を振り返ってみよう。

 哲学・思想という観点に絞って最初の方のことを思い出してみると、キルケゴール死に至る病カミュ『異邦人』から僕の本格的な読書は始まった。どちらの著者も実存哲学と分類されているが、前者はキリスト教を基軸とした人間の心理についての考察、後者は一人の男が殺人を犯したことをめぐっての物語という文学形式のものだ。

 それから哲学に関する入門本として橋爪大三郎『はじめての構造主義』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、石井洋二郎『フランス的思考-野生の思考者たちの系譜など、こちらの業界ではとてもポピュラーな著者の書いたものを読んだ。

 次に現代文明論の入門編ということで、佐伯啓思20世紀とは何だったのか』、塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか』、立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』の3冊を読んでみた。これらは自分が生きるこの大衆社会や科学文明の世界を考えるうえで絶対に必要な視点を提供してくれたと思う。

 ところで、僕は人文学部ヨーロッパ文化学科だから「文学」というジャンルは外せない分野だと思う。そこで印象に残っているものを幾つか挙げたい。バタイユ眼球譚は一回読んだら一生忘れないキワモノだろう。ただしどんなものなのかを調べてから読むことを強くお勧めする。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』については、それを読んだ当時の若者が自殺してしまうという社会現象を引き起こしたことで有名だが、時代を超えて共感しうる内容だった。恋に悩む男子は読めばいいと思う。コクトー恐るべき子供たちは、現実の出来事と虚構の心象が入り混じる世界を描き出す、非常人的な自意識過剰もしくは想像力から捻り出された一冊である。そして、ヨーロッパの文学ではないがカナダの作家ウィリアム・ギブスンニューロマンサーは言わずと知れた近未来系SFの原点だろう。電脳世界に意識ごと没入し、生体工学や臓器移植によって生身の身体を改造することが可能になった世界で、最もヤバいとされているコンピュータ複合体に主人公が潜入する。ハードボイルドなテイストで描かれるサイバーパンクな世界観。こーゆーのが好きな人は大興奮間違いなしである。そしてこれが1984年に書かれたというのも驚きだ。

 そして日本文学だけども、僕は日本史をきちんと勉強した事がないので体系的な知識があるわけではない。それでも純文学から大衆文学まで代表的な作品はいくつか読んだ。三島由紀夫金閣寺を読んだとき、それが長いこと評価され続けている理由が少し分かった気がした。三島が捉える人間の劣等感、罪悪感、背徳感といった心理描写に僕はとても惹かれた。小林多喜二蟹工船・党生活者』は文学の政治性という観点を与えてくれたし、当時の共産主義運動に関するリアリティを感じ取ることができた。ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎『見るまえに跳べ』は、一人の男子大学生が生々しく揺らぐ現実を生きる姿を描いたものだ。

 一方の大衆文学では、内館牧子十二単衣を着た悪魔』というタイムトラベル系のSF小説が深く記憶に残っている。時代背景としては平安時代の貴族の暮らしを描いたものなのだが、作品の本質はうだつの上がらない三流大学卒のフリーター青年がその暮らしを経て成長し変わっていく姿にある。ところどころで自分と主人公を重ねてしまい夢中になって読めた。文体の自由さに衝撃を受けるという経験は、中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読んだときが初めてだった。一見して意味不明な単語の羅列に見えるそれが、全体を通してみると意味が浮かび上がってきて、夏休みに秋田から帰る電車のなかで中島の「言わんとすること」を読み取るのに必死になった。有川浩の新作『明日の子供たち』は、今までの有川の作品のテーマであった恋愛モノではない、児童養護施設を舞台にしたシリアスなものだった。これは大衆小説でありながらも様々な意味を含んだ社会的主張である。児童養護施設での犯罪事件が現実で起きていることを踏まえて読む必要はあるけども、それでもしかしこの作品は家庭問題に対して真摯に向き合うものだ。最近読んだ小説のなかで一番のおすすめである。

 どうでもいい話だが、僕はフィクション小説が書けない。というか書いたことがない。僕が書けるのはノンフィクションだけである。そこでノンフィクション小説を二つ紹介したい。開高健『輝ける闇』は、ベトナム戦争が起きている当時に作者自身が現地のアメリカ軍に帯同した話だ。僕自身がベトナムに訪れたこともあって、とても具体的に想像を膨らませながら読むことができた。血生臭さや泥まみれのゲリラ地帯を緊張感いっぱいに感じたし、あの蒸し暑い湿気すら肌に感じられそうな一冊だ。次に、震災直後の被災地の人間模様を扱った石井光太『遺体』については、これまた僕自身の経験に照らし合わせながら読めた。震災当時、僕は高校卒業直後で直ぐに仙台を訪れて市のボランティア活動に参加したけども、あの時に僕が見た異世界の風景のなかであの緊急事態を過ごした様々な人たちを巧みな文章構成と言葉で追随する著者の力には驚嘆してしまった。

