介入という名の暴力

 暴力。それは一般的には物理的な「殴る」「蹴る」などになる。他には、いじめなどで用いられる「言葉の暴力」や(集団的という意味での)「数の暴力」、あるいは社会的な支配関係の構造を身体化させる「象徴的暴力」(P・ブルデュー)などがある。

 ともかく暴力と名が付く行為は、時代や社会ごとにその様態は多種多様であり、しかし暴力性そのものにおいては人間の普遍的な性質と言えるだろう。言い換えると、自分を社会的な人間だと自認するあなたは必然的に暴力性を有していることになる。「何を失礼な。私はそんな野蛮な性質とは無縁だ」と今もし思ったならば、非常に申し訳ないがそれは傲慢であろう。その理由を語り始めるととても長くなるので端的にだけ言っておくが、要するに僕らは生きるために「場所」を占め、「モノ」を奪い取り、間接的にでも「人」を使って、そうやって日々を過ごしている。そうした生活の原理に暴力性が介在しないと言い切れるのならば、まぁ得意げに善人面をしていればよいと思うが。

 生活、そう、話は生活である。生活一般において、僕らは他人との関わりなしに全てを完遂することができない。当たり前の話だが、他人と共に生きていくことは不可避なのだ。親をはじめとした家族や親類、学校の先生や同級生、仕事の同僚や上司や顧客、知り合いや友達、恋人や夫/妻、そして子ども。ありとあらゆる人間関係の中に放り込まれて、僕らはその中を、摩擦と軋轢と疑惑と恐怖と倦怠と不安と苦痛の蔓延る中を、なんとか生きていかねばならない。

 ところで、人間関係を上記のような否定的な言葉で表すことに疑問を覚える人も多々いるだろう。僕だってもちろん人間関係の全てが最悪なものだと思っているわけではないし、これはマイナスの方向へあえて誇張してみただけだ。ただしそれは誇張に限らない。というのも、これらのネガティブな状態は全ての人間関係に潜在しているからだ。いついかなる問題が起こるとも限らない。あるいは自分が良好な人間関係だと思っていても、相手方はまったく真逆の心理を抱いているかもしれない。むしろこうした「勘繰り」がこの現在の社会心理、つまり疑心暗鬼になって他者を怖がる心理が一般的ではないだろうか。

 それだからこそ人々は言う。「良い悪いも人それぞれ」、「他人の重い話には触れてはいけない」、「本人の意思が大事だから他人はあまり意見してはいけない」と。要するに、批判を受けることのない「穏当な他者」でありたいという気持ちから、まったくその通りの正論が導き出されて、そうして傍観者の立場も同時に正当化される。

 この時代においては、人間は案外簡単に孤立する。孤立というのは、状況の事実を指すのではなく心理的な意味でのことだ。自明の正しさや、絶対的な共同体や、超越的な権力が破綻してから随分と久しいこの現在、僕らに唯一残されたのはバラバラに砕け散った世界だけだ。僕は何も大袈裟に言っているわけじゃない。自分自身に聞いてみてほしい、五年、十年、二十年、あるいは三十年、ずっと安定的に恒常的に続いた人間関係がいくつあるだろうか。いつの間にかプッツリと切れてその糸先だけが宙に漂っている人間関係の方が多くないだろうか。結局のところ、僕らはその場しのぎの人間関係を紡いでは放り出して、次の糸先に飛びつくしかない。実際そうやってコロコロと変わっていく状況を切り抜けているはずだ。

 さて、そんな社会ならば尚更のこと、他人の人生に深入りするのは、流行りの言葉で言うなら「コスパが悪い」だろう。そして前述した「正論」からも逸脱するだろう。僕らは他人に干渉することを忌避し、そして忌避される。どれだけ重大で深刻な話題であろうと、うまく誤魔化して曖昧にして皮相な笑い話にすり替えてみせる話術を僕はなんども見聞きしてきた。そうして全ての「シリアスな問題」は「コスパ」と「正論」の下に抑圧されていく。

 他人の人生へ介入すること。確かにこれはひとつの暴力である。もう少し具体的に言うならば、相手の人生にとって重要な意味を持つ人物や経験や価値観について、他者である自分が何かを言い、ましてや価値判断を下し、さらには行動を起こすなど、とんでもなく酷い暴力に他ならないだろう。まぎれもなく倫理的な罪悪である。しかし、では、全ての他者から距離を取って、いつ糸が途切れても構わないような人間関係だけを「コスパ」と「正論」によって構築して、ファストな居心地よさに身を任せていればいいのだろうか。少なくとも僕からすれば、それが辿り着く先は虚無でしかない。

 両極端な話だからあまり参考にならないかもしれない。が、しかし僕はこうも思う。自分の存在が、もしくは言動が、他人の心にどんな影響を及ぼすのかは、結局どちらにせよ分からないのだ。もちろんだからといって何を言ってもよいというのではない。ただ、他人の人生への介入が暴力性を持っているとして、あえて横柄な言い方をするならば「だからどうした?」である。その倫理的な後ろ暗さをも織り込み済みで、全ての結果と責任を引き受けるだけの自覚を両者が有する人間関係であるならば(そんな人間関係自体がこの時代には希薄かもしれないが)、他者の人生への介入は暴力でありながらも孤立からの救済への祈りになりえると僕は信じている。

 かつて、アルベール・カミュは「神なき聖人はありうるか」と言った。僕はこのカミュ的な意味で「祈り」の語を使う。祈るべき神などいない、ただ自分の介入が他者にとって善いものであるようにと他者に祈るだけである。たしかに神の暴力-介入は全能であるがゆえに全肯定されるであろう。神の怒りだの試練だの、そんな言葉ではぐらかされる災難は昔から多々あるのだから。しかし僕は全能ではなく不完全だ。もちろんそれをカミュは分かっていた。神なき聖人はありえないのだ。だからこそ不条理に生きねばならない。聖人の「ごとく」振る舞い、その無力と欠陥を曝しても、それでもなお介入という名の暴力をもって他者と向き合うしかない。祈りは届かないかもしれない、もしくはただの暴力かもしれない、でもだからと言って僕は目の前の他者に背を向けたくはない。