 唐突だけれども新書が僕は好きだ。より正確に言うならば、新書のサイズ感が好きだ。1テーマで200~250ページぐらいのサクッと読める感じがとても気軽で良い。最近の話題に絡めるならば、「イスラム国」は全世界の注目を集めているけども、日本人にとって中東世界はとても遠いように感じる。ヨーロッパよりも距離的には近いが心理的には遠い。そこで、酒井啓子『<中東>の考え方』はアメリカ寄りの報道しかしない日本のマスメディアによるイスラム観を変えるのに有効だ。イスラム3.0の潮流を歴史的な観点から理解することができるようになっている。一転して教育分野についてだが、苫野一徳『教育の力』は思想的な文脈から教育を眺め、そして現在の日本の教育問題に対して非常にリベラルかつ生産的な提言を行っている。教職課程の学生や学校の教員は一読すべき本だと思う。中根千枝『タテ社会の人間関係』を新書と位置付けていいのかは疑問だ。古典的新書とでも言えばいいのだろうか。日本とインドの人間関係を比較社会学の見地から分かりやすく述べてあり、発刊からだいぶ時間の経った今でもいかに日本社会の体質が変わらないのかに気付かされる。社会学部とかだと課題図書にされていることがあるらしい。一時期で話題になった小平の住民投票を覚えている人はいるだろうか。哲学研究者 國分功一郎『来たるべき民主主義-小平市都道398号線と近代政治哲学の諸問題』は、政治領域における学問的知識と市民的な実践を結びつけるための本だと思う。ちょうど今は「民意を問う」衆議院選挙の直前だけども、民意という抽象的な存在が云々だとかではなく、住民という具体的な主体の望みが政策に反映されているのかについて疑問を持ったことがある人もいるはずだ。小平住民投票の出来事を通して國分はその問題に切り込んでいる。政治に対する市民活動に興味がある人たちは必ず読むべき一冊だし、これを読んだ某地方自治体職員いわく「行政に関わる職員、特にこれからの若い職員はこの本に書かれている問題に直面するはずだ。公務員こそがこれを読む必要がある」と評価していた。

 

 最近やっと読めるようになってきた難しめの専門書はだいぶ省いたけども、印象に残っていて単純に面白いと思いながら読んだ本をざっと紹介してみた。ところで、読書は二重の意味で旅と近いものがあると思う。本のなかの虚構的な世界を旅するということと、そして本によって変化した認識や観点から見る現実の世界がその時々で違って見えること-・・すなわち自分の目の前で世界が旅することである。

 読書をしたこの1年間は、旅をしたあの1年間と同じぐらい変化の激しい年だと僕は思っている。これが成長なのかどうかは知らない。社会の時流に適応した変化なのかどうかも分からない。分かっていることは、本を読むことを通じて僕がたくさんの世界に触れて、そこで感じたことが僕を変えていくことである。読めば読むほど加速度的に自分の思考にドライブがかかり、今まで見えなかった事や考えなかった事が突如として浮かんでくる。

 僕がこのような1年間で得たのは、インターネットに溢れかえる切り売りの情報をコレクションしたような知識ではなく、本という大きな世界が紡ぐ物語へと没入することによって内面化された知性だ

 

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郊外の共同体、マルクス的解釈

・はじめに

 高度経済成長期を経て日本全体が都市化の一途を辿り、核家族やホワイトカラーや郊外のニュータウンなど現代的な生活スタイルとも呼ばれるそれが当たり前になって久しい。団地の多い東京郊外で育った著者自身にとってはもはやそれこそが故郷であり、日本古来の農村・漁村の共同体の暮らしなどは歴史の教科書の中でしか知らない。

 ただしそれは著者の主観的な「日本像」でしかなく、もちろんそういった暮らしは現在でも地方に行けばいくらでも存在するだろう。そこで今回は日本の地方性ではなく都市の郊外性の問題を扱う。さらに限定して言えば、土地からも他者からも切り離された核家族が住まう都市社会について、そしてそこでも「地元」という観念を形成していることについて考えてみようと思う。

 

・郊外と団地、その背景

 都市郊外における地元という観念は、まずその暮らしと密接に関係していると言っても過言ではない。そこで以下に暮らしの中心である住居の様子とその背景を考察してみる。

 1950~1970年代に都市周辺で計画的に建設された「集合団地」は、水洗トイレやキッチンや風呂やベランダなどが部屋(家)に取り込まれ、近代的な暮らしの象徴として当時は羨望の眼差しを浴びた。

 この背景には日本が高度経済成長期にあり、さらには1950年の朝鮮戦争により重工業の需要が拡大、そして固定相場制による円安での輸出有利な状況が経済状況を敗戦の惨状から引き上げた。そうして国民総生産が世界2位を記録し、国民の生活は物質的には一気に豊かになっていく。具体的には「三種の神器」が有名だが、要は暮らしの中にモノが増えていく傾向にあった。

 こうした日本の経済成長と具体的な暮らしの向上に伴い、都市部の人口が過密になってきたことを受け、都市の周辺である郊外に「ニュータウン」と呼ばれる計画住宅街が開発された。この住宅街は現在でも見ることができるが、それらが建設された以後に生まれた著者にとっても少し不気味な感覚を与える様相をしている。

 というのも、幾何学的に線引きされた区域に全く同じ形の建物が何棟も並列され、そしてそれらは番号で区分されている。この均一性は当時の社会状況をもっともよく反映していて、つまり60年代の日本では自らの経済レベルを中流と答えた人が世論調査のうち8割を超えたという事実を象徴して「一億総中流」という国民意識があったように、同質化もしくは水平化された暮らしという集団的な意識の表象として集合団地の形相を見ることができるのである。

 中流的な意識を基礎づける原因は、やはり生活の内部に電気機器の充実し始めたことが挙げられるだろう。しかしより根底的な原因はアメリカに向けられた憧憬にある。戦後ではあるが戦争経験者がまだたくさん生きていた頃は、各人がどんなレベルであれアメリカに対する劣等感と、そして父的な存在という認識を持っていたと推察できる。なぜならそれは「追いつき追い越せ」という大衆の人口に膾炙したキャッチフレーズのとおり、追いつくべき相手=アメリカが社会や世論における判断基準たりえる存在であったことを示している。

 ところで、日本がこうした後追いの感覚を国民全体が感じたのはこれが二度目である。一度目は言わずもがな、明治維新であり、文明開化であり、国家体制の革命的な変化であって、そしてその二度ともが外圧的な原因による変化だ。つまりこうした国民意識の向上感ないし変化は、欧米という父的な審級の下にあったと言えるだろう。

 さて、以上のような模倣の先に生まれたのが郊外の団地的な暮らしであるとするならば、団地を暮らしの中心としてどのような社会があったのだろうか。

 

・コミュニティの条件

 生活様式や経済レベルが一定の水準で均質化したという話を踏まえて、そうした社会における都市郊外の社会的なコミュニティとはいかなるものだったのか。まずそもそもコミュニティの構成要件としてどんなものが考えられるのだろうか。

 コミュニティとはまず複数の人が必要であり、それらが集合する場も必要である。さらにそうした存在と空間とには何らかの「括り」が存在するはずで、つまり「私たち」を他者と区別するための事実もしくは観念が必要である。

 わかりやすい事例として日本の旧来的な農村共同体を挙げるなら、老若男女で構成される親戚同士や一族郎党が田畑の周辺にコミュニティを形成しており、農作物の生産に合わせて暮らしが営まれていたはずである。だからこの場合の「括り」とは、「生産」を中心とした農村という空間と「事実」としての血や姓だ。またこの共同体を保つための規範には、伝統的な道徳観、性別や年齢ごとに振り分けられた役割、農業を営むための生活リズムなどが考えられる。

 では一方で郊外の団地的コミュニティとはどのような様相になっているのだろうか。まず上記の農村社会とは決定的に違う部分を挙げるとするならば、それは中心であるはずの生産がそこには無いということだろう。つまりドーナツ化現象が起きている都市部において郊外とはベッドタウンであり、まさしく「寝に帰る町」なのだから、この暮らしに生産は内在せず外部にある。否、この場合は現代的な都市社会を取り扱っているのだから、もはや直接的な「生産」ですらなく「労働」と言った方がより正確だろう。

 そしてまたこの空間における人々の形態は最小単位での核家族であり、団地という集められた上で寸断されている状態であった。すなわち親しくない隣人が密集していると考えれば、そこから連想できる「よそよそしさ」は、農村共同体における厚かましいぐらい「親密さ」と対照的に映るだろう。

 ここまでをまとめると、団地に住まう人々の空間とは核家族が画一的に並べられつつも、それらが生活の空間において統合・交流することはなく、さらにはその空間を秩序付けるような中心的営み(=生産)が欠落している。それではもはや空虚に感じられるこの空間ではコミュニティは形成されないのだろうか。

 

・学校による共同体

 以上で考察した現代の問題は、核家族ごとに分断された状況と外在的な労働は共同体的な社会として人々を統合して秩序付けることができないことであった。しかしそのような状態にある郊外にも共同体というほど緊密な関係ではないけども、確かにコミュニティは存在する。

 共同体の中心であった生産が不在であるのは田畑が無いからだが、それを代替するのは「学校」であり、そして家族<ウチ>を他者<ソト>に接続するために媒介する者は「子ども」である。言い換えれば分断され固定化された最小単位の社会を「ミックスする」ような装置こそが学校であり、そしてそこへ放り込まれ他者を引き連れて帰ってくる者が子どもだということだ。

 ここで言う学校とは義務教育課程までの公立小中学校のことであるが、なぜそうなのかというと、本来は土地に密着した生産から切り離された人々が、再び土地に帰着するための場こそ「地元の学校」だからだ。そして学校というのは農業のように自然な時間の流れがあるわけではないが、しかし人為的に管理され決められたスケジュールが存在し、必然的に子どもの生活が規定されてくる。となると、家族の暮らしにもその時間の流れが影響してくる。畢竟、生活に時間的な秩序が生まれ、さらには学校における子どもを媒介して人々がゆるいコミュニティを作るようになる。もちろん上記では学校を取り上げたが、学校の周縁にもそのような効果を持つ「場」が存在する。具体的に言えば、塾やスポーツクラブや公園や学童クラブなどだろうか。

 そのような場において子どもは共同体を作り上げる。たとえば赤ん坊は自分も世界も全てが接着しているように認識しているからこそ、自分の指を舐めて自分の輪郭をつかむ。それと同じような感覚を引きずっている子どもは未だ他者を他者として、つまり断絶こそが前提であるという認識が足りておらず、思いやることができない。思いやるというのは、一見して優しさであるように思われるが、しかしそれは冷酷な断絶が自分と相手の間に横たわっていることを言明するに等しい。

 つまり子どもは無邪気であり無配慮であるからこそ、無作為に他者と接続し、共同体的な関係のネットを構築していく。ここでの共同体というのは学校での半強制的に接続された関係を基盤にして、さらにはその周縁でのつながりも含めたものであり、各人の傾向性から生まれる固定的な「友人関係」とはまた別のものだと考えられる。

 以上のような考察から導き出される共同体を「地元」と呼ぶことにし、以下に地元という観念について詳細に考えてみることにする。

 

・地元という共同想像

 旧来の共同体において、その中心は農作物の生産にあると前述した。その生産過程こそが共同体の時間的秩序を規定し、さらには人間関係におけるそれぞれの役割をも措定する。もう一方の近代的な共同体、つまり地元という共同体においては学校が関係の中心として代替されるのだが、そこでは一体何が生産され、そしてその生産関係を保つ社会的装置としては何が存在するのだろうか。

 しかしそもそもマルクス的な解釈によるならば、労働や生産が共同体的な暮らしの外部へと移行した時点でその場には文化や政治的なやり取りという上部構造しか残らないはずである。もちろんその場における主体は現代の子どもなのだから、マテリアルな交換関係を持つはずもなく、大前提として労働という観点は存在しない。それにも関わらず、現代の郊外における共同体を取り結ぶのは子どもたちなのだ。では、共同体としての中心的な場(=学校)はあるのに、そこでは何も生産されていないのだろうか。(=下部構造の不在)ここに素朴な疑問がある。

 まずマテリアルな何か(=商品)の生産の目的とは社会的な発展にある。もう少し言えば人の生活が豊かになっていくことを目指している。だとするならば、こちらの地元的な共同体の目的とは何だろうか。それは共同体における主要な主体である子供の成長にある。しかし成長という概念(より厳密に言えば「変化」)は教育的な目的である学力や身体能力の発育にのみに限定されない。だから教育的な目的を持つ場というのは一つの社会的装置でしかなく、ただし子どもを媒体として構築される地元的な共同体においては中心的な存在である。とにかくそうした様々な場において、より本質的に子どもの成長を規定するものの総体として挙げられるもの、それは「記憶」である。

 なぜ非物質的な記憶なのかというと、商品の交換関係が欠落した共同体にあって、それでもその関係のネットを保つものとして考えた結果である。ただしこの記憶というのは個人の思い出ではなく、共同体としての間主観的な記憶である。言い換えれば、一人の子どもが成長していく過程の記憶を自分個人の思い出からはみ出て、ほかの誰かとの関係にまたがって想起される記憶だ。そのようにして、子どもが介在する場において行われる事の目的がいかなるものであろうと、必ず副産物として記憶が生成され、更にはそれらが子どもの周辺の人間関係にも共有・交換される。以上のことから地元的な共同体は、具体的な個体や団体の意志とは関係なく、記憶の生産が擬似的な下部構造として機能するのだ。

 となると、学校を中心的な場として生産される「こどもたちの記憶」を基底にして造り上げられた社会的文化的な諸関係であるところの「地元」とは、相関的に織り成された間主観的な共同想像ではないだろうか。だから記憶の生産を行う場(=学校)が無くなった場合には(=卒業)、社会的な利害関係を含む地元的な共同体は解体される。下部なき上部は崩壊し、そこにはただの友人関係しか残らない。

 郊外における共同体は以上のようにして限定的な存在でしかなく、子どもが一定の成長を遂げた途端、つまり義務教育の終了から20代前半という過渡期において再び人々は土地(=地元)から分断される。理由は「進路」という名の人生的な分岐点が子どもたちには必ず訪れるためである。これは学校における空間性と時間性の規則によって統御されていた生活の秩序が、それぞれの家族ごとに分化していくことを示している。

(*共同想像とは、吉本隆明共同幻想という概念とは別の造語であり、もし共同幻想を使うとこの文章の論理と矛盾するためにあえて別の言葉を使った。)

・終わりに

 この文章は始まりでしかなく、地元的な共同体以降の話も考えている。実際の社会問題として「居場所」や「繋がり」という言葉は良くも悪くも話題にのぼるわけで、社会における見えないソフトな側面について考える事は今後とも重要だと思っている。

 

 

休学とこの時代

・はじめに

 「世界が慌ただしい」

 そう感じるようになったのは、僕自身が少しばかりモノを知るようになったからかもしれない。どの時代も様々な変化があり、年がら年中“激動の時代”と言われてきたのだろう。しかしそれにしても、この時代は今日の大学生にとってかなり変化の大きい時期なのではないか。そんな素朴な思いがあってこれを書こうと思った。

 例えば世界の世界化がその姿を全面化させつつあり、さらにはダイナミック産業としてのITが経済活動全般にとって無くてはならない覇権を握り、学校社会の内部に生きる若者たちに強い影響を及ぼしている。そんな状況の中で、ある種特異な選択肢として存在していた「休学」の意味も変貌を遂げつつある。そこから見る日本社会とはどのようなものだろうか。

 以下に始まる文章は決して客観的な妥当性を有するとは言えないが、とにかく休学という現象が世間一般にある程度の固定された共通理解を得る前に、休学についての現状分析と、今後の予測をして先駆的に問題提起を企むものである。もちろんあくまで学部生の立場から考えうる範囲の話題を取り扱う事となり、しかしそれこそが重要なのだと信じる。

 概観としては、大学生を取り巻く時代、大学生が所属する大学機関、社会現象としての休学、そしてそれら三つを踏まえた自論を述べる。

 

1章 大学生とこの時代

 月並みな話題から始めると、グローバリゼーションの影響力は大学生の様々な事情にも波及しているのだろう。まず事実として、大学生の生活をある程度規定する大学機関や文部科学省は「トビタテ留学JAPAN」や「スーパーグローバル大学創成」など、様々な形でこの世界的な時流に対応しようとしている。

 この大学事情を取り巻く大きな文脈として、アメリカ的な市場自由主義の世界化による資本の流動的な状況がその根底にありそうだ。つまり人・モノ・金が国境を越えて移動する、という原理が日本国内の様々な場面に浸透しているということである。

 上記のような状況にあるこの時代において、国内の反応はやや慌ただしく、そして様々な困惑を引き起こしているように思える。ここで大学生自身について考えてみるなら、ざっくりと二つの反応に切り分けてみることができる。つまりこの状況に対して「乗るか反るか」というような「海外に出るか、国内に留まるか」の二つだ。もちろんその状況をどの程度のレベルで認識&問題視しているのかにもよるが、全く知らないということはさすがにあるまい。

 これについての各人の問題意識の強弱は、かなりの部分でキャリア意識に依存・関係するだろう。なぜならほとんどの学生にとって共通の関心事であるはずの「シューカツ」は、直接的にグローバリズムの影響を受けるからだ。ビジネスや教育関連のニュースでは“グローバル人材”という中身がまったく空洞な概念をひっきりなしに称揚しているわけで、その喧騒は学生の耳に届かないはずがない。大学生自身もTOEICで高得点を取得するために勉強するなどといったリアクションを起こしている。そしてこういったことをはじめとしたグローバル化の影響力をどの程度で問題視するのかについては、もちろん様々な判断基準があるだろうが、その根底には価値観の対立が存在するのではないだろうか。

 学生の価値観、特にキャリアに関する価値観には時代の変遷が大きく関わってくると考えられる。これは中根千枝の概念を借りるなら、「場」におけるタテの関係を基盤とした共同体主義-学歴主義的なキャリア観と、「資格」におけるヨコの関係-大学区分を超えたある種の個人主義的なキャリア観という二分が可能だ。しかしこれでは分かりにくいので言い換えると、「所属からキャリアプランを考える」という価値観と、「行動した事からキャリアプランを考える」という価値観だとひとまず定義しよう。

 言わずもがな、前者は旧来的かつ保守的な立場にあるのに対して、後者を現代的とは決めつけないまでも、市場自由主義的な労働観によく合致した考え方であるように見える。この二つが個人の中でどのような比重になるのかによって、大学生活の過ごし方というのもある程度変わってくるのではないだろうか。これがこの時代に「乗るか反るか」という問題に大きく関わってくると思われる。

 

2章 大学機関の様相

 ここまでで述べた学生事情、特に個人主義的な学生が増えつつある昨今において、大学機関はその時間性と空間性の中で4つの役割を担っているように僕には見える。学問研究機関、就職予備校、ディズニーランド的な遊び場、若年層の失業者予備軍収容所、という区分だ。もちろん俗に言う「偏差値」の高低によってこの4つの役割の比重は変動する。

 本来、専門的な学問研究が行われる場であることは言うまでもないが、現実は就職率の高さをアピールしている大学が数多く存在し、特に受験生集めに必死な中堅以下のレベルの大学は就職予備校的な役割を強化していることは言い訳のできない事実だろう。本当に一部の大学を除けば、教育市場において売り手は大学であり、買い手は学生よりも親だ。もちろん子どもが100%親の言いなりに従うということはあまり無いだろうが、親の影響下にあることは確かであり、学費を出すのもほとんどの場合は親であるのだから、子どもの将来を思えば評判の良い大学(=就職率の高い大学)に進学させたいというのが普通だろう。こういった役割が強い大学ほど「グローバル」や「人材育成」という言葉を多用する傾向にあると思われる。

 3番目にディズニーランド的な遊び場と書いたが、これは昭和時代に盛んに揶揄されたようにモラトリアムな時間を過ごせるという事を指している。この現代でも世間の大学に対する一般的なイメージとその内実は、細かなところに変化はあるかもしれないが、性質としてはあまり変わっていないように思う。

 露骨な言い方をした4番目は、内部では「動物園」と言われてしまうことが多々あるほど学問的教育が難しい状況にある。しかし、もしそういった大学が無くなったら労働市場が供給過多になってしまい、失業者が続出するだろう。こうした大学では傾向として、一般的に知られている「仕事の役に立つ」ような分野を実学と呼び、受験生集めのキャッチフレーズにしている。だからかなり2番目に近いような状況にあると言えるだろう。ただし偏差値的に低い上に定員割れになってしまうことがあるようなので、少子化の流れを考えると今後淘汰される可能性が高い役割だと考えられる。

 以上で考察した四つの役割はどれも大学ごとに明確に棲み分けがなされているわけではなく、ただそれらの役割が比率を変えながら存在しているという話である。感覚としては、1番目の役割が主軸の大学は一部であり、2番目(+4番目)の役割が急速に拡大していて、その全体に3番目が根強くかかってくるというような様相だろう。

 

3章 社会現象としての休学

 「社会現象」だなんて大袈裟だと思うかもしれない。そもそもゼロ年代以前の休学というのはまず個人的なものであり、そして本来ネガティブな理由で取得する時間として社会一般には認識されてきた。そして現在でも依然としてそういったことに関係する理由で休学する人が休学者の大半だろう。しかしそういった印象や比率が徐々に変わっていく過程こそ、この今であると言いたい。

 はじめに、休学の定義とは学校を休み自分の時間を確保することである。とにかくこれが休学とその他の選択肢との決定的な違いだ。その時間を確保する事によって学校社会から束縛される事がなくなる。そしてどんなやり方・どんな発想であれ、その休学期間をどう使うかについて考え出した時、それはベルトコンベア式の人生選択から離れて、これからの人生を“自覚的に選択していく”ということを既に始めているのと同じ事である。ここで言う休学は、以前よりも活動的になる事を選択するということに限らない。実際にネガティブな理由での休学者の数は圧倒的に多い。病気による入院や、精神的な問題によるひきこもりを行っている人にとって休学は無くてはならない選択肢である。外界のストレスを遮断して、まずは休む時間を確保し、ゆっくり自分と向き合う必要があるのだ。

 一方で、能動的な休学がポジティブな意味の市民権を得つつある、つまり理由がポジティブであったとしても、しかし分散していた内密で個人的なものとしての休学から、集団的なひとつの流れを作りつつある理由として二つの根拠が挙げられる。前章で述べた価値観の時代的変遷と、そしてITの普及に基づく情報化社会である。

 まず、グローバリゼーションによる労働市場の国際化を察して、「乗るか反るか」という話題を初めにしたが、2番目の大学の役割である「就職予備校」に影響を受けている学生にとっては、これがかなり重要な問題である。つまり「シューカツ」でいかに成功するかを重視している学生にとっては、学問研究の価値は低く見ており、極端に言えば一般教養や学問として専門的な分野の授業のほとんどの時間を無駄だと感じている。

 ここで持ち上がる選択肢こそ「休学」である。その中でも留学はまず常套手段だと言えるし、もしくはシューカツに対して有効だと考えられているインターンは国内外関係なく今後より一層広がっていくだろう。そして旅やボランティアなどのソフトな選択肢も「学外での経験」という意味で学生には好まれやすい。学内での勉強よりも学外での経験を優先したいというわけだ。

 しかし本当の事情はそんなに単純な構造ではない。というのも、休学という時間は、シューカツそしてキャリアに対する意識を再帰的に強化するのだ。つまり休学前のキャリアに対する意識がどのような状態であっても、休学して学校社会を離れ、別の社会や人間関係や新しい機会に投げ込まれることによって、学校内にとどまっていた自分の人生を相対化する視点が生まれるために、それまでとは別の考え方でキャリアについて関心を持って考えるようになる傾向があるということである。

 こういった一連の流れが全ての休学者にあてはまるとは決して言えないが、しかしこのような流れに合流する学生が増える理由に、ITの普及に基づく情報化社会の影響が挙げられる。この時代を学生として過ごしている人たちは90年代生まれがほとんどであり、デジタル・ネイティブな世代である。TwitterFacebookなどの個人発信系のSNSの利用は「当たり前」なのだ。

 これが何を意味するのかというと、アメリカの法学者キャス・サンスティーンが提唱した「集団極性化」(サイバーカスケード)に近い現象が、学生の利用するSNS上では特にその効果を発揮しやすいということである。

 ポジティブな理由での休学者たちは、存在としてはマイノリティであるが、しかしある種「胸を張って」休学をしているのだから、インターネット上で自分の経験などを自発的に発信する傾向にある。そうすると、たとえば休学者が同じ学科で1/100の状況であったとしても、10万人の学生のアカウントがあるSNSならば1000人の集団になる。このことにより同質性の高いコミュニティが生まれる。事実として、ポジティブな休学者は大体が留学か旅かインターンかボランティアなどであり、それらの界隈ではだいたいの人が誰かしらと繋がっている。学外の広い世界に出て行ったはずなのに、皮肉なことに休学界隈という言葉に表せるぐらいには狭い人間関係が形成される。

 ただしこれは分断された個別者がマイノリティと呼ばれる程度には集団化したからこその状況である。ベルトコンベア式の教育システムと労働市場の競争の激化が今後も続く限り、休学をバイパス的に利用する学生は増えていくだろうから、将来的にはこの選択が一般化し、集団がより拡大していく日が来る可能性も十分にあると言える。

 

4章 休学に自由を求めて(自論)

 まずここまでの考察は実際のところの統計データが皆無の、見聞きした経験から来る考察であったことを再度確認として述べなくてはならない。しかし妥当性を全く欠いているわけでもないはずだ。

ここからは前章で述べた「ポジティブな理由の休学」という部分的かつ分かりやすい現象を切り出し、さらに詳細に説明してから、それついての問題提起を行いたいと思う。便宜上、以下に続く休学の意味はポジティブな時間としたい。

 休学はしばしば次のように解釈される。「学校社会や不自由な教育システムに対するアンチテーゼだ」と。だから学校社会とは違う世界として真っ先に思いつく「海外」・「会社社会」や、時間的な不自由の対立関係にある「自由」といった観念が休学には強く関係してくる傾向にある。

 こうしたイメージを背景に、学生の休学を前提としたビジネスが最近になって急激に増えてきた。ボランティアやインターンや私費留学プログラムの斡旋などはその最たる例である。こうした個別の事例はそれぞれまったく別の内容に見えるが、しかし時代的価値観に照らし合わせてみるとそれらは以下に説明するように、とても合目的的な手段だと言えよう。

 上記の手段を象徴的に表していると思われる「戦略的休学」というフレーズは、インターンプログラムを企画・斡旋している某会社の宣伝文句だ。そう、戦略的なのだ。つまり何が言いたいのかというと、休学は学校社会に対するアンチテーゼであり、様々な道に開けた選択肢であるはずだが、しかしこのフレーズはその本来の意味を変質させている。否、矮小化させつつあるとハッキリ言おう。

 もし休学が戦略だとするなら、その戦場はどこだろうか。それはもちろんこの資本主義世界だ。そしてその戦略の根本原理はたった一つ、学生のうちから労働市場での自分の価値を高めておくことである。休学の選択や休学における経験が、労働市場の需要(グローバル人材やリーダーシップなどという偶像)に合わせてその姿を意識的に変えつつあるのだ。

 この文章の意図が明確になってきたので改めて書くが、休学は個人主義的な価値観の下で旧来の消極的な意味から離れて再構築された選択肢である。つまり同質化された学歴単位の価値観や人生観を自由に変化させることが可能になる広場的な時間であるべきなのだ。          

 学校社会の文脈にある自分を一旦客体化し、様々にある別の文脈に対して選択的もしくは複線的に主体化する一連の路線変更の流れの中で、今まで考えもしなかったこと考えるということ。つまり不安になるほどの「自由」な場所から、他者によって恣意的に固定化された思考形式に囚われずに、自分や世の中について考えて悩めることこそ休学の真価と言えよう。休学の選択における態度までもが「お客様」に留まるのであるならば、それは果たして「やらされる」ことばかりの学校社会と何が違うのだろうか?

  だから「戦略的休学」などというイメージ化は批判されるべきなのである。企業や市場の論理は学生の人生を真に捉えているわけではない。あくまで学生は顧客であり、休学を新たな市場としたいのであろう。この宣伝文句は休学の社会的記号を市場主義的価値観へと画一的にして組み込むことと同義である。

 休学は自由という概念と同様に、その実態は空虚であって、そこにどのような意味を与えるのかは、学生自身の傾向性における比較と選択に基づかなくてはならないのだ。(注:インターンプログラムが悪いというわけではなく、広告による恣意的なイメージ操作に対する批判である)

 そもそもの大きな現実の問題として、日本経済全体がより市場自由主義的になりつつある昨今では、上記に述べたような市場主義的価値観への一元化とそれによるコンフリクトが大学を含めて様々な場面で起こっているはずだ。このことについて対象を学生に限定して言うならば、発想の引き出しや行動原理がビジネスライクなものに偏向し、会社社会やグローバルな世界だけではない本当に多様で複雑な世界を見渡す視野を得る機会を失い、さらには本来の大学生として学ぶべき専門知識は何一つ手に残らず卒業していく、などといった可能性を大いに孕む。

 この帰結が少なからぬ可能性として存在してしまう理由はいくつかあり、たとえば平成時代の停滞した世俗の風潮、つまり90年代生まれの学生たちがある程度の自我と判断力を持ってこの世界を生き始めた頃というのは、05年までの深刻な就職氷河期に始まり、08年のリーマンショックによる経済混乱や、10年に長年の与党であった自民党を破って誕生した民主党政権が11年の東日本大震災によって無様に崩壊したこと、12年頃から強く問題視されるようになったブラック企業問題など、若者の実存的な生活環境に対して直接的に働きかけるネガティブな出来事が毎年のように起きていた。

 こうした時代というのは、各個人がどんな思想や信条であれ、生きることにおける幸福を漠然とした不安と徹底したニヒリズムの下で各々が考えているように思える。言い換えれば、自分の生活領域における不安要素をいかに排除して安全地帯を確保するかということである。つまり「大体の不幸はお金があれば防げる」という価値観がまるで絶対かのように見えてくるということだ。そのような文脈の上に浮かび上がったのが「戦略的休学」だと考えられる。

 しかしこの時代における市場自由主義とは個人主義と本当に合致するのだろうか。市場自由主義的なイデオロギーが、個人の自由を不自由なモノに改ざんしているのではないだろうか。つまり市場自由主義はあくまで市場の自由でしかないのだが、しかし大勢の個人を自発的に「市場至上主義」へと扇動しているように思えるというわけだ。

 こうした「なにがどうであれ市場の需要を優先する」という考え方を内面化する個人が増えていく世の中は、ある部分では多様性を失っていく方向にあると考えられる。このような画一化を防ぐための一つの手段として、休学は個人の自由を啓く“新たな可能性”を持つ社会的装置だと「改めて」定義したい。

  もちろん休学とはあくまで休学であり、有限の時間でありながらも、しかし内面の変化に予定された帰結はない。だからこそベルトコンベア的教育によって思考停止的な状態にある狭窄な視野や停滞した心的成長に対してなんらかの変化が期待できるのではないだろうか。

 そう、僕ら学生は工場で造られる商品じゃない。合理的な行動しかしないロボットでもない。ひとつの人格があり、感情を持ち、各々の内面には独自の時間の流れがある。休学というものは学校社会の隅に咲いた徒花でしかないかもしれない。しかしだからこそこれからの時代を創っていく多様な生き方を育む土壌となるのだと僕は主張したい。